2020年1月5日「幻がなければ」箴言29:1〜27

序−新年最初の主日礼拝を迎えました。新しい年ともに礼拝をささげられることを感謝します。新しい年を迎えると、人は何か願いごとをしたり、夢やビジョンを見ようとします。聖書も、私たちが見るべき夢、ビジョンを教えています。どんな夢、ビジョンなのでしょうか。

T−ビジョンとは何か−
 箴言29:18をご覧ください。「幻がなければ、民はほしいままにふるまう.
しかし律法を守る者は幸いである」と教えてあります。この「幻」という言葉は、他の訳では「ビジョン」とか「啓示」と訳されています。「ほしいままに振舞う」とは、「抑制されない」とか「滅びる」と訳されています。古い欽定訳聖書では、「ビジョンのない民は滅びる」と訳されています。ビジョンを持っていないならば、希望がないから、ついには滅びることになります。ビジョンがあれば、希望があるということになります。
 だからと言って、何でも好き勝手にビジョンを持てばいいというのでもありません。夢を抱けば与えられる式的な間違いが横行しています。幻は啓示という意味だということは、ビジョンとは神様からのものだということです。自分の願望に沿って、自分勝手に見る夢ではなく、神の啓示によって見る夢だというのです。聖霊様が悟らせてくださる神の聖なるビジョンです。自分の願望によって見る妄想や野望とは違います。多くの人が、このような夢を見ます。どんな夢を見ていますか。
 同じ機会が与えられても、ビジョンのあるか無いかで、結果が違って来ます。分かり易い例として、聖書に出てくる3人の王の例を比べてみましょう。イスラエルの王であったダビデ、ソロモン、レハブアムです。しかし、王という最高の権力がもたらした結果は、ビジョンに基づいて、自分自身と国に対してもそれぞれ違ったものでした。
 まず、レハブアム、最高の権力を継承しましたが、その力を正しく使用できるビジョンを持っていなかったので、自分の力を見せようと、民の要求を拒絶して、もっと重い義務を負わせると返答し、国の分裂を招きました。幻がなければ、人はほしいままに振舞うのです。ソロモンは、神の特別な恵みで良いスタートをしましたが、誤ったビジョンによって、最終的には神を離れて罪を犯してしまいました。ソロモンは能力のある者であり、偉大な建設者でしたが、間違ったビジョンによって破壊的な建設者になりました。今日物質主義の現代社会で生きているクリスチャンは、ソロモンの道を行く危険があります。神の恵みで良いスタートをしても、誤ったビジョンを追求して、神の御旨から離れてしまう危険です。
 ダビデは、平凡な羊飼いでしたが、神に拠り頼む信仰の人でした。誰よりも優れていたのは、神を信頼する生活でした。王として油注ぎを受けましたが、王になる前には、サウルからひどい迫害を受け、王になった後も、大きな試練を受けました。ダビデは、栄えている時だけでなく、試練の時にも、ただ一つの道、信仰の道を行きました。彼の人生は、すべての時代の神の民にとって誠実な生活を生きるように影響を及ぼしています。彼のビジョンは、息子ソロモンに与えた遺言によく表れています。T列王記2:2〜4。つまり、「律法を守る者は幸いである」ということでした。
 夢やビジョンでも、自分の勝手な願い、野望を追求した結果はどうでしょう。それを最も追求できたソロモン王、富と権威と名声を得て、偉大な事業を成し遂げた結果、「すべては空しい」と書き残しました。伝道者2:11 。誤った夢を見たという意味で書いたのです。

U−ビジョンは必要−使徒20:24, ピリピ3:12〜14
 下手に誤ったビジョンや野望を抱くのが危険ならば、何も抱かずにいた方がいいのではないかと極端になるかもしれません。しかし、ビジョンは、必要です。ビジョンは、人生の目的と方向を明らかにしてくれます。人生の目的を持って、生活の動機と情熱を増進させ、機能を極大化させてくれます。ビジョンを持っている人は、どのような状況に接しても、うろたえることなく、忍耐します。
 夢と言えば、聖書のなかでは、ヨセフを思い浮かべるでしょう。夢を通してビジョンを与えられていました。イスラエル民族の救いを達成することの望みがあったので、奴隷にされても誠実に仕えました。刑務所の生活も勝ち抜くことができました。使徒パウロも、主から受けた使命を果たして栄冠を得る望みがあったので、死の危険と迫害と幾多の困難も克服することができました。使徒20:24。「走るべき行程を走り尽くし、ビジョンを果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません」という証しは、信仰に生きる者に大きな励ましを与えてくれます。イエス様は、救いの御業を成し遂げるというビジョンがあったので、十字架の苦難も耐えることができたのです。ヘブル12:2。
 ビジョンは、大きく未来志向的です。自分の知識と能力と経験、置かれた環境だけで考えては、ビジョンは生じて来ません。有名なヤベツの祈りというものがあります。T歴代4:9〜10。素晴らしい祈りをしたヤベツも、その生まれは、「悲しみのうちにこの子を産んだからヤベツという名をつけた」というように、生まれた時から良くない環境で生きて来ました。しかし、彼は神のためにより良い人間になるビジョンをもって、より多くの働きをしました。そのビジョンの通り生きて、祝福されました。
 心理学や自己啓発で取り上げられる面白い実験を紹介しましょう。30cmもジャンプできる蚤をガラスのコップに入れて、ガラスの蓋をする実験です。蚤は、最初コップから出ようとジャンプするのですが、その度にガラスの蓋にぶつかります。しばらくしてガラスの蓋をとっても、蚤はコップの高さよりも高くジャンプすることが出来なくなっています。きっと蚤は自分の限界を自分で決めてしまったのでしょう。私たち自身も、今まで多くの失敗もし、出来ずにあきらめた事もたくさんありました。これからも、くじけそうになることがあるでしょう。ビジョンが必要です。
 ビジョンがある者は、どのような状況でも希望を失いません。希望があれば、人生の意味と遣り甲斐を見つけることができます。このビジョンによる希望は、今自分はどうか、どんな状態かは問題ではありません。現在の自分の姿で人生を評価してはいけません。年齢や環境に縛られずに望みを失わなければ、誰でもその人生が変化することを信じることができます。夢の人パウロは、生涯うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進みました。そこに成長と成熟、発展と向上がありました。ピリピ3:12〜14。

V−祈りと御言葉と聖霊によってビジョンを−使徒2:17, ピリピ3:12〜14
 私たちは、どのようにビジョンの人になることができるのでしょうか。ビジョンは、神からの啓示なのですから、ビジョンの人になるために、神に祈らなければなりません。エレミヤ33:3。信頼して祈る人が「理解を越えた大いなる事」を見ると約束しています。この「大いなる事」とは、ビジョンのことです。私たちは、祈りの中で神様が約束通り大いなる事を見せてくださる時、その時からビジョンを持つようになるでしょう。
 ですから、私たちは、神様に「自分を世に送ってくださった目的は何なのか」を祈り聞かなければなりません。「自分の家庭と教会、職場や学校、地域を与えてくださった目的は何なのか」を祈り尋ねるのです。私たちは、イエス様を信じて、救いに召されました。召し出されたのですから、それぞれのビジョンを与えられます。そして、ビジョンを受けて、新しいことをしようとするなら、祈って、神の導きを受けなければなりません。
 ビジョンを抱いた人は、最善の人生を生きる人たちです。ビジョンを抱いた人は、決して落胆しません。ビジョンを抱いた人にとって落胆とは、神様をさらに意志を求めるサインに過ぎません。悲しみますが、あきらめません。夢があってビジョンがあるからです。ビジョンを抱いた人は、絶望と思える状態でもビジョンを見ています。殉教者ステパノは死の瞬間に何を見ましたか。使徒7:55。天におられるイエス様です。
 年を取ってもビジョンが必要なのかと言うでしょうか。使徒2:17に「聖霊が注がれると、青年は幻を見、老人は夢を見る」とあります。高齢者の特徴は、過去志向です。しかし、御霊が臨めば、夢を見ます。将来自分の子どもたちや孫たちが、自分が仕え助けた人々が、希望を持って生きて、やがてビジョンを実現して行く夢です。そういう夢のために、信仰をもって召される時まで希望をもって人生を生きるのです。
 Tサムエル3:1に「そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった」あります。ビジョンを得るには、御言葉が必要です。今日の18節にも、「律法を守る者は幸いである」とあります。御言葉に聞き従う者は、ビジョンに生きることができるから幸いだというのです。心の中に御言葉がある時、聖霊に満たされるようになり、ビジョンを受けるようになります。ヘブル11:1の言葉は、信仰の人々はみなビジョンの人々だったということです。これらの人々は、後のことを夢見て、今は見えない先のことを確信して生きました。
  ビジョンを受け取った場合、懸命に働きながら必ず忘れてはならないことがあります。徹底的に神の助けを求めることです。詩篇127:1。神は、私たちを通して神のビジョンを実現しようとされるのです。救われたあなたには、必ずビジョンが用意されています。その一事に励んで、一心に走りましょう。ピリピ3:13〜14。



箴言29:1 責められても、なお、うなじのこわい者は、たちまち滅ぼされて、いやされることはない。
29:2 正しい人がふえると、民は喜び、悪者が治めると、民は嘆く。
29:3 知恵を愛する人は、その父を喜ばせ、遊女と交わる者は、財産を滅ぼす。
29:4 王は正義によって国を建てる。しかし重税を取り立てる者は国を滅ぼす。
29:5 自分の友人にへつらう者は、自分の足もとに網を張る。
29:6 悪人はそむきの罪を犯して自分のわなをかける。しかし正しい人は喜びの声をあげ、楽しむ。
29:7 正しい人は寄るべのない者を正しくさばくことを知っている。しかし悪者はそのような知識をわきまえない。
29:8 あざける者たちは町を騒がし、知恵のある人々は怒りを静める。
29:9 知恵のある人が愚か者を訴えて争うと、愚か者は怒り、あざ笑い、休むことがない。
29:10 血に飢えた者たちは潔白な人を憎み、正直な人のいのちをねらう。
29:11 愚かな者は怒りをぶちまける。しかし知恵のある者はそれを内におさめる。
29:12 支配者が偽りのことばに聞き入るなら、従者たちもみな悪者になる。
29:13 貧しい者としいたげる者とは互いに出会う。【主】は、この両者に日の光を見させる。
29:14 誠実をもって寄るべのない者をさばく王、その王座はとこしえまでも堅く立つ。
29:15 むちと叱責とは知恵を与える。わがままにさせた子は、母に恥を見させる。
29:16 悪者がふえると、そむきの罪も増す。しかし正しい者は彼らの滅びを見る。
29:17 あなたの子を懲らせ。そうすれば、彼はあなたを安らかにし、あなたの心に喜びを与える。
29:18 幻がなければ、民はほしいままにふるまう。しかし律法を守る者は幸いである。
29:19 しもべをことばだけで戒めることはできない。彼はそれがわかっても、反応がない。
29:20 軽率に話をする人を見ただろう。彼よりも愚かな者のほうが、まだ望みがある。
29:21 自分のしもべを幼い時から甘やかすと、ついには彼は手におえない者になる。
29:22 怒る者は争いを引き起こし、憤る者は多くのそむきの罪を犯す。
29:23 人の高ぶりはその人を低くし、心の低い人は誉れをつかむ。
29:24 盗人にくみする者は自分自身を憎む者だ。彼はのろいを聞いても何も言わない。
29:25 人を恐れるとわなにかかる。しかし【主】に信頼する者は守られる。
29:26 支配者の顔色をうかがう者は多い。しかし人をさばくのは【主】である。
29:27 不正な人は正しい人に忌みきらわれ、行いの正しい人は悪者に忌みきらわれる。



伝道者2:11 しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。

エレミヤ33:3 わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。

使徒20:24 けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。

ヘブル12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

T歴代4:9 ヤベツは彼の兄弟たちよりも重んじられた。彼の母は、「私が悲しみのうちにこの子を産んだから」と言って、彼にヤベツという名をつけた。
4:10 ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」そこで神は彼の願ったことをかなえられた。

ピリピ3:12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。
3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

Tサムエル3:1 少年サムエルはエリの前で【主】に仕えていた。そのころ、【主】のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。

使徒2:17 『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。

ヘブル11:1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

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