小グループで聖書を学ぶ

10.主は落ち込む私を(Tヨハネ3:19〜24)

「心の門を開いて」
 
 クリスチャンは、いつも喜びと恵みがいっぱいということでもありません。時には、落ち込み、失望落胆し、憂鬱や霊的沈滞に陥ったりすることもあります。エリヤやパウロという偉大な信仰の人もそういう時がありました。私たちも、様々なことで思い煩い、霊的沈滞に落ち込みます。これは、落ち込む私たちへのメッセージです。

「御言葉の種を蒔こう」

1 クリスチャンとは、喜んで生きて行く存在です。イエス様の十字架によって救われ、罪赦された者だからです。にもかかわらず、心配や不安をかかえて生きているクリスチャンもいます。私たちも、思い煩い、心配することが多いのではありませんか。私たちを霊的沈滞に陥らせる原因には、どんなことがありますか。



2 19節冒頭で「それによって自分が真理に属するものであることを知り、心安らかにされる」と、言っていますが、前の段落を見て、確かにそうだと思いますかと、それとも、「私にはこんな愛はない、私にはできていない。」という思いが出て来ますか。(参考/Tヨハネ3:16~18)
・19~20節/


3 「自分の心が」とは、良心のことです。自分の良心が自分を断罪し、責めるのです。お前は愛がないと人から責められ、自分の良心からも責められ、落ち込むようになるのです。問題や圧迫や批判で落ち込むことに加え、自分で自分を責めて、落ち込むことはないでしょうか。



4 私たちは、イエス様の救いを受けて、罪赦され、新しい人に造り変えられる途中です。不十分な愛にもかかわらず、「自分は真理に属するものである」という事実をここで教えています。「自分の心が責めても」というのは、私たち自身が自分を責めるようには、神様はご覧にはならないという意味です。「私たちの心より大きい」神様は、私の弱さをすべてご存知だからです。神様が私たちを救われる時、すでに私たちの弱さを知っておられるからこそ、救われたのです。この神様の取り扱いをどう思いますか。

5 私たちは、問題やかん難に出会い、自分の失敗や足りなさに直面したり、神様の祝福や応答がないように思う時、自分を責めたり、落ち込んだりします。私たちの弱さや足りなさを知っておられる神様は、私たちをどうしてくださいますか。
・21~22節/


6 「自分の心に責められなければ」というのは、愛が不十分であっても、御言葉に従おうとする思いで、御前に純真であれば責められる必要はない、ということです。そのようにしていれば、求めるものを与えてくださり、祈りを聞いてくださるという約束です。これを聞いてどのように思いますか。



7 落ち込んでいる時は、恵みや祝福がないように思ってしまいます。霊的沈滞とは、神様の恵みが一時的に断絶している状態です。私たちは、どんな助けや慰めによって、霊的沈滞を打ち破ることができるのでしょうか。クリスチャンの最も重要な特徴は、何ですか。(参考ヨハネ14:16~17)
・24節/
・ローマ8:26/

8 人々は、困難なことに出会うと、その先どうなるかを予想して心配し、思い煩うのです。偉大な信仰の人も、思い惑いや悩みに沈んで、死にそうになることがあります。代表的な例として、預言者エリヤと使徒パウロは、主に徹底的に献身して、死を恐れない人でしたが、一時的にどのようになりましたか。それからどう回復されましたか。
・T列王19:2~4/
・使徒18:9~10/

9 私たちが真理の中にいるにもかかわらず、恐ろしい霊的沈滞を経験することがあります。私たちが霊的沈滞に陥るのは、なぜでしょう。私たちは、どう言う者なのですか。愛は、どこから出て来るのですか。
・23節/
・ヨハネ13:34/

「命の実を刈り取ろう」

 霊的沈滞から救い出される決定的なことは、イエス様の赦し、神様の愛です。イエス様の十字架が小さい人は、霊的沈滞に長く陥ります。神様の愛や赦しを知らないと、恐れから抜け出すことができません。十字架の赦しから出て来る神様の愛は、すべての恐れを締め出します。あなたは、どのようにして霊的沈滞から抜け出しますか。霊的沈滞に陥らないようにするためにどうしますか。(参考/1ペテロ5:7)

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