2020年4月26日「古い人を脱いで、新しい人を着る」コロサイ3:5〜14

序−マーク・トウェインの「王子と乞食」という小説では、乞食のトムと皇太子エドワードが戯れに服を交換すると、乞食の服を脱いで王子の服を着た乞食は、王子と看做されて王宮生活をします。顔が似ていたこともあったのですが、服を取り替えたことで王子と看做されました。服が身分をあらわしていたということです。今日の箇所は、私たちの変化ついて、古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着なさいと言っています。

T−古い人を脱ぎ捨てる生活−5〜9
 脱ぎ捨てるべき古い人とは、どんな姿でしょうか。5節。罪の中心は、欲望、むさぼりです。むさぼりを殺してしまいなさいと命じています。それほど、むさぼりの罪は強力だということです。現代は、欲望の資本主義が横暴を極めている時代と言われます。グローバル化の競争は、少数の者のために、多数の人間を苦しめ、生態系まで破壊しています。むさぼりの罪が世界中を席巻しています。人々の生活を脅かしています。人命よりも経済が優先されています。現代は、危機の中にあります。
 「あなたがたも、以前、そのようなものの中に生きていた」というのですから、自分はそれほどではないということはできません。7節。資本主義のシステムと利益の中に生きている私たちも、むさぼりの罪の影響を受けています。世界中が利己的な競争に没頭しています。むさぼりは偶像礼拝です。つまり、神中心でないということです。天国人であることを忘れると、世の価値観に心奪われ、世に流されます。世の様々な偶像に囚われてしまいます。自分の思い通りにしたい、肉のプライドの満足や人に認められたい願望も偶像になります。どんな偶像に捕らわれていますか。
 そして、この罪の性質が、対人関係に出て来ます。8〜9節。「怒り、憤り、悪意、そしり、恥ずべきことば、偽りを言う」は、すべて口から出るものです。怒りは憤りとなって外に出され、悪意はそしりとなって人を攻撃します。恥ずかしい言葉は、いわゆる恥ずかしいでなく、聞く人を虐待する卑劣な言葉であり、言うのも恥ずべきことだということです。これらの言葉が聞く人の心をどれほど傷つけ、人格を否定するのかわきまえなければなりません。人は一人一人感じ方も違います。言う人は大したことではない、いつも出している言葉と思っても、聞く者の心は傷つき、怒りや憎しみを引き起こしてしまいます。人間関係が破壊されます。すぐに人の足りないことや間違いを指摘し易い、簡単に怒りを吐き出すなどは、時には危険な武器となります。
 ですから、捨ててしまえというのです。むさぼりに囚われていると神の怒りが臨むことを覚えていれば、私たちの生活や言動は変化するでしょう。私たちは、もう一度自分の姿を省みて、そのような罪に陥らないように、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨ててしまえという勧めを謙虚に聞かなければなりません。脱ぐだけでは駄目です。服を脱いだら、別な服を着なければなりません。私たちには、着るべき服があるからです。

U−新しい人を着る生活−10〜14
 なぜ新しい服を着なければならないのでしょう。新しい人になったからです。10節。私たちは、イエス様を自分の救い主と告白した瞬間から、新しい人に変わりました。Uコリント5:17。それまでの罪の奴隷ではなく、天国人に生まれ変わりました。古い人ではなく、新しい人になったのに、いつまでも古い人の服を着たままでいいのでしょうか。社会には、様々な資格や職業があり、それぞれに相応しい制服があります。天国人には、天国人が着るべき服があります。
 新しくされた私たちは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者です。12節前半。神様に選ばれて、愛されている者だなんて、どれほど感動を覚える存在なのでしょうか。私が神を選んだのではなく、神が私を選ばれたのです。私が神を先に愛したのではなく、神が私を先に愛してくださったのです。人は、その立場をあらわす制服を着ている時は、その立場を意識して、相応しい働きをするものです。私は神様に選ばれて、愛されている者だと意識すれば、それに相応しい態度、生き方になるでしょう。
 この聖なる者とは、神のものとして聖別された人々という意味です。私たちは、聖なる者、神のものと区別された人だということを忘れてはいけません。身分が変わったのでから、その姿勢や言動も変わります。どんな服を着るのですか。人にとって服は、人格であり、身分をあらわしています。12節後半。深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい、と言っています。これもみな対人関係に関係しています。8〜9節に出てきた恥ずべき言葉とは、まったく正反対の態度です。それらは、人の心を癒し、和ませ、人を養い、育てる言動になり、人間関係を回復させ、整えます。人の性質の問題ではありません。身分が変わり、存在が変わったから、そのようなものを身に着けるようになるのです。
 11節には、様々な人がいます。古い人の時は、その違いのために怒り、争ったりしますが、新しくされたなら、キリストにあって区別はありません。私たちは、様々な人々がいるのだから、互いに異なるほかはないということを理解する必要があります。それぞれの考えが間違っていたからではなく、相違により感じ方や対応に違いが生じるのです。互いに異なることを認識し、それを理解しようとする時、初めて一致することができるテーブルに着くようになります。
 イエス様によって、私たちの身分が変化したなら、生活も変わらなければならないでしょう。人間関係で大きな問題になるのが、相手に不満を抱き、赦せないと思う心です。人の言動で心が傷つけられ、怒り、憎しみが心に残り続け、赦せない思いとなって留まります。それが、深く長く続きます。それは、古い人の姿です。しかし、新しくされた者は互いに赦しあいなさいと言うのです。13節。不満があってもとにかく赦せと強いているのではありません。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさいと勧めています。ここに赦し合いの鍵があります。赦しは、自分がすでに赦された者であることを認識することから始まります。赦された経験がある人だけが、赦すことができます。
 ある人が言葉で尽くせない傷を受け、怒りと憎悪で長年生きて来ましたが、ある時神様に対して間違いをしているのではと気付き、祈りました。「罪の奴隷ではなく、わたしの娘として生きて行け」という神の声を心で聞きました。すでにイエス様の十字架を信じたことで自分の罪が赦されているという事実を悟って、長年自分を苦しめて来た思いから解放されました。私たちは、生まれて来た時から持っている原罪があります。その罪がイエス様の十字架の死によって赦され、私たちは罪と裁きから自由になりました。すべての上に、愛を着けなさいと言っています。14節。イエス様の十字架にあらわされた神の愛がすべてのはじまりです。ヨハネ3:16。神に愛されている私たちは、新しい人になっているでしょうか。

V−新しくされた、神的受動態−10,ローマ12:2
 今日の御言葉は、古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着なさいというのですが、おそらくこれを読む人々に、2つの誤解が生じるでしょう。御言葉はそう言ってもそれは無理だ、新しい人を着るなんて大変な努力が必要だと言ってスルーしてしまうか、古い人の姿から抜け出られない、成長できない私は駄目だと落ち込んでしまう反応です。
 身分が変わったのだから、自分に相応しい服を着なさいというだけです。難しい訓練や苦しい努力を要求していたわけではありません。社会で制服を着ている人々は、すでにその立場に相応しいから身に着けているばかりでなく、立場についてから相応しく整えられて行くのではないでしょうか。制服がその立場に相応しく働かせるのではないですか。10節を見てください。「造り主のかたちに似せられてますます新しくされる」と言っています。神がはじめに人を造られる時、ご自分のかたち、すなわち性質に似せて創造されました。罪によってその創造の本性を喪失しましたが、イエス様の十字架を信じることで、神様が私たちを新しくされるのです。
 つまり、新しい人として生きていく人生は、神の力で生きていくのです。聖書は、神がされることについては、しばしば受動態で表現されています。1節では、「キリストとともによみがえらされたら」と受動態です。10節でも、「新しくされ」と受身形です。受身形ならば、何々によってというのがあるはずですが、記されていません。神によってということは自明のことだからです。動作主は神であることが暗示されています。
 このように神の働きを語るときに、行為者である神の名を記さずに動詞の受動形を用いて婉曲に言い表す例が聖書にはひんぱんに見られます。このような受動態を学者たちは、神的受動態、神聖受動態と呼んでいます。私たちが自分を新しく変えるのではなくて、主によって新しく変えられるのです。ローマ12:2でも、「変える」という動詞は受動態命令形です。「変えられなさい」という意味です。新しくされるという聖化は、神的受動態の結果起こる祝福なのです。神様が私を新しくして、変えてくださることを信頼して委ねて、従ってみましょう。新しい人に変えられます。イエス様が私たちの代わりに罪人を着て、十字架にかかってくださいました。それゆえ、イエス様を信じる私たちは、キリストを着る者とされ、新しくされ、イエス様に似た者とされて行くのです。ガラテヤ3:27。



コロサイ3:5 ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。
3:6 このようなことのために、神の怒りが下るのです。
3:7 あなたがたも、以前、そのようなものの中に生きていたときは、そのような歩み方をしていました。
3:8 しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。
3:9 互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、
3:10 新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。
3:11 そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。
3:12 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
3:13 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
3:14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。



Uコリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

ローマ12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

ガラテヤ3:27 バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。


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