小グループで聖書を学ぶ

12 危機の時の祈り (T列王記8:44〜64)

「心の門を開いて」

 人は、人生を歩む中で、身じろぎもできないような困難に出会うことがあります。閉じ込められたような絶望状態になる時もあるかもしれません。ソロモン王の奉献式の時ささげた祈りの最後に、そのような深刻な内容を祈っています。ここから危機や絶望の時の祈りを学びます。

「御言葉の種を蒔こう」

1 ソロモン王は、奉献式の祈りの終わりで、どんな状況を想定して祈っていますか。
・44節/


2 人にとって戦いというのは、実際の戦争だけではありません。社会で働く場合、職場が戦場となり、働く人が企業戦士となります。受験や困難な研究ともなれば、勉強も戦いです。家庭にも様々な問題が起これば、戦いの渦となることがあります。難しい人間関係ともなれば、まさに戦いのようです。そのような戦いの中で、不安や恐れも生じるし、倦み疲れることにもなります。あなたには、どんな戦いがありますか。



3 学校でも、家庭でも、社会でも、良心を揺るがす霊的戦いがあります。それぞれが戦いの場に出ているようなものです。戦いに出て、戦っている家族のために、どんなことができますか。どうしますか。
・出エジプト17:11〜13/


4 戦いに出て行くだけでなく、どのような状態を想定して祈っていますか。それは、私たちの人生においてみるならば、どのような状況だと言えますか。
・46節/


5 戦争に負けて、捕虜となって引かれて行くということは、もう回復の可能性がないということです。神様に罪を犯し、国が滅び、自分自身は捕虜となって、これ以上の絶望はないという悲惨な姿です。ところが、神の民には、生命力があります。まったく望みがない所から立ち上がり始めます。どんな祈りをするように勧めていますか。実際のイスラエルの歴史において、そのような場合、どうなりましたか。
・50節/
・U歴代36:22〜23/

6 南ユダ王国がバビロン帝国に滅ぼされ、民はバビロンへ捕囚となりますが、そこで悔い改めて、かえって信仰に生きるようになります。その結果、バビロンを征服したペルシャ王クロスによって、ユダの民は捕囚から解放されることになりました。なぜ神様はこれほどまで責任を取ってくださるのですか。神様は、イエス様を信じた私たちをどのようにしてくださると約束しておられますか。
・51,53節/
・ローマ8:31〜32/

7 祈りの中で、罪を犯す人間の弱さを認めています。罪を犯し、不信仰のために、戦いに負け、捕囚にされました。でも、捕虜となったことが問題ではなく、その時何をすることが大事であり、どう生きることが必要だと教えていますか。すべての人は、どうしなければなりませんか。
・47〜48節/
・ローマ3:23〜24/

8 ソロモン王は、エルサレムから民が戦いに出て行く所で、捕虜となって引かれて行く捕囚の地で、どのようにして祈れと言っていますか。今はその必要はないのは、なぜですか。イエス様は、ご自分を何になぞらえておられましたか。私たちは、何と言われていますか。
・44, 48節/
・ヨハネ2:19〜21,Tコリント3:16〜17/

9 神殿に向けた祈りは、イエス様を見つめる祈りであり、イエス様に頼る祈りです。今日では、イエス・キリストの名で、イエス様の十字架の救いの御業に拠り頼む祈りです。私たちクリスチャンがどこにおいても、集まって祈りをささげるなら、そこが神殿となる恵みの時代に生きています。そこでは、神様が私たちの祈りを聞いて、答えてくださいます。その恵みに応えて、私たちはどのような祈りをし、どのように生きなければなりませんか。
・マタイ18:19〜20/
・58節/

「命の実を刈り取ろう」

 御言葉に聞き従って祈ることが、イエス様の救いの恵みへの私たちの応答です。御言葉がどれほど強い力をあらわされることでしょうか。私たちが御言葉を信じて祈るならば、神様が必ず聞いてくださるのです。今日学んで分かったことは、イエス様を信じて祈る者にとって、決して絶望ということはないということです。ですから、どんな絶望に見える時でも、落胆しないで、望みをもって祈り、神様の助けと導きを願いましょう。希望をもって取り組むことを願います。今日の学びを通して、心に示されたことや決心したことなどを分かち合いましょう。詩篇40:1〜3。

戻る