2020年1月23日「キリストの苦しみの欠けたところ」コロサイ1:24

序−賛美歌321番に「来たれ、来たれ、苦しみ」という歌詞があり、こんな賛美歌歌いたくないと誤解する人がいます。人は誰でも苦しみたくないし、苦しみは避けて通りたいからです。今日の箇所でも、キリストの贖罪の苦しみが不十分で、聖徒たちの苦しみがそれを補充すると誤解する人がいます。しかし、よく学べば、苦しみの理解が変わります。

T−キリストのための苦しみ−
 「私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしている」とはどういう意味ですか。イエス様の救いのための苦しみが残っているから、聖徒たちの苦しみを通して満たされると主張する人々がいます。もちろん、聖書はそんなことは教えていません。私たちを救うには、キリストの十字架の苦しみで十分です。イエス様の十字架の血によって、信じる者の罪が赦され、新しい命と天国への望みが与えられています。20節。
 十字架上で死なれる時、イエス様は「完了した」と言われました。ヨハネ19:30。救いは完成したということです。イエス様は、地上でなさなければならない任務を一つ残らず果たして死なれました。イエス様が十字架に犠牲になられたことで、救いは確実になされました。ヘブル10:10。
 そもそも、ここで言う「キリストの苦しみ」とは、イエス様が直接受けられた苦しみではありません。Uコリント1:5 に、「私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれている」とありますが、文法的には、「キリストのための苦難があふれているように、慰めもまた」という意味になります。24節でも、同じく「キリストのための苦しみの欠けたところ」となります。具体的には、コロサイの聖徒「あなたがたのために受ける苦しみ」でした。
 ピリピ1:29では、「キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜った」と言っています。キリストの救いによって私たちに与えられた恵みは、キリストを信じる恵みだけでなく、キリストのために苦しみを受ける恵みもあるというのです。
 人は誰でも苦しみたくない、できれば避けて通りたいです。主よ主よと言って、恵みは求めますが、苦しみは嫌です。取り除けてくださいと願います。苦しみに会って、神様に反発し、神をのろう者さえいます。出エジプト14:10。ナチスの迫害で殉教した神学者ボンヘッファーは、恵みには、安価な恵みと高価な恵みがあると言っています。安価な恵みとは、悔い改めを必要としない恵み、教会訓練の欠けた恵み、キリストに従わない恵み、十字架の苦難がない恵み、キリストのいない恵みです.安価な恵みは、無気力な聖徒と教会を生み出し、苦しみが来ると崩れてしまいます。
 苦しみたい人はいません。まして十字架刑を受けたい人は誰もいません。しかし、イエス様に従うためには、まず自分を捨て、自分の十字架を負わなければなりません。マタイ16:24。聖徒たちは、世にあっては患難があるからです。ヨハネ16:33。当時の聖徒たちには、この主の言葉の意味がよく分かりました。当時、信仰による苦しみは、日常的だったからです。
 私たちがこの世の中でクリスチャンとして生きていく時、キリストのために苦しみをするようになります。私たちに定められたキリストの苦しみがあります。主が私たちに任せてくださったキリストの苦しみがあるということです。

U−キリストの苦しみの欠けたところ−
 なぜ聖徒の苦しみがキリストの苦しみの欠けたところを満たすと言うのでしょうか。パウロは、その後に、「キリストのからだとは、教会のことです」と言っています。24節。「御子は教会のかしら」です。18節。頭と体は一体です。体が痛みを受けると、頭もその痛みを一緒に体験します。キリストのからだなる教会のための苦しみは、キリストの苦しみとなります。
 使徒9:4〜5を見ると、パウロは、教会を迫害して、クリスチャンを苦しめたのに、イエス様は、パウロに「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」と言われました。聖徒たちがイエス様のために苦しみを受けた時、イエス様もともに苦しみを受けられたということです。つまり、私たちがイエス様のために苦しむ時、イエス様が私たちのために苦しんでくださるのです。何と言う恵みでしょうか。
 クリスチャンがキリストのために苦難を受ける時、主も一緒に苦難を受けられたというのですから、キリストのための聖徒たちの苦しみはキリスト自身の苦難となります。苦しみを介して私たちが体験することができることに、キリストとの一つになる境地があります。パウロは、イエス様を迫害したのではなく、教会を迫害したのですが、教会は、イエス様と一緒につながっているので、イエス様を迫害したことになりました。教会が苦しみの中にある時、主も教会とともに苦しみを受けることを示しています。教会のための苦しみ、人々のための苦しみなら、それはキリストの苦しみの欠けたところを満たしていることになるのです。
 パウロは、「私たちが神の子どもで相続人であるから、キリストと栄光をともに受けるために苦難をともにしている」と言っています。ローマ8:17〜18。聖徒たちにとっての苦しみは、イエス様との親密さとつながりを深く味わせてくれる恵みの手段、栄光の経験になったのです。
 今日教会が苦しめば、イエス様が苦しみ痛みます。私たち聖徒たちが苦しめば、イエス様が苦しみ悲しみます。私たちの不安や恐れは、外から来ることが原因ではなく、内側の問題です。それが理解できないと、外的な環境さえ整えば、不安がすべて解消されると思います。しかし、環境や条件が良くなっても、不安や恐れは増します。苦しい環境でも、イエス様と一緒だという思いが、私たちに平安を与えます。ヘブル2:18。イエス様と一緒に苦しむなら、慰めも与えられます。Uコリント1:5。
 教会は、神がご自身の血をもって買い取られたものです。使徒20:28。神の恵みを受けた人は誰もが、教会を愛して神への愛を示し、その恵みに応えようとします。イエス様が言われたように、多くの愛を受けた者は、多くの愛を示します。パウロは、自分が教会を迫害していた者であったにもかかわらず、多くの恵みと愛を受けたので、教会を愛し、聖徒たちのために苦しみ仕えました。教会が今日まで世に存在して来たのは、神の愛と恵みに感激した人々が、教会のために献身して奉仕して来た結果です。

V−私たちの苦しみ−
 パウロは、24節で「あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています」と言っています。苦しみを喜ぶ理由は、教会のため、人々のための苦しみが、キリストの苦しみの欠けたところを満たすことだからです。この喜びの本質は、イエス様と自分が深く一つになることを経験することで与えられます。今日、イエス・キリストを自分の救い主と、主に仕える聖徒たちに、このような喜びが与えられます
 今パウロは、獄中に閉じ込められていて、教会のための苦しみを経験しています。24節。自分はイエス様が自分に定めてくださったイエス様のための苦しみを満たしていることを感じていたのです。私たちには、定められたイエス様のための苦しみがあります。それで、私たちは、主を喜ばせることができます。主は、私たちが任せられた苦しみを経験する姿を見守っておられるからです。私たちも、任された苦しみを無視したり、避けるなら、主を喜ばせることはできません。それは大変だなと思われるでしょうか。絶えられない苦しみならどうするのかと言われるでしょう。
 Tコリント10:13をご覧ください。主は、私たちが苦しみに会うのを見ておられるだけではありません。 私たちが苦しみに耐えられるように力を与えてくださいます。限界をも見極めて、終わらせてくださいます。私たちが苦難を受ける時、主も私たちとともに苦しまれるからです。
 パウロが聖徒のために受ける苦しみを喜びとしていたのは、自分の苦しみが教会に有益であることを知っていたからです。ピリピ1:14〜18でも、獄中にいるパウロは、自分が牢獄にいることで、かえって福音が宣教されることになって感謝して、喜んでいます。私たちが苦しみを見る時、損害のように見えます。時には敗北のように見えます。しかし、神はこの苦しみを通して、より驚くべきことを成し遂げられるのです。
 賛美歌321番は、作詩者が病床にある時に書かれたものです。エリザベス・ペイソンは、体が弱く、生涯病弱で、痛みのない瞬間をほとんど知りませんでしたが、生涯教会のために働きました。ある時彼女は「今、神のために生きることは、能力が役立つかどうかに関係なく、素晴らしいことであり、神を賛美できるなら、苦しむことさえ許されることは素晴らしい慈悲であることが分かります」と書きました。これから321番を歌う時は、歌詞の深い意味を味わいながら、賛美したいですね。
 今週水曜日26日からレント、主の受難を覚える四旬節、受難節に入ります。私たちも主のための苦しみを担当します。一日一日、クリスチャンとして生きていながら経験する苦しみを誠実に担当します。これがキリストの苦しみの欠けたところを私たちの身をもって満たすことです。キリストの苦しみに参加する道です。私たちの人生において、イエス様と深く一つになる喜びを豊かにしてくださることを求めます。私たちが、苦難を通してであっても、福音の恵みの真髄を体験して生きて行く一人ひとりとなることを願います。ローマ8:17〜18。



コロサイ1:24 ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。



Uコリント1:5 それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。

ピリピ1:29 あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。

マタイ16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

ヨハネ16:33 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。

使徒9:4 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。
9:5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」

ローマ8:17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。
8:18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

ヘブル2:18 主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。

使徒20:28 あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。

Tコリント10:13 あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。

ピリピ1:14 また兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことにより、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神のことばを語るようになりました。
1:15 人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいますが、善意をもってする者もいます。
1:18 すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。

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