小グループで聖書を学ぶ

2.罪を赦す神様の愛(Tヨハネ1:5〜10)

「心の門を開いて」
 
 人生をやり直せたら、とよく聞きます。人生を取り戻すことはできません。しかし、癒やされて、新しい人生を生きられる道は備えられています。何と言う感謝なことでしょうか。問題は、神様が罪を嫌う、聖いお方なのに、私たちが罪を犯してしまう者だということです。新しく生きる道を共に考えましょう。

「御言葉の種を蒔こう」

1 人は、神様の恵みや祝福を求めます。ところが、人は神様の恵みや祝福を受けることができないと言っています。神様がどういう方なのか、見てみましょう。
・5節/


2 光である神様は、罪を受け入れることができません。罪は闇、暗いものだからです。ですから、神様の祝福や恵みを受けようとするなら、罪の問題が解決されなければなりません。罪の本性を持っている人が、自分で自分の罪を清算することはできません。では、どうすれば、私たちの罪の問題が神様の御前に解決されるのでしょうか。神様は、どんな解決の道を備えてくださいましたか。(参考/ヨハネ3:16)
・7節/


3 宗教改革者ルターは、このヨハネ3章16節を「小型の聖書」と呼びました。私のためにイエス様が十字架にかかり、私の身代わりに犠牲となって、私に救いを与えてくださいました。私の人生を覚えてくださる方がいらっしゃる。私のために犠牲を厭わない主がおられる。私の命を救い、癒やして人生を新しくしてくださる救い主がおられるのです。「私のため」のこの主の御業を知って、どう思いますか。



4 私たちのすべきことは、この神様の愛、神様の救いの御業に応えることです。神様は光なのですから、「光の中を歩むこと」が必要です。ところが、頑なな罪の性質は、どう歩まれすか。どういうことを言っていますか。その結果は、どうなるのですか。
・6節/


5 当時の人々が、ギリシャ哲学の影響を受けて考え出したことは、悔い改めなくていい、神様はすべてを赦してくださるのだから、罪を犯してもいいという主張でした。今日も、多くの人がこんな酷い思い違いをしています。二番目の頑なな姿、どんな偽りですか。どうなるのですか。
・8節/


6 ギリシャ哲学は、二元論を考え出し、罪は肉体の問題だけで、心は問題ないと言いました。今日も、自分は良い人間だ、人に迷惑をかけていない、悪いことはしていない、罪はないなどと主張します。その結果、どのように偽るようになりますか。
・10節/


7 つまり罪の支配の中を歩みながら、光の中を歩んでいると偽り、自分を欺きながら、罪はないと言っているのです。真理はその人のうちにはありません。罪を犯していないと言うなら、御言葉はその人の内にありません。たとえば、イエス様は、人を酷く言うのは殺人と同じだと教えられましたが、悪口や非難をしていても、罪を犯しているとは考えないのです。御言葉が心に入っていれば、自分の言動で罪を犯し、心の中の思いで罪を犯していることに気付くはずです。あなたは、どうですか。(参考/マタイ5:22)



8 頑なで、偽りを言う私たちが悔い改めて、イエス様を信じれば義と認められ、罪なしとみなされると言います。ですから、神様からの恵みを受けることができます。聖霊の力を受けることができます。罪に打ち勝ち、御心を見分けられるようになります。神様が知恵と力を与え、世の困難に勝たせてくださいます。では、それらに対して、私たちがすべき重要なことは何ですか。
・9 節/

「命の実を刈り取ろう」

 光の中を歩み続け、罪から解放されて生きるには、神様と交わり、神様と共に歩むのです。信仰の父と言われるアブラハムは、75歳の時、召しを受けました。自分の思うままに生きる人生でなく、神様に従って行く人生を始めました。創世記12:1-4。その時から彼の力ある人生が始まりました。また、信仰の先祖と言われるエノクは、「エノクは神とともに歩んだ」と言われた人です。創世記5:24。エノクの人生は、すべてのことにおいて、神様と同行する人生でした。「罪を言い表す」ということは、何と尊いことでしょうか。罪の赦しを受け、主の恵みが回復します。神様との交わりと同行が始まります。私たちも、アブラハムやエノクのような偉大な人生が始まります。エペソ5:8。今日の学びで、心に思ったこと、決意したことなど、分かち合いましょう。

戻る