2020年3月29日「かしらなるキリストに結びつく」コロサイ2:16〜23

序−新しい歩みを始める時、誘惑や惑わしがあります。信仰生活を始めたばかりのコロサイの聖徒たちも、惑わされ、騙されて、心が揺れ動いていました。信仰が歪められ、違ったものになりかねません。私たちは、どういうことに注意すればいいのか、今日の箇所が教えてくれます。

T−律法主義ではなく、本体であるイエス様を見る−16〜17
 まず、聖徒たちは「食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて」律法主義の人々から惑わされていました。16節。旧約の律法で禁止された物を食べるな、決められた祭りを守れと言って、聖徒たちを苦しめていました。ユダヤ人たちが、自分たちの伝統を重んじ、禁止された物を食べないことで、自分たちの誇りとしていたからです。
 人がそんなこと言っても聞かなければいいのに、なぜ惑わされたのでしょう。律法主義の人々に比べて、自分はだめだな、もっとしっかりやらなければと自分の信仰に不安を覚えたのでしょう。そして、律法とか戒律を守ることで信仰が深まるとか、信仰者らしくなると思ってしまったのです。人と比べたりすると、そんな惑わしに陥る危険があります。あなたは、どこを見ているのですか。誰を見ているのですか。
 惑わされてはなりません。騙されてはなりません。「誰にもあなたがたを批評させてはならない」と強い口調で警告しています。イエス様は、そういうことを守れば救われると言われたのでしょうか。自分の努力や善行などでは罪から解放されなかったから、イエス様が来られたのではないですか。そんなことで救われるなら、旧約聖書で十分なはずではないですか。
 「影であって、本体はキリストにある」という理由に注目しましょう。17節。律法主義者が主張している律法は、影に過ぎないだけで、その実体はイエス・キリストだからです。旧約の律法や儀式は、どこまでも新約の象徴に過ぎないからです。ヘブル10:1。旧約聖書は、本体であるイエス・キリストが来られるまで預言的価値を持っていたということです。ですから、旧約は新約の光で読むと言われます。
 旧約の祭りとイエス様の関係を取り上げてみましょう。過越しの祭りとイエス様の十字架では、犠牲の子羊の血が裁きを過ぎ越させたように、イエス様の十字架の血が人々の罪の代償となりました。出エジプト12:3〜8,エペソ1:7。初穂の祭りと復活祭(イースター)では、約束の地での初穂が、イエス様の復活が死者の中からよみがえった者の初穂であるということです。申命記26:1〜10, Tコリント15:20。初穂の祭りは、過越の祭りの後に来る最初の安息日の翌日にもたれました。イースターの日です。七周の祭りと聖霊降臨(ペンテコステ)では、初穂の祭から第7の安息日の翌日の日曜日(50日ペンテコステ)に最初の収穫物をささげましたが、その同じ日に聖霊が降臨して、弟子たちが聖霊を受けて、魂の収穫が始まったのです。いずれも、旧約の祭りの日付と同じです。
 重要なのは、このように神が予定された時にイエス様が来られ、予定された時に十字架で死なれ、復活されたということです。神のご計画が啓示されたとおりに成就しています。驚くほど見事にリンクしています。旧約聖書は、ユダヤ人の歴史や暦ではなく、すべての人類の歴史であり、主の救いの歴史や暦であることを覚えて、信仰を堅くします。

U−形式主義ではなく、かしらなるキリストに結びつく−18〜19
 2つ目のことは、「自己卑下とか御使い礼拝とかをする」といううわべのこと、形式主義からの惑わしがありました。18節。「ほうびをだまし取られて」と訳されたこの言葉は、「資格を奪われる」とも訳されます。もし、彼らに惑わされて、勘違いするなら、救われた資格を失うことになりかねないと強調しています。
 なぜ、パウロは、このように強く警告しているのでしょう。ことさらに自己卑下して御使い礼拝をしても、うわべだけ敬虔そうにしていたからです。肉の思いで誇っていたからです。つまり、自分は普通の人ができないような敬虔生活をしていると自慢しながら、そうしてない人々を見下していたのです。まさに、イエス様が警告されたあのパリサイ人の姿です。マタイ6:1〜8。人前で自分を誇り、人の上に立ちたいと思う思いです。
 御使い礼拝も、同じです。人は神と直接交わることができないので、御使いのとりなしが必要だと主張し、御使い礼拝を主張していた人々がいました。御使いに会ったとか幻を見たと言って、いかにも敬虔そうに見せかけていたのです。何か神秘的な現象に頼る者や自分自身の信仰生活をうぬぼれる者は、高慢になるだけです。大事なことが欠けています。
 それは、キリストのからだなる教会の「かしらに堅く結びつくことをしていない」ことです。19節。肝心のイエス様に結びついていないのです。頭が付いていなければ、からだは機能することも成長することもできません。聖徒たちがかしらなるイエス様から離れるなら、生きて行くことはできません。そのようなうわべだけの敬虔主義や神秘主義は、聖徒たちに精神的混乱を生じさせました。
 現代でも、このような人々がいます。私が祈ってあげれば、聖霊があなたに降りて来ますなどと言う人がいます。イエス様を信じた者には、御霊が内住してくださるのは、イエス様の約束です。自分が祈りに専念するために断食するのは個人の自由ですが、敬虔そうに断食して誇るのは、パリサイ人と同じです。これらうわべの敬虔主義や神秘主義に惑わされるのは、私たち自身にも、熱心な人に思われたい敬虔そうに見られたいという高慢の罪があるからです。人から認められたいという承認欲求があるからです。
 かしらなるイエス様に結びついているなら、そのような人々に惑わされることはありません。イエス様は、偉くなりたいと思う者は、仕える者になりなさいと教えられました。マタイ20:26。ご自分が仕えるために世に来られたと言い、それは、十字架にかかって贖いの代価として自分を与えることだと言われました。マルコ10:45。

V−キリストの十字架とともに死に、復活の主とともに生きる−20〜23
 3つ目は、「すがるな。味わうな。さわるな」というような定めに縛られることです。コロサイの地は、ギリシャ文化の影響が大きい所です。ギリシャ哲学では、肉体(物質的世界)と魂(精神世界)の二元論的な人間論が信じられており、禁欲を理想的な人格形成に至るための徳の訓練として捉えていたそうです。禁欲主義とは、感性的欲望を悪の源泉、またはそれ自体が悪であると考え、それを出来る限り抑圧して徳に進み、魂の平安を得ようとしました。
 こういうものは、多くの人々にとって自分を縛りつける苦行に過ぎませんでした。しかしながら、禁欲主義が、本来道徳や宗教の分野で強調されていたので、聖徒たちも「すがるな。味わうな。さわるな」というものに縛られてしまったようです。現代の私たちにとっても、日本の文化や習慣の中に生きていますから、そういうものに縛られそうになることがたびたびあります。地域や職場や学校の中でも、ここではこれをしなければならない、みんなもやっていることだと強要されることがあります。惑わされないで、御言葉の知恵をもって対処したいと思います。
 禁欲的に生きる人が、自分だけ苦行していればいいのに、そういう人は他の人たちにもそんな生活を強いるのです。それで惑わされた聖徒たちが、何かを禁じることが、いかにも敬虔そうだと勘違いしてしまうからです。そうしないと信仰的じゃないかなと思ってしまうのです。ですから、聖徒たちがキリストとともに死んだという点を強調しています。20節。イエス様を信じて救われた者は、古い自分が十字架のキリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから解放されているはずではありませんか。それなのに、どうしてまだこの世の生き方をしているのですか。このように言うパウロの残念な思いがひしひしと伝わって来ます。他のものにあなたの人生を傾かせないでください。ガラテヤ3:1〜3。そのようなものは、人間の戒めと教えによるものです。用いれば、滅びるものです。22節。イエス様に結びついてください。
 禁欲主義のようにしている人を見るとすごいなと思います。しかし、人は完全に自分の欲を制御することはできません。かえって欲の中に生きてしまう罪人であることを知らされるのです。今日の箇所に出てきた三つのことの決定的な弱点は、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないということす。23節, エペソ2:1〜3。ですから、イエス様が私たちの罪のために十字架にかかってくださったのです。罪と欲に縛られた古い自分は主の十字架とともに死んだのです。罪ゆるされて解放されているのです。ここに、キリスト者の自由があります。
 救われた人が、十字架の死からよみがえられたイエス様と結びつくことによって、生まれ変わった新しい人として生きて、成長して造り変えられるのです。福音とは、文字通り「良い知らせ」です。人間の努力や力で救いを得ることができない私たちに、イエス・キリストを信じる信仰によって救いを得るようにしてくれたのが、まさに福音です。福音には条件がありません。ただイエス様の十字架を信じるだけです。それが、神が私たちに与えてくださった恵みの贈り物です。イエス様のいない幸い、イエス様のいない真理、イエス様のいない平安はありません。かしらなるイエス様に結びついて生きる者となることを願います。ヘブル12:2。



コロサイ2:16 こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。
2:17 これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。
2:18 あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、ほうびをだまし取られてはなりません。彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、
2:19 かしらに堅く結びつくことをしません。このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。
2:20 もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、
2:21 「すがるな。味わうな。さわるな」というような定めに縛られるのですか。
2:22 そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。
2:23 そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。



ヘブル10:1 律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。

Tコリント15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

ガラテヤ3:1 ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。
3:2 ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。
3:3 あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。

エペソ2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

ヘブル12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

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