2020年3月8日「絆を紡ぐイエス様」コロサイ2:1〜5

序−人が一番安心感を覚えるのは、誰かと、何かとつながっている時だそうです。つながりは、自分は一人ではないと感じられた時に知るものです。誰かが自分のことを分かってくれた、受け入れてくれたと感じた時です。繋がり、絆は、人が生きて行く上で大切なことです。クリスチャンの繋がり、絆について、今日の箇所から学びましょう。

T−心配して、覚えてくれる人がいる−1
 パウロは、心配がありました。獄中にあったのだから、当然そのことの心配かと言うと、そうではありません。自分の状況についての心配や、悩みではありません。パウロの心配は、何だったのでしょうか。1節。パウロの心配は、自分の問題のためではなく、聖徒たちのためでした。その心配は、まさに「苦闘」するほどのものでした。イエス様が教会のために苦しむその一端を自分も苦しんでいるのだというあの思いです。コロサイ1:24。パウロは、救われた聖徒たちが、救われたに止まらず、成長するために奮闘努力していました。コロサイ1:28〜29。
 パウロが心配している対象は、コロサイの聖徒だけではありません。近隣のラオデキヤの聖徒たち、さらにはパウロのことを個人的に知らない人たちのためにも心配して、苦闘していると言うのです。おそらくコロサイと同じような問題で混乱していたのでしょう。彼らがパウロのことを知らなくても、パウロは、手紙や伝え聞いたことで彼らの状況を知って心配し、祈っていたのです。誰かが自分のために人知れず熱い涙と汗を流しながら、心配して祈ってくれている、どれほどありがたい、感謝なことでしょうか。不安や悩みの中にある時、ぜひこのことを覚えてください。
 コロサイばかりでなく、自分のことも知らない人のことまでそんなに心配して、どれだけ大変だろうかと思います。自分の悩みや心配で精一杯ではないか、そんなことしている場合じゃないだろうと考えます。しかし、そうじゃないのです。パウロが自分の事についてだけ心配していたなら、神経的に参ってしまい、とても獄中生活は耐えられなかったでしょう。でも、獄中にいながら他の人のことを心配して、祈ることで、どれほどパウロ自身が励まされて、心癒されたことでしょうか。
 私たちは、自分の心を揺さぶる問題や試みのことばかり考えて、自分の心配事でいっぱいになっていると、そのことで心が沈み込んで、心を痛めることになるでしょう。しかし、家族のために心配し、友人のために仕え、教会の聖徒たちのために祈ることで、自分が励ましや癒しを与えられるのです。他の人のことを考え、心配し、祈ることは、私たち自身の心配や悩みで埋没させない作用があるからです。ですから、自分の心配や思い煩いの中に沈み込まないように、人のために心配し、祈りましょう。
 ですから、私がどんなに苦闘しているか知ってほしいと言っても、これだけパウロがあなたがたのために心配しているぞ、と恩着せがましく言っているのではありません。心配することで彼らの心と繋がって、自分も励ましを受け、感謝していました。

U−キリストにあって繋がる恵み−2〜4
 パウロがこのように苦闘していることを知らせる理由は、何でしょうか。2節前半。まず、それを知る聖徒たちが「心に励ましを受ける」ためです。パウロは、自分がコロサイ教会のために苦闘しながら祈っていることを示して、彼らが慰めや癒し、励ましを受けることを願っています。問題や試みで心揺り動かされる時、患難に苦しむ時、孤独感に陥ることがあります。誰も自分の苦しみなんて分かってくれないと思い込んでしまうこともあります。Tコリント10:13。そうではなくて、誰かが知っていてくれている、自分のことを心配して、自分のために祈ってくれていることを知ることで、励ましや慰めを受けることができます。
 私たちがこの世で生きる間に、様々な問題や試みが襲って来て、悩みや苦しみに陥り、危機に瀕してしまうことがあります。混乱や惑わしの中で力を失ってしまいます。そういう時には、自分のことを分かってくれる人を必要とします。内面的な励ましや慰めを必要とします。ですから、パウロは、彼らの状況を知って、苦闘するほど心配して、祈っていることを知らせたのです。祈りの支援がある、自分のことを心配してくれる、それによってどれほど励ましを受けることでしょうか。
 また、彼らが「愛によって結び合わされる」ことを願っていました。2節前半。聖徒たちを惑わしていた、誤った教えは、彼らの心をばらばらにするものでした。4節。イエス様への信仰が揺れ動き、心がばらばらになりました。罪は、人々の心をばらばらにして、互いに争わせます。しかし、聖書が証しする教えは、つながりです。つながりは、イエス様の十字架の贈り物です。キリストの十字架の死と復活は、神との断絶関係を回復させ、人々の間に主にあるつながりをもたらしました。イエス様の尊い犠牲によって与えられたつながりです。聖徒たちは、イエス様の愛で結び合わされる存在なのです。エペソ4:16。それこそ、キリストのうちに隠された奥義、知恵と知識との宝です。3〜4節。
 現代病の1つが、孤独感だと言われます。欲望を追求する資本主義の市場原理は、人々の関係を手段の関係とし、人間関係ではなく物同士の関係にして、人々に孤独感や無力感を生じさせました。社会心理学者エーリッヒ・フラムは、「中世社会の伝統的な絆から自由となったことは、個人に独立の新しい感情を与えたが、それと同時に、個人に孤独と孤立の感情をもたらした」と言っています。現代社会は、孤独の文明だと言います。近年の日本においても、孤独が社会問題となっています。孤食、弧育などの問題が生じています。
 しかし、孤独は、生き延びるための本能だと言われます。孤独を感じることは、特別のことではありません。孤独の科学研究の第一人者ジョン・カシオポ教授は、「社会的なつながりのなかで歩んできた人間は、孤独感という痛みを感じるおかげで、集団から孤立したままになる危険を避けている」と言っています。ですから、つながりや絆は必要なのです。人生を人間らしく生きるには大切なことなのです。
 私たちのつながりの鍵は、イエス様です。エペソ4:2〜5。イエス様にあって結び合わされます。イエス様が、罪で分裂し、互いに憎み争う人々を救い、和解をもたらしてくださいました。私たちは、教会というキリストのからだであり、その1つ1つの器官なのです。コロサイ1:18,Tコリント12:27。イエス様を知ることが希薄になる時、人々の間のつながりが希薄になり、心が揺り動かされ、不和や争いが生じるようになります。

V−つながりは感情のコミュミケーションによって−
 つながりと言っても、現代社会では、インターネットによる多くのつながりの媒体はありますが、それらのつながりの薄さに孤独を感じる、家族と一緒でも、人々とつながっているのに孤独だという人も多いです。誰かと一緒にいることや誰かに連絡をとることだけで心のつながりを感じることはできません。一人でなくても、感情が孤独や寂しさを感じるのです。
 パウロは、牢獄の中で、聖徒たちとのつながりを感じていました。なぜでしょう。5節。霊においては聖徒たちと一緒だというのです。つまり、精神的には一緒にいると感じていたからです。パウロが苦闘しながら心配して祈っている聖徒たちが、秩序ある信仰生活としっかりした信仰があることを知って喜びました。精神的なつながりが、ここにあります。私たちも、そうではないでしょうか。誰かのために心配し、祈り、労苦しても、その人が信仰に生きるのを知るなら、喜びを与えられます。
 肉体的に一緒にいるというような状況だけでは、つながりを感じることはできません。誰かとコミュニケーションがあったとしても、そこには感情が必要です。自分は一人ではないという感情がなければ、つながりを感じることはできません。感情を感じるためには、誰かとの感情のコミュニケーションが必要なのです。
 私たちは、誰もが自分のことを理解して欲しい、受け入れて欲しいと思っています。それを感じられた時、自分は一人ではないと感じ、つながりを感じるのです。脳科学では、胎児から成人、高齢期にいたる生涯の脳の成長に、人とのつながりが大きく影響することを証明しています。
 何かを一緒にすることができる人がいる人生は、いくら貧しくても豊かな人生です。一緒に喜ぶ人がいるのは、幸いです。人とのつながりにおいて重要なのは、互いに関心を持っていることを知ることが、人生に活力を吹き込んでくれるということです。夫婦関係や親子関係、友人の関係は、まさにこのような関係の重要性を明らかにしています。感情のつながりが断ち切られると、そこには必ず悲しみがあり、力がなくなります。心の病の原因にもなります。
 別れがなぜ起こりますか。争いがなぜ起こりますか。つながりが切れてしまうからです。人生において、精神的なつながりは、重要です。パウロは、苦闘するほど聖徒たちのことを心配して、祈っています。聖徒たちはそれを知っています。ここに、精神的なつながりがあります。私たちがしている、共に礼拝をささげ、共に祈りあい、分かち合い、信仰を成長し合う関係がどれほど重要なことかを知りました。ますますこの絆をイエス様が紡いでくださることを願います。エペソ4:16。



コロサイ2:1 あなたがたとラオデキヤの人たちと、そのほか直接私の顔を見たことのない人たちのためにも、私がどんなに苦闘しているか、知ってほしいと思います。
2:2 それは、この人たちが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。
2:3 このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。
2:4 私がこう言うのは、だれもまことしやかな議論によって、あなたがたをあやまちに導くことのないためです。
2:5 私は、肉体においては離れていても、霊においてはあなたがたといっしょにいて、あなたがたの秩序とキリストに対する堅い信仰とを見て喜んでいます。


コロサイ1:24 ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。

コロサイ1:28 私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。
1:29 このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。


エペソ4:2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、
4:3 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。
4:4 からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。
4:5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。

Tコリント12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

エペソ4:16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

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