2020年6月21日「主にあって受けた務め」コロサイ4:15〜18

序−人は自分で人生を生きていると思っています。ところが、聖書を学ぶと、私たちは神に生かされている存在であることに気付かされます。家庭や社会で神からの務めを与えられ、用いられて行く者なのだと分かるのです。言わば、神様が用意された舞台で、それぞれの与えられた務めを果たして行くのです。

T−家庭での務め−15〜16
 最後の部分は、手紙の受取人たちに対する挨拶です。このコロサイ人への手紙が隣のラオデキヤの聖徒たちにも読まれるようになっているので、ラオデキヤの聖徒たちによろしく伝えてくださいと言っています。15〜16節。「ヌンパとその家にある教会」という独特の表現があります。何でしょうか。教会の始まりは、セルグループみたいなものです。初代教会は、聖徒たちの誰かの家での集まりから始まっています。エルサレムではマルコの母マリアの家、ピリピではルデヤの家、コリントではアクラとプリスカの家が教会でした。使徒12:12,16:15,40,Tコリント16:19。
 家庭が教会の始まりであった、家庭が教会の核であるというのは、重要なことです。そもそも神が人を造られて、アダムとエバという夫婦、家庭を与えてくださいました。人が結婚して、子どもを育て、家庭を築くのは、神様の創造の時からのご計画でした。創世記1:27〜28。家庭での信仰教育の重要性については、箴言でも学びました。ヌンパの家庭は、その恵みと導きのあらわれです。家族総出で、それぞれの務めを担い、礼拝の準備をしたことでしょう。実際に家の教会でなくても、その家庭が信仰の家族となり、イエス様を中心として家庭が築かれることが求められています。
 現代社会は、家庭、家族の形態が崩れている時代です。同居しているだけで、ばらばらの家族も多いです。よく結婚式で読まれる「三つ撚りの糸は切れない」というフレーズがあります。伝道者の書4:12。愛していた2人でも、自己中心になれば危うくなります。2人だけではなく、2人を結び合わせてくださったイエス様が入ることで切れない撚り糸になります。
 ヘブル語で、男はイーシュ、女はイッシャーと言います。それぞれ1文字だけ違います。その2つを合わせると、ヤーハという主、神をあらわす固有名詞になります。夫婦の霊的な意味は、補完関係です。相手にないこと違うことで責めるのでなく、自分になくて相手にあるものを受け入れる時、主が共におられて祝福してくださるのです。家庭を築くことは、神の永遠のご計画と深く関わっています。主から与えられている夫と妻、子どもとして務めを果たして、主にある家庭を築きましょう。
 イエス・キリストが救い主として十字架にかかられたのは、ご計画をもって人を創造し、家庭を与えてくださった主を忘れて、自己中心になって罪によって苦しんでいる人々を主が哀れんでくださったということです。夫婦が争い、家庭が崩れているのは、罪のせいです。イエス様が私の罪の身代わりに十字架にかかってくださったと信じることで、罪赦されて、新しい命が与えられて、夫婦、家庭の再建が始まります。今困難を抱えていても大丈夫です。家庭を築くことの労苦には、主の報いがあります。
 ピリピの看守の救いでは、一人が救われるのは、家族が救われる始まりだと教えています。使徒16:31。一人の謙虚な御言葉に生きる信仰の姿が家族への証しとなり、家庭を整えて行くようになるからです。まずはできることから始めましょう。食事をする時、食前の祈りをさせてもらい、家族の祝福を祈ります。主の心で家族を気遣い、仕えることで、家族が主の恵みを受けます。孟母三遷の教えのように、家族を礼拝に連れて行くことで、御言葉に養われ、聖書の世界観が育まれます。

U−社会での務め−17
 次の節を見ると、アルキポという人に、「主にあって受けた務めを、注意してよく果たすように」と言っています。17節。アルキポは、コロサイ教会で働いていた伝道師で、聖徒たちを牧会していたようです。エパフラスがローマに行った後で、コロサイ教会の問題に取り組んでいたのですから、労苦は大変なものだったでしょう。困難と不安を抱えていたことが、「務めを注意してよく果たすように」という言葉から窺えます。
 同じような励ましがテモテに対しても言われています。Uテモテ4:5。しっかり、御言葉を伝えて、養育しないと、間違った教えで聖徒たちが揺さぶられるからです。Uテモテ4:2〜4。自分の務めを十分に果たしなさいと言われても、頑張っても自分の力では無理です。そんな大変な務めはできませんとアルキポは答えるかもしれません。しかし、務めは、「主にあって受けた務め」と言われています。主の召しです。ここに、私たちの働きの根幹があります。聖徒たちの仕事観があります。主にあって受けた務めだから、果たすことができ、パウロから戦友と言われるまでになりました。ピレモン1:2。
 一般に社会では、自分のやりたい仕事をするのが理想です。それができれば幸福だという価値観です。しかし、聖書に出てくる信仰の先輩たちの誰一人として、そのような人はいません。モーセは、出エジプトの指導者になりたかったわけではありません。神様から召しだされても、最初はなんだかんだと言ってしり込みしています。でも、主の召しに答えて、主に信頼して、その働きを担って行きます。自分に自信がなくても、欠けや弱さを感じていても、自分を救い、その働きに召してくださった主がさせてくださると信じるのです。ローマ8:32。
 今自分がしている仕事や働きについて、主の召しを考えてみましょう。主はここで私に何をさせようとしておられるのか、この仕事に私を召した主の御旨はどこにあるのだろうかと祈ってみましょう。主の召しとは、他者への配慮や関心、社会でどのように用いられるか考えることです。そして、実際に遣わされた所で忠実に働くのが、主の召しです。
 私たちが家庭を築いて行くことが神様の願いでしたが、そればかりでなく、働いて世に仕えることも、神様のご計画です。私たちは、自分がどんな職業に就きたい、どんな仕事をしたいと計画を立てますが、主権は神様です。立てた計画は神様に祈って委ねてください。もし違うとなれば、撤回して神様の導きを求める余裕が必要です。ビジネスの分野では、仕事には、意欲、能力、人格が必要だと言われますが、リーダーに求められる第一は、人格です。ですから、御言葉によって人格が養われ、信仰によって働き、信仰によって生きることが必要です。

V−環境の変化の中での務め−18
 パウロの最後の挨拶は、挨拶以上のものです。18節。この挨拶は「パウロが自筆で」記されています。目の悪かったパウロの手紙の多くは、代筆で書かれていますが、コロサイ書でこの18節だけは自筆で書いたというのです。この節だけ、震えたような大きな字で書かれているのです。パウロの気概が込められています。それは、「私が牢につながれていることを覚えていてください」ということです。覚えてほしいのは、「私パウロはつながれていますが、神のことばは、つながれてはいません」ということです。Uテモテ2:9。心はつながれていないですよ、と言っているのです。
 自分の人生のビジョンを明確に持っている人は、環境の変化が自分を妨げるとは思わないということです。だから、私は獄中にあっても、主から委ねられた務めを放棄しないで、果たして来ましたと言うのです。確かに、結果的には、牢につながれていても、宣教の働きができました。ピリピ1:12。
 そういう自分の話をしながら、人生の苦難の中にある聖徒たちに、苦難の中でも主の働きは進み、主から受けた務めを行うことができると励ましているのです。人は、どんな状況なら務めを果たすことができるかと考えるでしょう。しかし、信仰に立つ人は、問題があっても、妨げがあっても、務めを果たすことができると教えているのです。左遷とか転勤、辞職とか退職、歳を取るとか病気になることは、何か妨げられて、牢につながれているというイメージですね。でも、妨げはあっても、働きができなくなるわけではありません。信仰の確信に生きる人には、環境の変化は、妨げの岩にはならず、むしろ飛び石に見えるでしょう。
 誰にでも共通して与えられている主からの務めは、主の栄光をあらわすことです。家庭でも職場でも学校でも、自分が信仰に生きることで主の栄光をあらわすことができます。パウロの人生は、主に栄光を帰して、主の栄光をあらわしながら生きた人生と言えるでしょう。地上の生涯を終えようとしたパウロが証ししている言葉を見てみましょう。Uテモテ4:6〜8,使徒20:24。ジーンとするところです。主の召しに応えて、主の栄光をあらわして生きることが、人生の走るべき道のりです。
 私たちも、このように務めを果たして、人生の走るべき道のりを走り終えたいものです。最後まで信仰を守り通した者には、神からの義の栄冠が用意されているというのです。Uテモテ4:8,ピリピ3:14。何と感謝なことでしょうか。天国へ入れていただく時には、「よくやった良い忠実なしもべだ」と言っていただけるように人生を走り終えたいものです。
 手紙の締めくくりの言葉は、「どうか、恵みがあなたがたとともにありますように」です。手紙を受け取った聖徒たちが、主から受けた務めを果たして生きるならば、神の恵みが彼らの上にあるでしょう。私たちも、家庭の中で、職場で主から受けたそれぞれの務めを果たしたいと願います。そして、主の恵みと祝福を受けたいのです。Uテモテ4:7〜8。
 


コロサイ4:15 どうか、ラオデキヤの兄弟たちに、またヌンパとその家にある教会に、よろしく言ってください。
4:16 この手紙があなたがたのところで読まれたなら、ラオデキヤ人の教会でも読まれるようにしてください。あなたがたのほうも、ラオデキヤから回って来る手紙を読んでください。
4:17 アルキポに、「主にあって受けた務めを、注意してよく果たすように」と言ってください。
4:18 パウロが自筆であいさつを送ります。私が牢につながれていることを覚えていてください。どうか、恵みがあなたがたとともにありますように。



伝道者4:12 もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。

使徒16:31 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言った。

ピレモン1:2 また、姉妹アピヤ、私たちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。

Uテモテ4:5 しかし、あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。

Uテモテ2:9 私は、福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばは、つながれてはいません。

Uテモテ4:6 私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。
4:7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
4:8 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。


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