小グループで聖書を学ぶ

1.御言葉と交わりにあるいのち(Tヨハネ1:1〜4)

「心の門を開いて」
 
 ヨハネの手紙とは、福音書と黙示録を書いた愛の使徒ヨハネが書いたと言われています。ヨハネは、エペソで牧会をした後、パトモス島に流刑となって、再びエペソに戻され、そこで牧会して生涯を終えたそうです。この書は、晩年に当時の事情を反映して書かれたものです。真理の書、愛の書と呼ばれているこの書から学びましょう。

「御言葉の種を蒔こう」

1 人の死に接し、人生を空しく歩む人をみる時、人の命とは何かということについて考えさせられます。死なない命を得ることでしょうか。思うままにできるのが幸いな命なのでしょうか。聖書はどのようないのちがあると教えていますか。(参考/ヨハネ5:24)
・1~2節/


2 一般に、世の人々は、人の命についてどのように考えているのでしょうか。そのようなとらえ方は、どのような思いにさせますか。(参考/ヘブル2:15, エペソ4:17)



3 「いのちのことば」とありますが、御言葉といのちについて、イエス様は私たちがどのように生きることを求めておられるでしょうか。
・ヨハネ4:32,6:27/
・マタイ4:4/

4 永遠のいのちは、誰にありますか。誰を通して、永遠のいのちにいたることができるのですか。ほかの道から得ることはできるのですか。滅びから救われて「いのち」を得るために、ただ一つの条件を提示されました。それは、どうすることですか。
・ヨハネ14:6/
・Uコリント4:15,ローマ10:9~10/

5 人は、罪に支配され、やがて滅びにいたるという空しさがありまし。しかし、神の御子が人となって世に来られ、私たちの代わりに十字架に死んでくださったことを信じて、受け入れた者は、どのようないのちに生きるのようになるのですか。
・Uコリント5:17/

6 「初めからあったいのち」と、イエス様は、世のはじめから御父なる神様とともにおられた神だと言っています。当時、福音を単なるヒューマニズムに落とそうとする哲学的考えがありました。今日もあります。もし、その考えのように、イエス様が神様でなかったら、救いはどうなるのですか。(参考/Tコリント15:32)



7 もし、イエス様が神様でなかったら、人として自分の罪のために死んだということになります。では、なぜ神であられる御子が、人となって来られたのでしょうか。当時のギリシャ哲学の世界観によると、霊魂は清いものだが、肉体は汚れたものだということです。神様の御子が肉体を取られて世に来られたとは考えられず、幻だと考えたのです。もし、そうだとしたら、私たちの罪の解決はどうなるのですか。(参考/Tコリント15:17)



8 ヨハネがこの手紙を書いた目的は、キリスト教がとても理性的で実践的であることを悟らせるためです。信仰は、実生活を導き、豊かにするものです。当時は、具体的真理として考えないで、神秘主義的に捉える人々がいたからです。信仰があなたの生活の実際的に働いた経験を分かち合いましょう。
・4節/


9 私たちが神様のいのちを得るには、使徒たちの伝えた福音のことばを聞いて、信じることです。そして、その救いは、何を持つようになるためだと言っていますか。その二つの ○ ○ とは何ですか。救われた者は、教会で共に信仰生活をするのですが、教会生活の中には、人々だけがいるのではなくて、神様と御子がともにいてくださいます。あなたにとって、この二つの ○ ○ はどのような状態にありますか。
・3節/


「命の実を刈り取ろう」

 福音は、一人でする神秘的瞑想的体験ではなく、教会で一緒に分かち合うことを通して、実現されて行くものです。本当のいのちは、真実な共同体での出会いと交わりにあります。この交わりは、ただの人の交わりではなくて、御父と御子イエス様が伴われる交わりであり、出会いです。御霊が導いてくださる交わりです。私たちは、この出会いと交わりを通して信仰が立て上げられるのです。御言葉と交わりを通して、私たちは養われ、造り変えられて行きます。このような救いにあずかっていることを学び、知って、どのような思いになりましたか。ヨハネ3:16

戻る