2020年2月9日「神の御子救い主」コロサイ1:13〜20

序−ローマ帝国の迫害下にあったキリスト教徒は、信仰の印としてΙΧΘΥΣ(イクスース、魚)の文字や魚のイラストを用いました。それは、イエス、キリスト、神の子、救い主の頭文字をつなげたものです。今日、車のステッカーやアクセサリー、商店や企業のロゴなどに用いられ、クリスチャンであることをあらわしています。パソコンの絵文字や記号で魚のイラストも作られています。イエス・キリストとはどういう方かを学びます。 <') ) )>< 

T−救い主イエス様−13〜14,20
 イエス様を救い主と信じる信仰が、自分を取り巻く環境によって揺さぶられます。何かのことで信仰が揺さぶられます。その時、何を思い出し、何を掴んだらよいのでしょうか。コロサイの聖徒たちは、私たちと似た状況にありました。信じたばかりの彼らは、パウロが感謝したほどに純粋で熱心な信仰でした。しかし、周りはヘレニズム文化とユダヤ人の思想に取り囲まれていました。それらが、聖徒たちを脅かしていました。
 律法を守ることで救われるというユダヤ人の思想に揺さぶられました。律法を守ったり、修行を積んだりするということは、分かり易いし、それが信仰だと思い易いからです。恵みによって救われるという教理の否定になります。そこで、パウロは、福音の中心であるイエス様を改めて強調しました。13〜14,20節。人々を罪や滅びから解放してくださるのは、律法を守ったり、修行を積んだりするからではなく、イエス様の贖いによると宣言しています。それまでは、罪の奴隷、サタンの支配の中にあったが、今は神様が愛する御子の支配に移されているという救いの福音でした。
 どのようにして移されたのでしょうか。「御子のうちにあって、贖い、すなわち罪の赦しを得ています」と言っています。14節。贖いという言葉は、その時代奴隷市場で使用された言葉です。奴隷は、代価を払って購入することができました。つまり身代金を支払えば、自由になりました。それを贖いと言いました。しかし、罪の代価は死です。罪の赦しには死という代価を支払わなければなりません。
 誰かが代わりに死ぬのでしょうか。身代わりになりますと言う奇特な人がいるかもしれません。でも、身代わりになれる人はこの世にはいません。同じ罪人だからです。犯罪人が他の犯罪人の代わりに刑務所に入るから、その人を刑務所から出してくれと言っても、通用しません。罪のない者だけが、代わって命の値を支払うことができるのです。それで、神様は、ご自分の御子イエス・キリストを贖いの供え物とされたということです。
 この事実を知って、イエス様が私の罪の代わりに死なれたことを本当に信じるとき、私たちは罪の赦しを受けることができます。私たちが持っている原罪は、主の十字架の恵みで赦されます。この原罪を解決した者だけが天国に入ることができます。近代社会は、資本主義や科学の発達を信奉し、その中に救いがあると思っていました。しかし、今その幻想は崩れ、政治も経済も廃れて来ています。人々の精神も社会も混乱しています。人々の心の痛みがうめき声となっています。
 ここで、御子と強調しています。アブラハムにイサクをささげさせようとしたのは、イエス様の贖いを示していますが、それは人にとって最も辛いことを神様がしてくださったということをあらわしています。御子の十字架は、神様の人類に対する慈愛とあわれみの極致です。イエス様だけが唯一の救いの根拠であり、望みであることを信じてください。パウロは、聖徒たちがこの福音の力で武装されることを願いました。Uコリント10:4〜5。今は誰もが、自分のために遣わされたイエス様を救い主キリストとして受け入れさえすれば、暗闇から愛の国へ移されます。揺さぶられないでください。信じた私たちの内にイエス様が住んでおられるのです。

U−御子は、見えない神のかたち、万物は御子によって−15〜17,19
 私たちは、様々な思想や他宗教に取り囲まれています。コロサイの聖徒たちもそうでした。中でも揺さぶられる原因となっていたのが、グノーシス主義思想と言われるものでした。グノーシスとは、知識、認識などを意味するギリシヤ語です。グノーシス主義は、人間はある霊知を持つことによって救済されると教えました。グノーシス主義は、徹底した霊肉二元論の立場を取りました。精神は善だが、物質は悪であるとしました。
 それで、グノーシス主義は、イエス様について考える時にも、精神的な部分は受け入れても、神が人間となられたことは受け入れませんでした。神が人間になるなんてあるわけがない、教えの精神だけ受け取ればいいという尤もらしい言い方に、信仰が揺さぶられていたのです。イエス様が唯一の救い主であるという考えが揺れ始めました。イエス様を信じる人が、イエス様への信仰が揺れれば、何が残るのでしょうか。
 それで、パウロは、イエス様がどういう方であるかを書き送りました。15〜17,19節。「御子は見えない神のかたち」とは、イエス様が神のイメージをあらわしているということです。15節。人は神を見ようとします。しかし、一度も見ることはできませんでした。アダムは足音を、ノアは 虹を、アブラハムは声を、モーセは燃えるいばら、雲の柱、火の柱を通して神を見ました。私たちは、御言葉や祈りを通して神を見ることができます。しかし、最も確実なのは、イエス様を通して神を見ることができます。
 イエス様は、神を見せてほしいというピリポに「こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです」と答えられました。ヨハネ1:18, 14:9。私たちは、そのようなことを言われないでしょうか。私と共におられるイエス様を意識して、イエス様と共に生きて行くことを願います。マタイ28:20。
 偽りを教える者たちは、肉体を持ったイエス様を天使より低い存在と教えました。しかし、イエス様は、御父とともにすべてを創造されたお方なのです。しかも、「すべては御子のために造られ」ました。イエス様は、天地創造以前からすでに存在し、三位一体の神としてともに働かれました。ヨハネ1:1〜3。三位一体という言葉は聖書にありませんが、三位一体の神が一つになって働きをしておられることを、聖書は証ししています。マタイ28:19。
 また、「御子は万物よりも先に存在しています」と言っています。イエス様は神としてすべてのものより先におられる方であるという事実です。被造物としての存在ではなく、すべてのものより先におられる神であることを強調しています。
 このようなイエス様が、信じた私たちの内に住んでおられるのです。ヨハネ14:16〜17。素晴らしい恵みです。こんな話があります。ルターに学生が「サタンの誘惑をどう退けているのですか」と質問したところ、「サタンが戸を叩くと、イエス様が出て『かつてルターが住んでいたが、今はわたしが住んでいる』と言うと、サタンは逃げ帰った」と答えました。

V−教会の中心であるイエス様−18
 「また、御子はそのからだである教会のかしらです」と言っています。18節。これは、イエス様を救い主と信じる者がともに集まった信仰共同体である教会をイエス様の体に例えています。教会はどんなに素晴らしい存在なのでしょうか。これぞ、教会の存在意義です。信仰共同体の基盤です。体の中心は頭です。頭は、私たちが思考し、感じるすべての知覚と行動を司る器官です。体のどんな器官も頭と分離されては存在することはなく、その機能を発揮することできません。教会の中心はイエス様です。
 揺れ動いていたコロサイ教会の問題のために、パウロは、教会の中心が何かを明らかにしました。イエス様が教会のかしらとは、教会はイエス様が治めておられる所だということです。イエス様が教会の中心、イエス様が聖徒の交わりの中心であることを忘れないでいてください。仕事や学び、生活や家庭、何であれ、イエス様が自分の中心とならなければ、揺さぶられます。忘れていたら、気付いたら、イエス様中心に修正しましょう。
 教会のかしらであるイエス様が復活の初穂であると言っています。18節,Tコリント15:20。復活の望みを持った人々がともに生きるところが教会です。復活の信仰が立つ時、教会は教会らしくなります。復活の信仰があってこそ、今現在を確かに生きることができます。そして、イエス様が始まりであり、根本であると言っています。キリストがかしらとなり、根本となっている教会が、岩の上に立てた教会となります。
 イエス様が世に来られた目的は、十字架によって平和を作り、神と私たちの間に和解をもたらすことでした。20節。それによって、人と人との間に平和をもたらすことでした。イエス様が十字架に私たちの罪という病を負い、私たちの痛みを担ってくださいました。イエス様の十字架が私たちに平安をもたらし、その打ち傷によって、私たちはいやされたという福音の恵みを考えてみてください。イザヤ53:4〜5。私たちと人との間にも、平和が訪れないはずはありません。教会は主の十字架の苦難による実です。
 それを忘れる時、教会は人の集まりとなり、人が所有する所となり、混乱します。個人の生活でも自分が中心となり、人との関係において肉の思いが争いや不和を生じさせます。あなたのいるところどこででも、いつもイエス様が中心となっていますか。今日の箇所は、コロサイ・キリスト論と呼ばれます。イエス・キリストの創造、贖い、回復という重要な真理を含んでいます。イエス・キリストが神の子であり、救い主であることを確信して、信仰の生涯を全うしましょう。ローマ11:36。 <Ιχθ??><




コロサイ1:13 神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
1:14 この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。
1:15 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。
1:16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
1:17 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。
1:18 また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。
1:19 なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、
1:20 その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。



ヨハネ1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

ヨハネ14:9 イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。

イザヤ53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

ローマ11:36 というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。



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