2020年4月5日「主の苦しみは我がためなり」マタイ27:38〜46

序−少し前に日本でムンク展がありました。「叫び」という有名な絵は、ムンクが、ある日の夕方、急に異様な空の色になり、不安を覚え、自然の叫びを感じたことがモチーフとなったそうです。十字架上でイエス様が叫ばれました。そのイエス様の叫びから、受難週のメッセージを聞きましょう。

T−ののしられ、あざけられ−38〜44
 イエス様が十字架につけられる場面ですが、マタイの記録は鞭打ちや十字架のむごたらしさは記されておらず、人々のののしりやあざけりを記しているのが目立ちます。すでに兵士たちがイエス様の服を剥ぎ取り、王が着る緋色の服を着せ、いばらの冠をかぶせてからかい、つばきをイエス様にかけました。27〜30節。からかわれ、ばかにされるのは、プライドがどれほど傷つくことでしょうか。
 イエス様を十字架刑に追い込んだ祭司長たち、律法学者、長老たちが、十字架につけた後も、イエス様を嘲っています。41〜43節。民衆の人気を奪われた彼らは、イエス様に妬み、敵対し、憎みました。そのあざけりは、「十字架から降りたら信じるか」とか、「彼は他人を救ったが、自分は救えない」には、イエス様の働きを分かっていながら、わざとそういう言い方をしているようです。いわゆる心傷つけるような言い方です。自分のしていることを否定され、皮肉られるのは、辛いことです。
 一緒に十字架につけられた強盗たちも、悪口を浴びせます。44節。自分たちも同じ刑罰を受けているのに、あざけるのです。腹いせをイエス様にぶつけているのです。そして、道行く人々も、イエス様をののしっています。39〜40節。祭司長たちのような悪辣な言い方です。頭を振るのは、相手を酷く侮辱し、あざける象徴的な慣習でした。哀歌2:15。なぜ、こうもあざけり、ののしるのでしょうか。彼らは、直接イエス様と関係のない、イエス様から不利益を被ったわけでもない、ただの通りすがりです。これらの言葉は、イエス様が悪魔の試みを受けた時、悪魔が繰り返し使っていた言い方です。イエス様の救いの働きを邪魔する悪魔の策略です。
 イエス様をからかい、ののしり、あざける人々の姿は、罪の姿そのものです。彼らは、まるでイエス様をいじめているようです。逆恨み、鬱憤晴らしのようです。なぜ社会からイジメがなくならないのでしょうか。大人にもどこの世界にもいじめがあります。専門家は、いじめる側の心理について、葛藤や不安から逃れたい「防衛規制」のメカニズムを働かせていると言います。いじめは、他の人への怒りを「置き換え」たり、劣等感を他の人への優越感で補おうとする「補償」とし、鬱憤を解消しようとするのです。自分を防衛するために無意識にしてしまう行為だと言います。
 イエス様が、人の罪の代わりに十字架にかかってくださいました。Uコリント5:21。イエス様を信じて、そのような心を癒して、新しくしていただくことが必要です。イエス様の苦しみは、私たちの罪の代わりに罰を受けたことが強調されています。イザヤ53:4,6。イエス様の十字架を単に肉体的に理解するよりも、十字架に込められた深い精神的な意味を考える必要があります。
 私たちも、世にあってののしりやあざけりを受けます。からかわれ、馬鹿にされることもあります。プライドが傷つき、ずたぼろになります。体の痛みは一時的ですが、心の痛みはずっと残り、増えこそすれなくなりません。そんな私たちの心の痛みを、イエス様は身を持って経験されました。私たちのために十字架にかかり、ののしられて、あざけられたイエス様の姿を思う時、私たちの痛んだ心がどれほど慰められることでしょうか。

U−暗やみにおおわれて−45
 ムンクの絵のように、イエス様が十字架に苦しむ時、異様な空模様となりました。45節。正午から午後3時まで、イエス様の苦痛が最も大きくなった瞬間、全地が暗さに覆われました。曇りの暗さとは別次元の暗さです。この暗闇は、人間の罪に対する神の御怒り、裁きを示しています。出エジプト10:22。イエス様が罪に捕らわれた人間を解放するために、私たちの代わりに神の怒りの裁きを受けられたからです。
 罪から来る報酬は死です。ローマ6:23。イエス様は、私たちのすべての罪をその一身に背負ってくださいました。3時間の暗闇は、光であるイエス様と暗の勢力であるサタンとの霊的な戦いだったことを示しています。ヨハネ1:5。サタンは、自分が勝利するために十字架を利用したのですが、イエス様は、十字架の死からからよみがえり、闇の勢力に勝利します。
 私たちの人生によみがえられたイエス様を迎えることができなければ、暗やみに住む人生になってしまうでしょう。マタイ4:16。なぜ、人の心に闇がはびこるのでしょう。どうして、心が暗いままなのでしょう。罪のために肉の欲のまま、自分中心に生きようとします。罪にとらわれていれば、心は暗くなります。人々は、罪という言葉に嫌悪感を持っています。心の傷の回復や環境の改善などを好みますが、罪の悔い改めという表現は、好みません。しかし、罪が人のたましいをどれほど痛めるのか、罪が人間関係をどれほど破壊するのか、罪がどれだけ私たちの社会を荒廃させるのか知ったら、悔い改めずにはいられません。
 ムンクの「病める子」という作品は、自分が子どもの頃結核で亡くなった母と姉を思い出して描いたとされています。その頃描いた「サン・クルーの夜」は、孤独や悲しさを感じさせ、父を亡くしたムンクの心情が見えると言われます。彼の作品には、人間の内部にある言葉や絵にするのが難しい不安や恐れの感情が表現されているそうです。
 人が失望し、落胆すれば、心が暗くなります。何もかもうまく行かず、突然患難が起これば、絶望して、人生は暗闇に覆われます。ですから、十字架から復活され、勝利されたイエス様を心に迎えましょう。以前は暗闇でも、主にあって光の子どもとして歩むことができます。エペソ5:8。イエス様に心を開いてください、光が心に臨みます。

V−見捨てられた叫び−46
 その白昼の暗闇の中で、イエス様は大声で叫ばれました。46節。なぜ、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれたのでしょうか。それは、神から見捨てられたからです。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という叫びは、絶望的な魂の叫びや不信の怒りの叫びではありません。信頼する神から見捨てられた痛みの叫びです。
 人が見捨てられた時の孤独と悲しみと喪失の痛みは、どれほど大きいことでしょうか。相手の心に自分の不在を感じる時、見捨てられたと思います。見捨てられた子ども、捨てられた親、捨てられた妻と夫、職場から見捨てられた失業者、友人から捨てられた人は、孤独と悲しみ、痛みを覚えます。叫んだり、泣いたり、人を恨んだり、自分を責めたりします。
 イエス様の孤独と痛みは、敵対する者から捨てられただけではありません。ホサナと歓迎していた民衆から見捨てられ、ののしられました。愛する弟子たちからも裏切られ、捨てられました。そして、信頼していた神から見捨てられました。天でも地でも見捨てられ、ただ一人の孤独です。だから、叫ばずにはいられません。
 なぜ、見捨てられたのでしょうか。私たちの身代わりとなられたからです。私たちの罪を背負って、代わりに十字架にかかり、叫ばれたイエス様を思う時、私たちの罪の大きさを覚え、罪の責任を考えます。罪の値を支払うことがいかに恐ろしいか悟らなければなりません。
 イエス様は、十字架につけられて6時間、罪のための裁きを受けました。鞭打ちで裂けた背中の痛み、十字架刑は、ものすごい痛みが続きます。ののしられ、あざけられた痛みもありました。しかし、痛みの中で最も大きな痛みは、肉体の痛みでも、侮辱を聞く痛みでもなく、見捨てられる痛みです。しかし、それは私たちを救うための叫びであり、赦しと愛の叫びでもあります。イエス様の苦しみは私たちのためだからです。
 私たちも、誰かから捨てられた苦しみと悲しみ、痛みがあるでしょう。しかし、イエス様よりも見捨てられた人はいないでしょう。イエス様は、私たちを救うために、徹底的に捨てられました。ですから、人から見捨てられることで落胆しないでください。見捨てられたら、イエス様を覚えてください。私たちが苦しみ痛みの中で見捨てられたと感じたその瞬間、イエス様の十字架のゆえに神の愛を覚えることができます。苦難と絶望で暗闇を感じる時、暗やみでイエス様が叫ばれたことを覚えてください。
 ダビデは、詩篇の中で、イエス様と同じ叫びをあげています。昼も夜も叫んでいます。詩篇22:1〜5。しかし、その後で神の助けと守りを賛美し、信頼を告白しています。私たちも、主のゆえにそうできます。
 見捨てられる経験は、自分の存在の根幹が揺らぐ苦しい経験です。捨てられる時経験することは、関係が断たれる断絶感です。見捨てられるなら、行き場がなくなり、心の孤独と漂流が始まります。しかし、神は捨てられた人々を用いました。ヨセフ、モーセ、ダビデ、パウロも人々から見捨てられました。神に用いられた人は、かつて捨てられた人です。見捨てられた人は、見捨てられた人々の痛みや苦しみをよく知っているからです。そして、神の愛を受ける者が、神の愛を伝えることができます。今週は、受難週です。「主の苦しみは、我がためなり」と賛美し、イエス様の十字架を黙想して過ごしましょう。




マタイ27:38 そのとき、イエスといっしょに、ふたりの強盗が、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。
27:39 道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、
27:40 言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」
27:41 同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。
27:42 「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。
27:43 彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」
27:44 イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。
27:45 さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。
27:46 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。



イザヤ53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、【主】は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

Uコリント5:21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

エペソ5:8 あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。

詩篇22:1 わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。
22:2 わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。
22:3 けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。
22:4 私たちの先祖は、あなたに信頼しました。彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。
22:5 彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした。

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