2020年2月16日「揺ぐことなく、信仰にとどまり」コロサイ1:21〜23

序−なぜ、歴史を学ぶのでしょう。どうして過去の勉強をしなければならないのか、未来のことを学んだ方がいいと言う人もいます。しかし、過去を学ぶことは、未来を知ることであり、未来を大きく変えることにもなります。歴史を学ぶ意味は、過去を知って、現在を理解し、未来に備えるためです。揺れ動く聖徒たちに対して、パウロは歴史を話しています。

T−かつては−21
 人は、信じた時の感激が素晴らしく、生まれて初めて光明を見出したようだと言い、人生が新しくなった思いだったと言います。しかし、時間が経って、何か問題が起きたり、状況が変わったりすると、喜びが消え、不満が生じ、心が揺れ動くようになります。私たちの心に世の問題や試みが入ると、神様を信頼する信仰が揺らぎ、信仰が揺れれば、希望も薄れます。心が世に傾いて、御言葉を聞いても、入って来ません。御言葉に生かされることがありません。不安と恐れが生じます。
 コロサイの聖徒たちも、心が揺れ動いていました。そこで、パウロは、福音の真理をしっかり認識できるように、歴史的、論理的な展開をしています。まず、聖徒たちの過去の姿、かつての状態を振り返らせます。21節。クリスチャンという現在の立場からイエス様を信じる前の状態を振り返るならば、「かつては神を離れ、心において神の敵となって、悪い行いの中にあった」という状態でした。コロサイの聖徒たちも、かつては人間が持っている罪の性質のまま生活をしていた人たちでした。もちろん、自分たちの言動が罪であるとは知らないで生きていたのです。
 13節では、「救われる前は、暗やみの中にいた」と言っています。 暗闇とは、光がないので、何も見ることができない状態のことです。神を知らない精神的な愚かさの中にいたことを意味します。それは、神がいないと思うので、自分中心に人生を生きる姿です。 どうせ死ぬのだ、自分勝手に生きようという姿です。詩篇14篇1節。そんな暗やみの圧制から救い出して、イエス様のご支配に移してもらいました。
 エペソ2:2〜3でも、人々のイエス様を信じる前の精神的な状態を指摘しています。「そのころは、罪の中にあってこの世の流れに従い、かつては、不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い」歩んでいたというのです。これが、かつての私たちの過去の姿でした。今から思えば、どんなに残念な姿だったでしょうか。
 悔い改める前の聖徒たちは、賢いけれども心が暗くなって、虚しさの中で罪の道を歩むことによって、神から遠く離れて生きていました。エペソ4:18。神の救いを知らない悲惨な姿でした。これは、21節で言うように、神の敵となっていたのです。「かつては神を離れ」という言葉は、神に向かわずに、神との交わりもない状態を意味しています。いや、神に敵対していたのです。私たちの過去の姿は、考えと行動において、神から離れていたのです。望みがありません。ただ絶望だけです。
 こうして、聖徒たちの今日の姿と明日の姿を教えるために、過去の自分たちの姿がどうだったのかをはっきり振り返させています。歴史で過去を学ぶことは、現在を理解するためです。心が揺れて感情の波に飲み込まれてネガティブな感情を感じているのは、自分の意識のほんの一部です。心の反応です。心が揺れた時は、ネガティブな感情を感じている自分を他人事のように「ああ、過去を忘れて現在の自分を否定しているな」と眺めてみてください。感情の波から少しずつ抜け出すことができます。

U−今は−22
 パウロは、次に今現在の聖徒たちの姿を意識させています。22節。今は、福音の力によって、神の敵から神との交わりの関係へと変えられました。しかし、この和解は、簡単に行われたのではありません。血の代価を払わなければなりませんでした。御子イエス様の十字架による身代わりの死という大変な犠牲を必要としました。Tテモテ2:6。私たちの人間関係においても、この和解の恵みが援用されます。私たち同士の和解にも、イエス様の救いの力が及びます。
 人のその罪のために神の敵とされました。しかも、人には、この罪の問題を解決する力がありません。かつては神を離れ、罪の圧制の中にあったのに、御子イエス様の尊い犠牲によって私たちは救われたという今の恵みを覚えていなければなりません。イエス様の犠牲によって私たちに与えられた罪の赦しと平安、それは確かに偉大なことです。神の慈悲は、すべてイエス様を信じる者に与えられます。何よりも重要なことは、神が私たちに平和を与えるために御子を世に遣わされたということです。20節。
 神様が御子を私たちの救いのために世に遣わされました。神様が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。Tヨハネ4:9〜11。どれほど感謝しているでしょうか。歴史家E.H.カーは、名著「歴史とは何か」の中で、「歴史とは現在と過去の果てしない対話である」と言っています。現在の恵みを理解するには、過去を思い起こしてみることです。
 聖書は、恵みを恵みとして知る者、感謝を忘れずに感謝して生きる人が福音に応える人であることを強調しています。イエス様を信じる前の自分の姿を思い出してみてください。かつての私たちの姿は、罪を罪と思わず、罪の性質によって生きていた動物でした。しかし今は、神様の恵みによってイエス様の十字架によって救われています。この驚くべき恵みを受けたことを忘れずに感謝しているなら、主に完全に信頼します。
 神のこの驚くべき愛の十字架の恵みについて変わらない信頼と感激の心が、私たちを揺れないようにしてくれます。心が揺れるのは、これらの神の愛と恵みを無視してしまうからです。御子の十字架による救いの恵みを忘れて神に背を向けているならば、前よりも酷い状態になると警告されています。Uペテロ2:20〜21。揺れ動いたままではいけません。今、私たちは、救われる以前の自分と比べてどれほど恵みの中にあるか意識しているでしょうか。今を感謝して、信仰に生きることがどれほど素晴らしいものか理解することができます。不満や無気力に陥ることはありません。
 現在の恵みの生活を楽しみましょう。恵みは享受しなければ、恵みとはなりません。私たちの現在の身分は、「聖く、傷なく、非難されるところのない者」です。22節。どんなに感謝なことでしょうか。ですから、自分で自分を聖くない、傷だらけだと悲観してはなりません。神が、イエス様の犠牲のゆえに、信じた私たちを「聖く、傷なく、非難されるところのない者」と宣言しておられるのです。私たちは、この現在の栄光の身分を知って、深い感謝と喜びを味わって生きなければなりません。

V−これからは−23
 歴史を学ぶもう1つの目的は、未来を予測し、未来に備えるためです。かつての自分の姿を振り返って、今の救いの状態がどれほど恵みであるかを理解したのなら、これからどう生きるかを考えます。23節。これからは、揺れ動くことなく、信仰に踏みとどまり、福音の望みから離れないで生きるのです。
 驚くべき救いの恵みを受けた者としての使命を、3つの動詞で説明しています。1つは、イエス様の救いという土台の上に堅く立つことです。イエス様が私たちに成し遂げてくだった救いの真理は、単に世的な成功と幸福を与えるためではありません。揺るぎない信仰生活を確かに生きるためです。私たちが揺れ動いている時は、福音とは違う土台に立っているのではないか、点検してください。Tコリント15:58。福音に堅く立って信仰で歩むなら、労苦が無駄でないことを知ることができます。
 2つ目が、福音の望みからはずれないことです。福音の望みを捨ててはならないということです。これは、福音の望みを持ち続けて、将来的に与えられるその栄光を確信して信仰生活をすることを命じています。問題や事件によって揺れ動くと、福音の素晴らしさ、確かさを忘れてしまいます。目の前の辛い悲しいことで心が揺れ動いてしまいますが、福音を心に思い出して、福音の恵みからはずれないようにします。
 そして、3つ目が、信仰に踏みとどまることです。この言葉は、御言葉の真理に基づいて考え行動し、救い主キリストに根を下ろして生きて行くことを意味します。コロサイ2:7。福音の本質を知っていれば、揺れることはありません。心揺れ動いたならば、イエス様の十字架を思い出し、何があっても、信仰に踏みとどまるのです。
 私たちは、救われた後も、問題や試みによって何度も揺れ動き、躓き、倒れることもあるでしょう。しかし、未来は、失敗の歴史の中にあると言われます。失敗して挫折しても、信仰の原点に返って生きることが未来に繋がっていきます。哲学者のヘーゲルは、歴史は弁証法的にらせん階段的に発展していくと指摘しました。
 パウロは、今ローマの獄中にあっても、その福音に仕える思いは変わっていません。23節。投獄されても、救いの土台の上に堅く立って、救いの恵みからはずれることなく、信仰に踏みとどまっていたからです。問題や事件で心が揺れ動くのは、当たり前です。でも、揺れ動かされるままで心が沈みこむことのないように、過去の自分を振り返り、今救いの恵みの中にあることを確信してください。Tコリント15:58。



コロサイ1:21 あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあったのですが、
1:22 今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。
1:23 ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに仕える者となったのです。



エペソ2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

エペソ4:18 彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。

Tテモテ2:6 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。

Tヨハネ4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

Uペテロ2:20 主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。
2:21 義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。

Tコリント15:58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

コロサイ2:7 キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。

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