2020年5月24日「信仰を生きる」コロサイ4:2〜6

序−外出規制の続く中で、インターネットを使ったオンライン会議や授業、リモートワーク、ラインなど新たなつながりや会話の姿が急増しています。教会でも、ユーチューブによる礼拝中継やラインでのセルも行われています。クリチャンの信仰生活は、交わりや関係そのものです。

T−神との会話、祈り−2
 今日の個所が実質的な手紙の最後の部分です。聖徒の信仰生活とは何かを教えています。まず、祈りです。2節。祈りというギリシャ語を分析すると、願いの交換、つまり対話だという意味です。御言葉と祈りで、神と人の対話が成り立ちます。クリスチャンは、神様と一対一で交わりができるのです。祈っている時間は、主と単独で面談できる時です。心を開いて、自分の抱えている問題を洗いざらい出して、相談できます。時間を気にすることなく、神との対話にだけ集中できます。素晴らしい至福の時です。 そのような時を持っているでしょうか。
 信仰生活をするということは、神と交わることです。聖書の知識が多くある、神学を勉強したとしても、祈らなければ、神との交わりはありません。信仰生活をするには、祈ることが必要です。確かに祈りはしているでしょう。でも、遠くから挨拶したり、一方的に注文だけするような祈りかもしれません。それでは、対話や交わりとは言えません。
 この困難で複雑な社会で生きる私たちは、神との個人的な交わり、真剣な祈りの対話が必要です。祈りは、信仰生活の中で最も大切な部分です。祈りというと、祈りが聞かれるか祈りの答えがあるかということだけ問題にされますが、祈ること自体が重要です。自分の足りなさや弱さを知って助けを求め、自分の誤りや罪を覚えて悔い改めを祈ります。祈りの力を知らない人は、困難に会う度に揺れ動き、失望落胆し、不平不満を言い、環境のせい、誰かのせいにします。そして、ますます落ち込んでしまいます。
 祈りについて、単に祈りなさいではなく、「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい」と言っています。たゆみなく祈るとは何でしょう。自分が困った時、何かほしい時だけ祈ればいいのでしょうか。自分が求めなくても、祈りは必要です。神との対話をしてきた祈りの人々は、祈りがまるで呼吸のようであることを知っています。私たちは、呼吸しないで生きることはできません。それと同じく、祈りなしには、霊的には瀕死の状態なのです。悔い改めや願いをはいて、癒しや導きを吸い込みます。
 どうして、祈りに感謝が付いているのでしょうか。霊的に目を覚ましていないと、不平不満や文句、恨みや嘆きばかりが出て来ます。出エジプト16:2〜3,17:3。主の前に不平不満、恨みばかりでは、何の益もありません。EMバウンズは、「祈りの力」という本の中で、「悪魔は何よりも、人が祈ることを妨害する」と言っています。悪魔は、人が文句や不満、恨みや嘆きをするようにさせるのです。神と対話するなら、感謝と賛美が出てくるのです。多くの人が、祈りの答えが早く来ないと落胆します。感謝して、目を覚まして祈ることが必要です。万有引力の法則を発見したニュートンは、「私が価値ある発見をしたのは、才能があったからではなく、粘り強い祈りと関心があったからだ」と言いました。
 そういう祈りの生活をした信仰の人を聖書から一人取り挙げてみましょう。モーセは、神の命令に従って出エジプトを導きます。モーセは、神に会って、神と会話した人です。出エジプト3:4。神と対話しているモーセは、絶望的な状況に会っても、民が文句を言って来ても、落ち着いて対応することができました。しかし、民は祈ることをせず、文句と不満、恨みを言うだけでした。結局、40年間荒野をさまようことになりました。

U−信仰者の交わり、とりなし、分かち合い−3〜4
 パウロは、自分のために祈ってくださいと、とりなしの祈りを要請しています。3〜4節。聖徒たちには、御言葉の適用の分かち合い、信仰生活の分かち合いが与えられます。コロサイ3:13,16。パウロは、手紙の始めに、聖徒のために、とりなし祈っていると書いています。コロサイ1:3。聖徒たちとパウロの間には、信仰の分かち合い、とりなしの祈りの分かち合いがありました。とりなしの祈りは、信仰共同体の美しさです。パウロがとりなしをお願いしているのですから、私たちはなおさらとりなしの祈りを必要とするのは言うまでもありません。
 パウロのとりなしの祈り要請は、キリストの奥義、すなわち福音を伝えることができるようにということです。福音の核心は、神が私たちを愛しておられるということです。「神はあなたを愛しておられ、あなたのために信じられないほどの計画を持っています」というメッセージです。そして、イエス様がその罪の代価を十字架によって支払ったということです。人は、どんなに努力しても、罪を払拭することはできません。人は自らを神と正しい関係に置くことができません。ただし、最後の決定は私たちにあります。イエス様が用意してくださった十字架の救いを信じるという最後の選択は、私たちの決心によるということです。黙示録3:20。
 福音宣教のために祈ってくださいとは、宣教師パウロとしては、当然のとりなしの祈りの課題ですが、パウロは、牢に入れられています。「牢から釈放されるように祈ってくれ」というのが、状況から出て来るとりなしの課題ではないでしょうか。しかし、パウロにとって一番必要なことは、牢獄から出るよりも、福音が伝えられることでした。とりなしの祈りには、何を必要としているか、優先順位があるということです。
 パウロが主との祈りの対話において与えられたのは、どこにおいてもどんな状況でも、福音を伝えるということでした。聖徒たちに対して、聖書は「時が良くても悪くても、御言葉を宣べ伝えなさい」と勧めています。Uテモテ4:2。実際に、パウロは、牢獄においても、看守や囚人に福音を伝えました。裁判の調査をする役人や裁判する高官たちと話しました。その結果、皇帝に仕える親衛隊や高官たちにも伝わりました。パウロの姿に励ましを受けた聖徒たちによって、福音が大胆に語られることになりました。ピリピ1:12〜14,4:22。
 私たちがとしなしの祈りをする時、難しいとか答えられないとか自分で勝手に判断してはなりません。そうです。私たちのすべきことは、とりなし祈ることです。そして、主に委ねます。実際に私たちは、とりなしの祈りが答えられる奇跡を何度も経験しています。

V−人々との関係、賢明な振る舞い、塩味のきいた言葉−5〜6
 私たちが信じたに留まらず信仰を生きるには、世において人々の中でどのようにしたらよいのでしょうか。5〜6節。ここに、イエス様を知っている私たちが持たなければならない信仰の姿、その特徴が教えられています。まず、「賢明にふるまう」ことです。クリスチャンが社会の中で必要とされているのは、この部分です。世の人は、始めから聖書の教え、中身を知っているわけでありません。人々がキリスト教を知る機会は、それを信じているクリスチャンを通して知るかもしれません。ですから、私たち自身が福音を生きることが何よりも大切です。賢明なふるまいとは、愚かにならないで、神の御心は何であるかを思って生きる姿です。エペソ5:17。私たち自身にとっても、幸いな信仰生活は、信仰の熱心よりも、信仰そのものを生きることです。
 ややもすると、私たちは問題や困難の原因を環境や状況のせい、人のせいにしがちです。しかし、私たち自身の姿を顧みなければなりません。自分の言動はどうだろうかということです。悔い改めず、真に赦しを受けた経験がない人は、決して他人を許そうとしません。そのような人は、信仰の成熟はしないでしょう。賢明にふるまうとは、カルヴァンが言った、コラムデオ、主の御前に生きるという精神です。私たちは、言動を通して、生活を通してイエス・キリストを証しして行く人生を生きるのです。
 「機会を十分に生かして用いなさい」とは、非常に意味のある勧めです。誰にでもチャンスは来ます。問題は、与えられた機会をどのようにするかによって結果が違って来るということです。ある人との出会いは、一期一会かもしれません。良い交わりの機会となるのか、その人に仕える機会となるのか、証の機会になるのか、関係の改善の機会となるのか、賢明にふるまう必要があります。私に今日という時間を与えられた神の意志はどこにあるのか考えるのです。これが、聖書的世界観です。
 振る舞いと共に、言葉も大切です。6節。私たちが人の質問に対して適切な答えを与えることが必要です。人は言葉で失敗するものですが、神の導きを求めて祈る者に、主の助けがあります。「親切で塩味のきいた言葉」とは、関係に気を使いなさいということです。相手の感情を敏感に観察して、答えます。たとえば、YOUメッセージとIメッセージという言葉があります。YOUメッセージは、発信する側の主観で言うので、評価や非難が伝わり易く、相手の心をざわつかせますが、Iメッセージは、発信する人の素直な気持ちを伝えるので、たとえ願いや不満を伝えても、心配や気づかいも一緒に伝えられるので、聞く人も受け入れやすくなります。
 聖書には、特に言葉の教訓が多いです。それは、むやみに口から出された言葉のために交わりや関係が傷つき困難になることが多いからです。御言葉を食べて、祈りで呼吸する私たちは、信仰の言動で証しの生活をし、関係を修復し、良い交わりをすることを願います。マタイ5:13〜14。



コロサイ4:2 目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。
4:3 同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。この奥義のために、私は牢に入れられています。
4:4 また、私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈ってください。
4:5 外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。
4:6 あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。



コロサイ3:16 キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。

黙示録3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

Uテモテ4:2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。

ピリピ1:12 さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います。
1:13 私がキリストのゆえに投獄されている、ということは、親衛隊の全員と、そのほかのすべての人にも明らかになり、
1:14 また兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことにより、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神のことばを語るようになりました。

エペソ5:17 ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。

マタイ5:13 あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。

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