小グループで聖書を学ぶ

3.聖さへの招き(Tヨハネ2:1〜6)

「心の門を開いて」
 
 私たちがクリスチャンとなったことは、その罪をイエス様の血で洗われて、聖い神様との交わりに入れられたことです。でも、罪の性質はなくならないし、罪を犯しています。どうすれば、いいのでしょう。イエス様の尊い犠牲は、そこにも働いています。聖さの招きに応じましょう。

「御言葉の種を蒔こう」

1 クリスチャンになることは、神様が願われる人生を生きることです。それは、私たちがどういう人生を生きることなのですか。神様は、私たちがどのように生きるために救いへ招いておられるのでしょうか。
・1節前半/


2 「罪を犯さない」ということは、何を意味しているのでしょう。私たちは、この世においてまったく罪を犯さない正しい人になれるのでしょうか。
・ガラテヤ3:11/


3 私たちが神様を知るようになる時、罪がどれほど私たちのうちに根を張っているか悟るようになります。しかし、悟っても、自分の力では、罪から抜け出すことはできません。自分でどんなに嫌って、悔いても、どうしようもないのです。ですから、罪の問題を神様との関係で見なければなりません。聖書は、驚くべき解決の道があることを教えています。神様が備えてくださった事は何ですか。
・1節後半~2節/


4 私たちは、長い間罪の支配を受けていたために、艱難に会ったり、争いに陥ったりすると、簡単に罪の性質に戻ってしまいます。罪を犯してしまう私たちを「弁護してくださる方」とは、どんなお方ですか。裁判所での裁判のように、私たちが罪のために、神の法廷に引き出されたと想像してください。そこでイエス様は、どのようにして私たちを弁護してくださるのですか。
・ローマ8:34/


5 ある人とある人の関係が悪くなった時、第三者が間に入って、仲裁をします。私たちの罪のために、神様との関係は悪いままです。イエス様は間に入って仲裁をし、神様の御怒りをなだめて、関係を回復させる働きをされます。どのようにイエス様は仲裁されたのですか。「なだめの供え物」とは、どういうことですか。
・レビ8:21/
・ローマ3:25/


6 イエス様は、「わたしがこの人のなだめの供え物となりました。赦してください。」と叫んで、とりなしてくださいます。十字架上で犠牲の供え物となって私を弁護してくださるのです。それでも、変わらないままでいられるのでしょうか。肉の思いのままで生きられますか。とりなしのイエス様の愛に、頑なな心が解かされないでしょうか。イエス様に主導権を明け渡しませんか。あなたは、どんな思いになりましたか。



7 私たちの罪のために、イエス様が「なだめの供え物」なってくださいました。私たちが聖い生活をするために、この恵みに応えて、どうするように命じておられますか。
・3,5節/


8 私たちに、自分を変える力はありません。神様の御言葉には、力があります。実践しようとする時に、神様の力が働きます。神様の御言葉は、神様と交わりをしながら学ぶ実際的、人格的なものにならなければなりません。しかし、完璧主義のために、無理だと考えたり、失敗したらとか恐れて、実践しないことも多いです。神様は、私たちがどのようにすることを願っておられますか。
・ヨハネ6:9-13/
・マタイ10:42/

「命の実を刈り取ろう」

 私たちは、少ない不足した愛を実践することが必要です。大きなことでなくて、小さな助けをするのでも良いのです。小さい愛を実践しても、どれほど喜ばれるか分かりません。「神様の愛がまっとうされる」とは、御言葉を純粋に行う人を通して、神様の愛が十分供給されるということです。神様は、聖い純粋な人を通して、完全に働かれるのです。それは、その人が神様のうちにいることが分かります。自分がすることを通して、神様の愛を行うことになるからです。ヨハネ14:21。神様の祝福を世にもたらす人を通して、多くの人が生きるようになるため、結局は自分も生きるようになります。何か悟ったこと、小さな実践をしようと思ったことは、何ですか。

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