2020年4月12日「平安があるように」ヨハネ20:19〜31

序−トルストイ作の靴屋のマルチンという物語があります。自暴自棄になっていたマルチンが夢の中で、お前の家に行くという神様の声を聞いてから、生き生きして人々を助ける人になって行くものです。イースターの日、復活のイエス様が自分のところに来られると思ってみましょう。

T−恐れと不安で閉じこもっていた−19
 最初のイースターの日、弟子たちの様子はどうでしたか。19節前半。「恐れて戸がしめてあった」のです。イエス様の弟子であったことは素晴らしい誇りでした。イエス様がエルサレムに入城する時も弟子たちは堂々としていました。ところが、イエス様は十字架につけられ、ののしられ、あざけられ、無残に殺されてしまいました。弟子たちは、失望落胆し、大きな挫折を味わいました。自信を失いました。私たちも、失敗したり、困難に出会って失望し、挫折することがあります。敗北意識が、私たちを閉じ込めます。プライドを砕かれて、心を閉じてしまうでしょう。
 弟子たちは、イエス様の弟子である自分たちも殺されるのではないかと非常に恐れていました。いつユダヤ人が捕まえに来るかと不安で不安でたまりませんでした。恐れて閉じこもっていたのです。閉じこもって、何もすることができません。人間は不安の存在です。経済や科学の進んだ時代であるのに、現代は不安の時代とも言われています。人々は、様々なことで恐れや不安を感じながら生きているのです。家族のこと、学校や友人のこと、人間関係や健康のこと、経済や仕事のこと、あらゆることに関する不安や恐れがあります。今、感染症に対する不安や恐れが増大しています。人々は外出を控え、家に閉じこもっています。
 人生には、恐れと不安がたくさんあります。ある人々にとって、人生のことは何もかもが不安でしょうがない、恐れに囲まれているようです。不安や恐れから逃れたくて、良いと言われることをやみくもに何でも行うでしょう。それでも、現実は全然変わりません。
 私たちは、弟子たちの不安や恐れを想像することができます。同調するでしょう。しかし、彼らの恐れや不安について、大事な点を見落としてはいけません。弟子たちは、すでにイエス様復活のニュースを聞いていたはずです。17節。それでも、彼らを取り巻く環境があまりにも不安で、怖くて、復活の知らせも信じられなかったのです。彼らの心からイエス様がいなくなっていたのです。弟子たちは、恐れのために自らを閉じ込めていたのです。自分の心を縛っていたのです。
 これは、私たちの姿ではないでしょうか。イエス様の復活の話は知っています。信じています。でも、大きな問題や事件が起これば、不安や恐れの中に落とされてしまいます。カルヴァンは、人間は不安工場だと言いました。小さな問題でさえ、心配して恐れます。漠然とした不安を覚え、起こっていないことを想像して恐れます。ベンゲルという神学者は、「神のみを恐れる人は、神でないことについては何も恐れない。しかし、神を恐れていない人は、神以外のすべてのことを恐れる」と言っています。神を恐れ、信頼していた人々は、わざわいを恐れませんでした。詩篇56:4。

U−復活のイエス様が来られる−19〜20
 不安と恐れで閉じこもっていた弟子たちのところに復活のイエス様が来てくださいました。19節後半。恐れで隠れていた弟子たちをイエス様が見つけて、霊のからだをもって来てくださいました。イエス様は、弟子たちに対して、何とおっしゃいましたか。「平安があなたがたにあるように」です。どれほどこの一言が、失望落胆し、恐れと不安の中に閉じこもっていた弟子たちの耳に響いたことでしょうか。
 想像してみてください!今、イエス様が自分のところに来られたと。今、イエス様が部屋に入って来て、「平安があなたにあるように」と言ってくださる場面を思い描いてみてください。あなたの名を呼んで、「平安があなたにあるように」と言われるのです。感動して、心が震えませんか。冷たく閉じていた心が溶かされませんか。傷ついていた心が癒されませんか。暗く閉じていた心に光が差し込みませんか。
 弟子たちの不安と恐れは、喜びに変わりました。20節。イエス様は、本当に喜びの源泉です。イエス様は、弟子たちに手とわき腹の傷跡を見せました。苦難の十字架のしるしを示してくださったのです。イエス様が復活されたということは、罪が赦されて、天国の民とされることが実現したのです。使徒26:18。イエス様の手とわき腹の傷跡は、弟子たちに対する愛のしるしでした。
 イエス様を裏切り、イエス様を見捨てた弟子たち、もう弟子の資格もないような者なのに、イエス様がさがして来てくださいました。愛の主の方から、弟子たちの所に来てくださいました。私たちも同じです。イエス様の方で私たちをさがして、私たちのところに来てくださいます。何の資格もない私たちのために十字架にかかってくださったイエス様が、復活されて私たちのところに来てくださるのです。何の資格も功績もない私たちを訪ねて来て、「平安があなたにあるように」と言ってくださるイエス様の愛の中で生きて行くことを願います。
 イエス様は、「平安があなたがたにあるように」と繰り返しておられます。19,21節。復活されたイエス様が弟子たちに与えられた贈り物は、平安でした。イエス様が与えてくださった平安は、世で得ることができないものです。世で得ることのできる平安とは違います。この平安は、病や問題の渦中にあっても、享受できる平安です。ヨハネ14:27。イエス様のくださる平安が世でいう平安とどう違うか、よく考えてみましょう。
 世で言う平安は、災いや患難に出会わない、自分の求めるものを手にする、自分の願う通り事がなるならば、平安だというものです。しかし、イエス様が「平安があるように」と言ってくださっても、弟子たちの恐れや不安の環境が変化したり、その原因が消えたわけではありません。弟子たちが感じる恐れや不安の環境はそのままです。
 結局、復活のイエス様の与える平安をどれだけを大きく考えているかということです。周りの環境がいくら難しく大変でも、復活されたイエス様の力をより大きく信じるなら、心に平安を所有することができるのです。復活のイエス様に出会う前の弟子たちは、完全に環境にとらわれ、恐れと不安を感じていました。私たちも、イエス様を信じながら、不安と恐怖で心をおおわれていたかもしれません。周りの環境や状況のために、自分を不安や恐れに追い込んでいたかもしれません。今、復活のイエス様を心に迎えてください。黙示録3:20。平安が与えられます。
 何が変わったのでしょうか。弟子たちは、まだ危険な環境の中に生きていました。復活された主を信頼する信仰が大きくなるにより、不安や恐れが消え、平安が自分の心に来たのです。復活されたイエス様が彼らの中心におられるのです。世のどんな恐れよりも、復活されたイエス様を信頼し、信仰の目で眺める時、私たちの心に主がくださる平安があふれることを確信します。

V−使命と力を与えられる主−21〜23
 イエス様は、不安と恐れから喜びと希望に変えられた弟子たち対して、もう一度平安を宣言して、素晴らしい使命を与えておられます。21節。「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」と言われたのです。これが、クリスチャンの生活です。クリスチャンは、世に遣わされて、福音を伝える者として用いられて行くのです。主の平安を与えられたクリスチャンは、福音で世を変えて行く存在なのです。実際に、この後、弟子たちは、敵がうようよいる神殿にでかけ、十字架につけろと叫んでいた人々がいるところで、福音を伝えることになります。使徒2:14。
 でも、心配しないでください。確かに、世で使命を果たし、用いられて行くには、私たちには力が必要です。その力とは何でしょう。22節。聖霊です。「息を吹きかけて」という言葉は、あの創世記2:7の「息を吹き込まれた。それで人は生き物となった」ということを思い出させます。聖霊が私たちに下って、私たちも新しい人に創造されるのです。ガラテヤ6:15。
 イエス様は、世の終わりまで私たちとともにいてくださると言われました。マタイ28:20。復活のイエス様がともにおられること、それが平安です。弟子たちは、聖霊を受けた後、驚くほど変えられて、福音の働き人となりました。使徒1:8。聖霊に満されるなら、苦難や災いがある世の中で、世を見る目が変わってきて、問題を接する姿勢が変わって来ます。私たちも、聖霊に満たされるなら、力を与えられて使命を果たすことができるようになります。患難多い世に出て行くなら、平安が必要です。ヨハネ16:33。
 イエス様が私たちを世に送って果たさせる使命は何ですか。23節。人々がイエス様を信じて、救われて、罪が赦されることです。私たちに人の罪を赦す権限があるのではなく、イエス様の赦しの福音を伝える役割をするだけです。そして、聞いた人が悔い改めに導かれて、罪の赦しを得るようになるのです。こんなに尊い働きはありません。しかし、罪の赦しを伝えなければ、その人の罪はそのままなのですから、伝えなければなりません。
 今日心に復活の主を迎えてください。恐れと不安の心に平安を与えられ、喜びと力を与えられ、使命を果たしながら、新しく生きる者となることを願います。ヨハネ14:27。



ヨハネ20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20:20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20:21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
20:22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」



詩篇56:4 神にあって、私はみことばを、ほめたたえます。私は神に信頼し、何も恐れません。肉なる者が、私に何をなしえましょう。

ヨハネ14:27 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。

黙示録3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

マタイ28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

使徒1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

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