2020年4月19日「天国人を生きる」コロサイ3:1〜4

序−人は何を考えるかで人生が違って来ると言われています。先週は、イースター、主の復活の記念日でした。この復活のイエス様を信じて、救われているということはどういうことなのか、今日の箇所が教えています。イエス様を信じる私たちは、どのような存在であり、どのように生きる者になれるのか考えてみましょう。

T−すでに死んでおり、キリストとともによみがえらされた−1,3
 イエス様の復活は、現在のクリスチャンの生活を変化させるものです。1節前半。イエス様を信じた者は、「キリストとともによみがえらされた」者だと言っています。素晴らしい恵みです。よみがえらされた、復活させられたというのであれば、それまでは死んでいたということになります。イエス様が私たちの身代わりとなって十字架にかかってくださいましたが、私たちも主の十字架とともに死んだと思えというのです。
 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪の自分が死んで、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためです。死んでしまった者は、罪から解放されています。ローマ6:6〜7。3節の「あなたがたはすでに死んでおり」というのは、そういうことです。古い自分、罪にとらわれていた自分は死んだのです。昔の罪に捕らわれていた生活は終わったということです。
 多くの聖徒たちは、かつて死んでいたような存在だったことを、真剣に考えていないようです。罪と咎で死んでいたことを真に自覚しなければ、救いの感激もないでしょう。不平や不満がいっぱいの人、感謝のない人は、古い自分が死んだということに気付かないのです。また、イエス様と共に生きることが何なのか知らない人です。
 私たちは、キリストの十字架とともに死に、キリストが復活されることによって、新しい命に生きる者となりました。ですから、私たちは、新しい存在となったのです。罪から解放され、新しい命に与った。ここに、感謝があり、恵みがあり、問題の解決があり、幸いがあります。イエス様を信じて救われた者は、新しい存在です。これを理解しないと、クリスチャンとして人生を理解できないだけでなく、確かな信仰生活はできません。
 ここで、パウロが強調するのは、古い自分がすでに死んで、イエス様とともに復活したということです。かつての自分が死んで、よみがえったとすると、今私たちが生きているのは、イエス様を信じる前に生きていたような命ではありません。ガラテヤ2:20。イエス様と一緒に十字架につけられ、よみがえらされたのなら、もはや古い自分が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるようだというのです。
 私たちがイエス様を信じるということは、私たちのうちにある自我が完全に消えて、新しい命に生きる者になることです。今自分の人生を率いているのは誰ですか。イエス様が自分を統治し、イエス様が率いる通りに生きて行くことがクリスチャン生活です。自分の生活の中で重要な決定を下す時、その決定を下すのは誰ですか。イエス様に救われるとは、イエス様に出会って人生が変わり、考え方や判断が変わり、生きる姿勢や態度が変わることです。本当にイエス様の十字架とともに死んで、イエス様とともによみがえったのなら、精神が変わり、人生の目的が変わり、ビジョンが変わり、幸せの基準や価値観が変わります。

U−上にあるものを求めなさい、思いなさい−1〜2
 どのように変わるのでしょうか。1節。キリストとともによみがえらされたのなら、と言っています。復活の命に与り、新しい命に生きる者とされた当然の結果として要求されているのは、「上にあるものを求めなさい」ということです。「求める」とは、「苦労して探す」という意味です。「上にあるものを求める」とは、どうすることでしょう。これは、意志の方向と関連があります。何を追求しながら生きているかということです。
 皆さんの意志はどこに向いていますか。何を求めていますか。試練や問題が起こった時、他の人や終わった出来事に意識を向ければ向けるほど、悩みは深まり、思考停止状態になります。解決策や自分を変えることに意識を向ければ、解決や展開へと変わるでしょう。失敗に意識を向けると行動できなくなります。可能性に意識を向けると行動できるようになります。私たちができることは、どこに意識を向けるかです。
 人生は、何に意識を向けるかで変わります。上にあるものとは、何でしょう。「そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます」というのですから、天の御国のことです。イエス様が、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」と命じられたのと同じです。マタイ6:33。ですから、2節では、「天にあるものを思いなさい」と言っています。「思いなさい」とは、「愛着をもちなさい」という意味です。地上のものに過度に愛着を持たないで、天の御国に愛着を持ちなさいというのです。自分が以前に望んでいた人生ではなく、イエス様に従う人生を生きなさいということです。
 イエス様の十字架を信じて救われた、復活の命に与った、感謝、よかったで終わるのではなく、救われた聖徒として、天の御国の支配を求めて、主の御心を考えて生きるのです。私たちは、今どのような存在ですか。イエス様とともによみがえらされたなら、今、天の御国のことを思って生きる者となっています。なぜ、イエス様の御心を探すのですか。私たちの心がいつも地上のことに集中しているからです。
 なぜ、上のものを求め、天の御国を思い、イエス様のことを考えるのでしょうか。私たちの身分が地に属する者ではなく、天に属する者として完全に変えられたから、そのように生きていくのです。天国人に身分が変わったのです。それなのに、私たちの関心は、あまりにも地上にことに注がれ、天の御国のことを忘れてしまっていないでしょうか。かすかにしか思っていないのです。やがて、死んだ後行けるところぐらいにしか思っていてはなりません。
 イエス様を信じて救われた私たちの国籍は天にあります。ピリピ3:20。この素晴らしい身分を忘れてはなりません。いつも覚えて生きて行くのです。天の御国を求め、思い、考えるということは、イエス様の支配の中で生きるということです。私たちの関心は、あまりにも地上のことに注がれ、天の御国を忘れてしまって、かすかにしか思っていないのではないでしょうか。神の願いを叶えていく人生ではなく、自分の願いを遂げていく人生ばかり考えているのではないでしょうか。
 もちろん、上にあるものを求めると言っても、家庭生活も職場生活も勉強も求めないというのではありません。それらのことを願ってはいけないというのではなく、順序が違います。天の御国の支配を求めて生きることが、最高に自分の願いを叶えることになります。私たちがイエス様を信じるということは、自分の中にある自我が消えて、イエス様の治める新しい人となることができることです。ガラテヤ2:20。イエス様は、主の祈りで「御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」と祈るように教えてくださいました。マタイ6:10。

V−新しい生き方−3〜4
 心理学者アドラーによれば、「人は変わることができる」と言います。しかも 、「亡くなる2、3日前まで可能」 なのだそうです。私たちは、死んでいたのに、イエス様によってよみがえらされ、生きるようになりました。1,3節前半。ですから、新しい人生を生きなさいということです。病気や事故で死にそうになった人が、元気になった時、「一度死んだからこれからはおまけの人生、大切に生きよう」と言う人がいます。私たちも、そうではないですか。想像してみてください。一度死んだけれど、生き返ったのです。どれほど感激して、新しい思いで生きるでしょうか。
 「いのちは神のうちに隠されてある」というのは、私たちの命が、神の命の書に記されているということです。黙示録3:5。永遠の命を与えられた神の人に変えられたというのです。それは、もうまったく以前の生活は似合いません。新しい生活をするしかない存在に変わったということです。地上のことを追求して生きていく存在ではなくなったのです。大変そうだと思いますか。心を天の御国に向け、思いをイエス様に向けるという新しいライフスタイルで生きて行くのです。それは、大変なことではなくて、呼吸するように自然な生き方なのです。
 そして、主が来られる日が来るので、今目を閉じたとしても、主の御国で目を開くので、上にあるものを求めて、天の御国を慕って生きていくのです。4節。自分に対して賞賛と褒美を準備して待っていてくださる主が、来られることを信じている人は、目つきが違います。価値観が違います。生き方が違って来ます。私たちは、永遠の命を得た天国人なのです。私たちがこの地上を離れる瞬間に私たちに会ってくださる主が、私たちを待っておられることを信じてください。
 地上のことばかりに関心を持って、私たちのすべてを注ぐには、あまりにももったいないです。しかも、それらに心を注いで、追求している途中、私たちの地上の生活を終了するには、人生はあまりにも短いです。チャールズ・シェルドンの小説「みあしのあと、主イエスならどうなさるか」にあるように、主が喜ばれ願われることに関心を向けて生きて行く皆さんになるよう願います。ガラテヤ2:20。



コロサイ3:1 こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。
3:2 あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。
3:3 あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。
3:4 私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。


ローマ6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
6:7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
6:8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
6:9 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。

ガラテヤ2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

マタイ6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

ピリピ3:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

マタイ6:10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。

Uコリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

黙示録3:5 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。


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