2020年3月15日「キリストに根ざして」コロサイ2:6〜7

序−「初心忘るべからず」とは、能の大成者世阿弥の花鏡に出てくる言葉です。はじめの志を忘れてはいけないという意味で使われていますが、世阿弥は、若い時の初心、人生の時々の初心、そして老後の初心を忘れてはならないと言い、いつでも、未熟さ、つたなさがあることをわきまえて向上を目指すべしと説いています。心揺れ動いていた聖徒たちは、救われた初心を忘れて、信仰の向上心を失っていたのです。

T−主キリストを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい−6
 心揺さぶられていた聖徒たちに、「主キリスト・イエスを受け入れたのですから」と言っています。6節。この言葉は聖徒たち、私たちの生活の中で何が起こったことを意味しているのですか。イエス様を受け入れたというのは、イエス様を自分の救い主として受け入れたということです。イエス・キリストの十字架の血によって、罪赦されて、神の子ども、御国の民とされたことを意味しています。罪の縄目と暗やみから解放され、新しい命を与えられたことを意味しています。素晴らしい救いの恵みです。
 イエス様を主として受けた人は、これからどのように生きなければならないのでしょうか。イエス様を自分の主としたということは、イエス様が私のすべてを治めておられる絶対的主権者であることを認め、その方に服従する忠実なしもべとなった意志を表明したことになります。この時代の主人とは、奴隷に対する主人です。パウロも、自分をキリストのしもべと言っていますが、奴隷という言葉を使っています。ローマ1:1,ピリピ1:1。奴隷には、主人に絶対的に服従する以外のほかの選択肢がありません。過去には自分が人生の主人であったが、今はイエス・キリストが私の主人になっているということです。新しい人生が始まりました。
 「彼にあって歩みなさい」とは、自分の意のままに生きるのではなく、主の御心の通りに生きるということです。この世の風潮や流れのままに生きるのではなく、神の国の原則に従って生きることです。世のためだけに生きるのではなく、神の国のために生きるのです。ですから、私たちがイエス様を主と信じたというのは、イエス様を主と受け入れたことで終了したのではなく、告白で終わったのではなく、それからイエス様中心に人生を生きて行くことです。生き方、価値観が変わったのです。
 「主キリスト・イエスを受け入れたのですから」という言葉には、こんなに素晴らしい救いを受けたのに残念だ、素晴らしい恵みと祝福を受けることができるのに勿体無いというパウロの思いがこもっているようです。私たちに対しても、「イエス様を信じたのですから」と語っています。
 「歩む」とは、生きて行くということです。イエス様と一緒に人生の旅を生きて行くのです。私たちも、厳しい環境にぶつかる時、心が揺れるのを経験します。悩みや心配で心が落ち込み、救いの恵みを忘れ、主への信頼が薄れます。なぜ、信仰の良い人も、心揺れ動き、落ち込むのでしょうか。私たちは、キリストを主に受け入れたので、キリストにあって歩まなければなりません。
 宗教改革者ルターの妻ケイティが、ある朝真っ黒な喪服を着ていたので、ルターは「なぜ、喪服を着ているんだい」と尋ねました。「神が死んだのよ」と妻は答えました。ルターが「何をばかなことを言っているんだい。神は死んでなんかいないよ」と言うと、妻は「神が生きているなら、なぜあなたは神が死んでいるかのようにふるまうの」と言いました。この叱責を聞いて、ルターは立ち上がりました。私たちにも問いかけているようです。

U−キリストに根ざし、建てられ−7
 イエス様を受け入れて、キリストにあって歩む者の特徴的な生活は、何でしょうか。7節。「キリストに根ざす」ことです。植物の木に例えられています。この地域に生える椰子の木や棕櫚の木は、30mにもなるそうですが、強い風や乾燥にも耐えることができます。それは、地中深くまで根を張っているからです。イエス様のエルサレム入城の時人々が道に敷いたのが、シュロの葉です。
 人が人生を生きて行く時、どこに根を下ろすかによって、人生が変わります。果たして私たちはどこに根を下ろしているのでしょうか。現代社会は、人の欲望に根を下ろしているようです。お金や権力に根を下ろしても、事件や経済破綻が起これば、倒れてしまいます。ころころ変わる自分の感情や体験に信仰の基礎を置くと、もろくも崩れるようになります。私たちがキリストに根ざしているなら、人生にどんな嵐が吹いて心揺さぶられ、心渇くことがあっても、倒れることなく、聖霊の泉から命の水を供給されることになります。御言葉から栄養を吸収して、人生を歩むことができます。
 7節は、信仰が深まる過程を示しています。「キリストに根ざす」という言葉は、完了形が用いられています。これは、イエス様を信じたことで、すでにキリストに根を出したということでしょう。しかし、深く根を張らなければ、人生の嵐に会うと揺り動かされ、倒れそうになります。イエス様を信じた後も、継続して成長しなければならないことを示唆しています。木は、上に伸ばしている枝葉と同じくらい根を張っているそうです。私たちの信仰が成長して実をならせるには、キリストに深く根を張ることを継続しなければなりません。救われた者は、成長し続けます。
 木が根を張る場合、最初は根の部分が圧倒的に多いです。ナビゲーターという大学生伝道団体には、2.7シリーズ「成長する弟子」というテキストがあります。このコロサイ2:7から取られたネーミングです。信じて救われた学生たちの成長養育のために用いられています。実ばかり見ようとしますが、実りのためには、まず根をしっかり深く張ることが重要です。根によって実が決定します。手入れされていない山の木が台風や大雨で倒れるのは、根をしっかり深く張っていないからです。植物も人も、根が大切です。
 また「建てられ」というのは、基礎の上に建物を建てることを例えたものです。建築において基礎が重要であることは、誰もが知っています。堅い土台の上に建てた家は嵐にも倒れることはないが、堅い土台でなければ、たおれてしまいます。マタイ7:24~27。その土台とは、イエス・キリストです。Tコリント3:11。私たちの生活がキリストの中に堅固に立てられない時は、簡単に揺り動かされてしまいます。イエス様いう土台に人生を建てるというのは、神様に完全に信頼するということです。
 「キリストに根ざす」が完了分詞であり、「また建てられ」が現在分詞なのですが、イエス・キリストを主と告白して、イエス様に根ざした者は、イエス様に確かな基礎を置いて成長し続けなければならないということです。イエス様のうちに知恵と知識の宝が隠されています。3節。この貴重な真理の重要性が簡単に見落とされています。イエス様を受け入れ、信仰を告白しただけで、真理を学んでイエス様に根ざして生活しないのは、資格だけ取って用いない人と同じです。残念、勿体無いことです。

V−信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい−7
 キリストに根ざして、建てられた人は、「信仰を堅くし、あふれるばかり感謝する」ようになります。7節。この手紙を書く人も、受ける人もそんなこと言われてもというような状況です。パウロは、獄中でこの手紙を書いており、受けた聖徒たちは心揺れ動かされていました。どうして感謝などできるのかと思います。私たちも同じでしょう。私たちの生活も、感謝したい状況で満たされているわけではありません。
 いや、それどころか、私たちの生活は、痛みや苦しみが多いかもしれません。常に問題や試みも訪れます。生活から苦しみや痛みがまったく離れるということはありません。この問題が解決されると別の問題が生じ、その問題が解決されればまた新たな問題が生じます。問題と試みは、波が押し寄せてくるように、休まず私たちの生活に押し寄せます。エペソ4:14,ルカ6:47~49。いつでも感謝することは、不可能のように思えます。
 しかし、私たちが知っておくべきことがあります。苦難と苦痛よりは、神の恵みと祝福が多いということです。大変難しい辛いことも多いけれど、それよりは楽しく嬉しいことがあります。世の中には、私たちを困らせる人も多いですが、私を愛して助けてくれる人がはるかに多いです。
 あふれるばかりに感謝する人になるためには、私たちの思考を変えなければなりません。私たちは神様の恵みと祝福を喜び、楽しいことはすべて当然のこととしていながら、難しく辛いことばかり握り、自分が世界で最も不幸で痛んでいるかのように考えます。しかし、苦難や痛みだけ見ないで、問題や試みばかり数えないで、与えられた守りと導きを見て、主の恵みと祝福を数えるのです。
 まずは、感謝できることから感謝しましょう。難しい問題から解決して感謝しようとするので、感謝を逃してしまうのです。理解しやすい神様の恵みと祝福を先に考えてみたら、理解しにくい苦難と痛みも考えることができ、苦難や逆境にも神の恵みがあることを知るようになるでしょう。
 パウロは、自分が苦しみに会ったのは、神様だけを拠り頼む者となるためだったと証ししています。Uコリント1:8~9。感謝は、環境の問題ではなく、信仰の問題です。何の痛みや苦しみがなく、楽に人生を生きる人は誰もいません。環境が良く、痛みと苦しみがない人が感謝するのでなく、神様に信頼する人が感謝して生きるのです。Tテサロニケ5:18。イエス様を受け入れたのですから、キリストに根ざして、成長する聖徒となりたく願います。



コロサイ2:6 あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。
2:7 キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。



Tコリント3:11 というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。

ルカ6:47 わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行う人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。
6:48 その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。
6:49 聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。」

Uコリント1:8 兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、
1:9 ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。

Tテサロニケ5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

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