2020年3月22日「イエス様の十字架による救い」コロサイ2:8〜15

序−先週「初心忘るべからず」を学びましたが、次に必要なことは、「基本に帰る」ことです。「基本の基」が大事です。迷った時は原点に返るのです。何か事があった時、人生の節目に当たる時は、原点である基本に立ち返るチャンスです。揺れ動いていた聖徒たちに、信仰の基本を思い出させています。イエス様の十字架による救いの基本を教えています。

T−むなしい、だましごと、罪のとりこ−8節
 コロサイの聖徒たちを揺り動かしていたのは、当時流行していた空しい、だましごとの思想や教えでした。8節。使徒パウロは、哲学そのものを否定しているのではなくて、空しい、だましごとの思想や教え、世の価値観を取り上げています。具体的には、ユダヤの律法主義やグノーシス主義と言われる哲学でした。今日も、世間には本当にさまざまな理論や主義があふれています。空しい騙しごとがいっぱいです。
 そういうもののとりこにもならぬよう、注意しなさいと言っています。なぜ、注意しなければならないのでしょう。肉の欲や罪の思いを誘惑され、言動が影響を受けるからです。いつの間にか、そうした理論や主義に囚われ、支配されてしまうからです。キリストによるものではないというのは、それらは人間中心であり、そこには救いがないということです。世に流行する理論や主義は、肉の欲には魅力的であり、人を罪に誘惑するが、結局は人を痛め、空しくさせるからです。
 近代の人間を虜にしている思想や教え、理論や主義と言えば、ヒーマニズムと資本主義でしょう。ネット四天王と呼ばれるGAFAは、人間の欲望を握ったと言われます。人間の自由が謳歌され、人々に経済的繁栄をもたらしました。しかし、今日それは幻想にすぎません。人よりも物やお金が大切にされ、人々が犠牲にされています。人々の心は病み、社会は疲弊し、社会も混乱しています。家庭も学校も、職場も問題が多く、傷ついています。ますます人間の罪が支配するところとなりました。
 聖書は、人の罪が問題であると教えています。欲望や自己中心という罪が人生の深刻な問題であると人々が気付いて来ています。罪とは何でしょう。人間関係を傷つけ、破壊し、妬みや争い、怒りや憎しみを生じさせています。ガラテヤ5:19〜21。聖書が言っている罪を要約すると、神への意図的な反逆です。人類の始祖の罪は何でしたか。木の実を食べたことが問題ではなく、神が言われた命令に違反したことが問題でした。彼らは、仕方なく分からないで罪を犯したのではなく、自由意志が与えられており、命令を守り、罪を犯さない能力もありました。それにもかかわらず、神の命令を破ったのです。そこから、様々な罪が出てきます。
 現代の私たちも同じです。自己中心の思いや欲が、私たちに罪を犯させています。人間関係を傷つけ、自分自身を傷つけています。ところが、人は自分中心や欲が罪の言動を生じさせていることに気付いていません。
 すべての罪は、大きいのも小さいのも神に反逆することから生じています。そもそもすべてのものは神によって創造され、私たちも神によって造られ、命を与えられたものです。神と共にいたエデンの園は、人にとって天国でした。ですから、神に従うことが、人間の存在の条件です。人間関係においても、夫婦関係においても、互いを尊敬し合い、助け、仕え合うことを神から命じられているにもかかわらず、神の命に違反するから、不和や争い、怒りや憎しみが生じて来るのです。
 神は、アダムに対して善悪の木の実を食べたら、その結果死ぬことになると警告されました。罪から来る報酬は死です。ローマ6:23。人間の死には、肉体の死と精神的な死があります。深刻な問題は、精神的な死です。罪の結果、神との関係が切れてしまいます。霊的な死は、神との関係断絶です。アダムが罪を犯した後、神を避けて隠れました。神様も、アダムとエバをエデンの園から追放されました。精神的な死によって、神のすべての祝福から離れ、平安はありません。ローマ3:23。人生の空しさを感じ、苦しみを味わいます。人生をさまようことになります。だれがそんなみじめな状況から救い出してくれるのでしょうか。ローマ7:24。

U−罪の赦し、十字架による救い−9,13〜15
 人は、その罪のゆえに霊的には死んでいた者です。13節,エペソ2:1。自分の努力や節制、業績や善行などで救いを得ようとしますが、罪はなくなりません。平和に幸いを求めて生きようとするのですが、できません。争い傷つけ合い、ねたみや憎しみを持ち、怒りや悪口をぶつけます。
 どんな救いの方法があるのでしょうか。13節。罪人に対して、神は罪の赦しを与えてくださいました。人間の罪を赦すために取られた方法は、神の御子イエス・キリストを世に送られることでした。ローマ8:3。イエス様の十字架は、罪のゆえに神との交わりができなくなった人間に向けられた神の愛の業です。ヨハネ3:16〜17。イエス様は、人となられた神です。9節。罪が赦されるには、何か赦されるべき根拠、赦しの代償が必要です。それがイエス様の十字架による死です。罪のない神の御子イエス様が罪人の代わりに十字架で死んでくださったのです。マタイ20:28。
 罪の問題の解決策は、ただイエス様の十字架だけです。イエス様がすべての罪人の身代わりとなって十字架にかかり、罪人を罪の縄目から解放してくださいました。イエス・キリストの十字架の勝利です。イエス様が十字架上で「完了した」と叫ばれた完全な勝利です。罪を滅ぼされた勝利であり、滅びの中を歩む罪人を救われた勝利です。罪の囚われ人を悪の力から解放して、自由にしてくださいました。 個人で言えば、過去の罪だけでなく、現在も未来の罪も赦してくださるのです。救われたなら、罪赦されているのですから、もう自分を責め続けないでください。
 14〜15節は、この点を明確にしています。聖書は、人の罪を負債に例えています。ですから、罪を赦し、罪から解放するので、債務証書を無効にされたと言っているのです。この証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。もう、罪で私たちを責め立てることはないことが、強調されています。イエス様の十字架は、罪人が罪赦されて生きるようにしてくれました。神の愛を確実に見せてくれた事件です。
 イエス様の十字架は、いけにえとか犠牲と言われます。ヘブル9:26。昔人々は、自分の罪を赦してもらおうと動物をいけにえ、犠牲としてささげました。つまり、イエス様の十字架は、私たちの罪の代わりなのです。昔の人は、ほふられた動物の血が流れるのを見て、罪の犠牲をリアルに感じたのです。イエス様が私たちの代わりに鞭打たれ、罵られ、十字架に苦しめられました。メル・ギブソン監督のパッションは、その凄惨な十字架を見せています。

V−キリストとともに生きる−10〜13
 イエス様の十字架の身代わりにどう応えるのでしょうか。悔い改めて、イエス様の十字架は私の罪のためだと告白するなら、救われ、罪の赦しを受けます。Tヨハネ1:9。そして、信じたことの表明と確信のために洗礼を受けます。11〜12節。ここで、バプテスマ、洗礼を受けることによって「キリストとともに葬られ、キリストとともによみがえらされた」と言っています。洗礼を受けるということは、神がキリストを死者の中によみがえらせように、私たちもいのちにあって新しい歩みをするためです。ローマ6:4。
 罪赦され、救われた結果、どうなるのでしょうか。神の子どもとしての特権が与えられます。天国の民とされます。神が与えてくださるすべての祝福を受けます。これは、素晴らしい特権です。ローマ8:17。そういう恵みと祝福を受けている者にふさわしく生きなければならないでしょう。エペソ4:1。
 また、イエス様を信じて救われた者は、神の赦しを与えられたので、赦された者として自分も誰か自分に負債のある者を赦さなければならないでしょう。イエス様の例えの話では、1万タラントの負債を赦された者として、百デナリの負債を赦さなければならないと教えています。10万倍の膨大な罪を赦された者として、憎しみや恨みという罪から解放されますように願います。この赦しの力と赦しの特権を存分に用いるならば、傷ついて、破れた人間関係も回復されます。
 イエス様は、十字架上で、ご自分を十字架につける者たちのために、「彼らの罪をお赦しください。彼らは何をしているのか分からないのです」と祈られました。赦しは、際限なく発生する罪を解決する唯一の方法です。自分が間違ったとしても、相手が間違ったとしても、この方法です。まず、赦されたことを思い出し、赦しを祈ります。誰かを恨み、憎んでいますか。夫婦間に非難や不満が沈殿していますか。赦しを祈って、イエス様に委ねてみてください。赦しは、魂を癒します。赦しは心の病を治します。赦しは肉体の病気をも回復させます。人間関係を回復させます。
 有名な賛美歌アメージング・グレイスは、作詞のジョン・ニュートンが奴隷貿易に関わったことに対する悔い改めと、それにも拘らず赦してくださった神の愛に対する感謝が歌われています。
 イエス様を信じて、新しい命に生きている者は、「キリストにあって、満ち満ちている」と言われています。10節。イエス様の十字架と一緒に死に、イエス様と一緒によみがえった者は、もはや過去の罪に支配されていた自分が生きるのではなく、イエス様が私のうちに生きておられるように生きるのです。ガラテヤ2:20。聖書の御言葉に聞き従い、新しいいのち、新しい価値観に生きるようになります。



コロサイ2:8 あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。それは人の言い伝えによるもの、この世の幼稚な教えによるものであって、キリストによるものではありません。
2:9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。
2:10 そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。
2:11 キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。
2:12 あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。
2:13 あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、
2:14 いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。
2:15 神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。



ローマ6:23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

ローマ3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、

ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

マタイ20:28 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。

ローマ7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

ローマ8:3 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。

Tヨハネ1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

ガラテヤ2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

ローマ6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

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