小グループで聖書を学ぶ
9 礼拝する所よりも礼拝者 (T列王記7:13〜51)

「心の門を開いて」

 神殿は、何のために建てられるのでしょう。何をする所なのでしょう。それは、神様にいけにえをささげる所、すなわち礼拝をささげる所です。神殿の付属物が、それをあらわしています。大事なことをここから学ぶことにしましょう。

「御言葉の種を蒔こう」

1 神殿の中で最も大きい付属物は、入り口の大きな柱です。柱頭を含めた高さは10m、周りが5mほどの巨大な青銅の柱でした。不思議なことに、この柱は、神殿を支える柱ではありません。ただ神殿の前面に独立して立てられていました。どんな意味をあらわしていますか。脚注の名前を参照しましょう。
・15〜22節/

2 ヤキンの意味は「神がたてられる」、ボアズの意味は「神は力強い」です。つまり、神様が民を支えて、神様が民のために力強く働かれるということです。私たちは、神様を褒め称え、礼拝するのですが、実は神様を礼拝する私たちが、礼拝を通して守られ、支えられているというのです。イエス様によって私たちを救ってくださったのですから、神様は、その御力によって私たちを支え、守ってくださるのです。これを知って、どう思いますか。
・ローマ8:32/

3 礼拝には、神様の臨在のもとで、命と力が溢れます。真心をこめて礼拝をよくささげるならば、死んでいたような人が生き返り、病んでいた人が回復し、力の無い者が力ある者に変わります。礼拝は、迷っている人々にビジョンを与えてくれます。使命感のなかった人が、命をかけて生きる道を発見します。神様の臨在は、私たちの欠け、愚かさ、罪を悟らせます。ところが、問題はこうした礼拝の力を体験できないことです。何を忘れているからでしょうか。前回の部分を参考にしましょう。
・T列王6:12/

4 礼拝とは、神様の御前に出て、御言葉を聞くことです。神に聴くことがなければ、クリスチャンは力がなくなります。心からの礼拝をささげなければ、聴かない生活となってしまうのです。御言葉に聞き従うことがなければ、人格は変わりません。御言葉を人生と生活に適用しなければ、力は生じません。聞き従わないと、傲慢になり道を失うようになります。どのような思いで礼拝をささげていましたか。


5 神殿の庭には、もう一つ特徴的な付属物があります。水を入れた水盤です。海という直径が4.4mほどの大きい水盤一個と、直径が1.8mほどの小さい水盤10個が備えられました。これらの目的は、何ですか。
・23〜24, 38〜39節/
・出エジプト30:18,21/

6 祭司や民が手足を洗って、きよめるために用いられたようです。その意味は、心をきよめて、神様の臨在のもとに来なければならないということです。神の臨在の前に出るという思いがなければ、礼拝は形骸化します。「神の御前に生きる」ことがクリスチャン生活の原則です。神の御前に立って生きることが、クリスチャンの人生の本質です。神様の臨在を意識しないまま礼拝をささげ、神の御前に生きるという思いを持たないで生活すると、どんな問題がおこりますか。どんな状態になりやすいですか。
・ローマ12:1〜2/

7 心をきよめるためには、どんなに大きな水盤がどれほど必要になるでしょうか。世にあるどんな水盤を用いても、罪から人をきよめることはできません。何が必要ですか。燭台の光は何をあらわしていますか。
・48〜49節,ヨハネ1:4〜5/
・ヘブル10:10/

8 神殿は、天幕と基本は同じですが、ソロモンの神殿には華麗な装飾と付属物、什器品に満ちていました。礼拝する場所や礼拝のための道具より、大事なのは礼拝する人であるということをソロモンは忘れる危険がありました。真実な礼拝をささげる最も良い方法は、礼拝者が霊的に整えられることです。御言葉の養いを通して神様をもっと深く知り、自分の人格と人生の変化を味わい、召命を受けた者となることです。神殿の付属物を設計し、作る指導をした人物が、わざわざ紹介されています。どんなおいたちの人ですか。
・13〜14節/
・U歴代2:14/

9 ヒラムは、複雑な家庭環境に育った人であっても、これだけのものを作れる研鑽を積み、信仰が養われていたのです。神様は、このような人を特別に用いられたのです。御言葉に養われ、霊的に造り変えられることが必要です。以前の姿から変えられた礼拝者によって、礼拝は変えられます。クリスチャンは、福音を体験し、福音に生きる者とならなければなりません。クリスチャンが不安、苦痛、倦怠、虚無感などを受ける原因はどこにあるのでしょうか。
・ヨハネ4:23〜24/

「命の実を刈り取ろう」

 礼拝において、生きておられる神様の取り扱いを体験できないところから来る欲求不満があります。神様の前に礼拝者として生まれ変わる訓練がされず、生活の中で神様を礼拝して行く人生観が無いからです。神様の臨在の中でささげられる真実な礼拝は、賛美一つだけでも、御言葉の養育の恵みを受けた者として、感激と熱心があふれます。御言葉を聞く時にも、生きた神の御言葉をむさぼり聴こうとし、感動して御言葉に従おうとします。礼拝は非常に大切な時間です。決定的な教会の鍵です。礼拝の中に、神の恵みが豊かに注がれます。礼拝は、そこに参加している人が決定します。あなたこそ、礼拝を生かす大切な鍵を握っています。どのように生きて行きますか。

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