2020年6月28日「悔い改めて、主に立ち返る」U列王記1:1〜18

序−今危機の時代ですが、ある専門家は、その著「危機の時代」の中で、「危機が起き、経済が崩壊しても、必ず復活する。実際に危機が起きた際にこそ、過去の歴史から学ぶことが大事だ。問題は、ほとんどの人が過去の歴史をきちんと見ていないことだ。歴史を振り返れば、今起きていることが何であるかが、きっと見えてくることだろう。」と言っています。

T−危機の中で−1〜2
 今日から学ぶ列王記は、イスラエルの歴史を扱ったものですが、この中にも神様の教えがあります。旧約は新約の光で読むという言い方があります。戦争などが勧められているわけではありませんが、歴史の出来事の中から、新約聖書の教えを基盤として、私たちに対する主なる神のメッセージを読み取るということです。
 時代は、古代イスラエル王国が南北に分裂して、北イスラエル王国の4番目の王朝、オムリ王朝三代目、アハズヤ王の時、紀元前855年頃の出来事です。1〜2節前半。アハズヤ王は、危機の中にあり、崖っぷちにいるような状態でした。ここで王は、3つの危機に出会っています。1つは、強かった父アハズ王が、戦死したことです。2つ目は、それを見て、今まで従って来たモアブがそむいたということです。さらに、それに加えて、アハズヤ王自身が屋上の欄干から落ちて、重症になったというのです。
 私たちの人生にも苦しい辛いことが重なることがあります。1つでも難しいのに、3つも重なって来るなんて、どれほど苦しいでしょうか。父の戦死で、急に王国を受け継ぐことになりました。そこへ危機が重なり、どれほど苦しく、心細く、悲壮感に覆われたことでしょうか。私たちが、家庭、社会、自分のことで、次々と問題に襲われ、危機に陥るなら、どんな気持ちになりますか。
 主は、この危機を通して、アハズヤ王が悔い改めて、主に立ち返って来ることを求められました。そもそも、彼の父アハブ王と王妃イゼベルは、イスラエル史上最悪の王でした。その中に育ったアハズヤも、「彼は主の目の前に悪を行い、彼の父の道と彼の母の道、それに、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの道に歩んだ。」と言う王です。T列王記22:52。屋上の部屋の欄干についても、わざわざ律法に、「屋上の間に欄干をしっかりつけるように」と命じられていたにもかかわらず、そのように作らず、律法を無視していたようです。申命記22:8。
 人は大過ない平安を望みますが、誰にでも人生の危機や問題は訪れます。アハズヤ王の姿は、危機の時、なぜこのような危機に会うのか、このような苦しみを通して何を教えようとしているのか、御言葉を通して深く考えなさい、御言葉を黙想して祈りなさいと教えているようです。とにかく、危機に会う時、追い込まれる時、何よりも、主に立ち返り、助けを求めなさいということを勧めているのです。そこに平安があるからです。
 ですから、アハズヤ王が人生の危機にしなければならないことは何でしょうか。主に心を向け、悔い改めて、主に立ち返ることです。危機も、主に心を向け、精神の変化の機会となれば、それだけで有益です。仮に回復できなかったとしても、霊的な導きを受けることができれば、どれほど益となることでしょうか。私たちの求めるところは、主の御心によって生きることです。しかし、アハズヤは、そうしませんでした。悔い改めの機会、主に立ち返る機会となりませんでした。アハズヤ王の問題は、体の病気よりも、心の病気が問題でした。危機は、信仰回復の機会となります。

U−自分の都合の良いことだけ求める罪−2〜12,17〜18
 気がかりなことがある時、どうしますか。アハズヤ王は、この期に及んで、心を向けたのは、偶像でした。エクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てることでした。2節後半。聖書の神を知らない人が、偶像に伺うということではありません。王は主なる神を知っていて、偶像の祭司の託宣を求めたのです。バアル・ゼブブの意味は、ハエの王です。古代のこと、ハエによって病気が広がると思っていたのでしょうか。それで、この偶像が病気を防いでくれるとしたようです。
 アハズヤ王は、なぜ危機の中で、主に尋ねてみることを考えなかったのでしょうか。人は、罪の性質が妨げとなって、悔い改めて主に立ち返るのではなくて、反対側に向かおうとするのです。主なる神に伺えば、罪を指摘され、悔い改めを求められることが分かっていたからです。それに、偶像にたくさん捧げものをあげて伺えば、取り次ぐ者は、王の求める答えをしてくれるからです。罪の性質は、自分の都合のよい答えを求めます。偶像は、人に道徳的な変化を求めません。偶像は便利であり、取引が可能に見えるからです。ですから、現代でも偶像に伺うのでしょう。
 父アハブ王は、戦争のために、自分の都合の良いことを言ってくれる偽の預言者を呼んで聞いています。T列王記22:6。主の言葉を伝えてくれた預言者ミカヤの言うことを聞かずに行って、戦死しています。アハズヤも、自分に良い返事をしてくれる偶像の祭司を求めたということです。結局人は、自分の都合の良いように言ってくれる人に行くということです。私たちは、危機の時どこに行きますか。主を尋ねてください。主は、いつも答えを与えようと待っておられ、私たちの人生に介入してくださいます。
 人は、肉に属し、罪と死の奴隷として人生を生きています。罪と死の力を持つ霊に囚われているからです。ですから、昔も今も、人は偶像に伺い、占いに聞き、自分の都合の良いことを言ってもらおうとするのです。Uテモテ4:3〜4。しかし、そのような生活から私たちを解放するためにイエス様が来られました。ヘブル2:14〜15。イエス様が十字架にかかり、復活されたのは、罪と死の力を滅ぼし、それから解放するためでした。
 主は、まだアハズヤを顧みてくださり、悔い改めと立ち返りの機会を与えてくださいました。主のあわれみがなかったら、バアル・ゼブブへの使者を送った段階で、見放されていたでしょう。でも主は、預言者エリヤを遣わして、バアル・ゼブブへの使者に途中で出会わせて、警告を与えました。3〜8節。アハズヤは、格好を聞いただけで預言者エリヤだと分かるくらい、彼を知っていました。では、警告を聞き入れたのでしょうか。
 この時も聞き入れませんでした。9,11節。エリヤを捕まえるために、軍隊を出しています。訳は丁寧ですが、「降りて来い」と命じています。王も家来も横暴です。すぐに殺そうとしていないので、王宮に呼んで、自分の都合の良いことを言わせようとしたようです。家来たちに降った罰を知っても、繰り返し捕縛の軍を出動させています。悔い改めて、主に立ち返る様子は、まったくありません。残念です。結局、機会を逸して、アハズヤは死んでしまいます。17〜18節。

V−危機は、主に心を向ける機会−13〜16
 3番目の部隊長は、違いました。この人の姿に注目しましょう。13〜14節。3番目の50人隊長は、賢い人でした。先の部隊の姿を見て恐れました。危機に陥りました。王の命令を拒否すれば命はなく、捕縛に行っても命はありません。絶体絶命のピンチです。完全に袋小路です。どうすればいいのか、考えました。祈りました。そして、心を主に向けました。悔い改めて、主に立ち返りました。この人の姿が、私たちへのメッセージです。
 隊長は、なすべきことが分かりました。もう降りて来いなどと言いません。エリヤの前にひざまずき、自分をしもべと言い、自分たちを助けてくださいと懇願しました。二度繰り返しています。一緒にいる50人の部下たちの命を大切に考えています。この人の心に信仰が回復しています。
 13節の脚注を見ると、「助けてください」と訳されている言葉は、直訳すれば「あなたの目に尊いものとしてください」であると記されています。これこそ、主に救いを求め、導きを求める者の言葉です。イエス様を救い主と信じる者の信仰告白です。イエス様を信頼して、救われた聖徒は、主の御目に尊い者とされていると信じているのです。「主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる」からです。Tペテロ3:12。
 主が御目を留めてくださる者は、へりくだって心砕かれ、主を恐れ、御言葉に聞き従う者です。イザヤ66:2。私たちは、何を恐れていますか。世の評価が怖いですか。創造主なる神を恐れますか。私たちがアハズヤ王たちでなくて、この3番目の50人隊長であるのは、ただ憐れみによります。罪を悔い改めてイエス様を信じたからです。自分の肉の思いを満足させる人生ではなくて、主の御心に従う人生を選んだからです。
 最後に預言者エリヤの姿も見ておきましょう。彼は、ずっと主の御言葉に絶対的に従う人生を生きて来ました。T列王記18章では、バアルの預言者450人との対決に勝利しています。徹底的に主の御言葉に聞き従いました。でも、危機に陥りました。エリヤの命を狙う王妃イゼベルの言葉を恐れて逃げ出したのです。それは、主を見ないで、イゼベルの力と惨めな自分の姿を比べたから、恐れたのです。その経験をしたエリヤは、その後主だけを見て、主の御言葉にだけ頼りました。
 今日の箇所は、危機の中で私たちがどのようにするべきか、示してくれています。この世で聖徒たちがどのように生きるべきか教えてくれています。悔い改めて、主に立ち返る者には、あわれみの恵みと助けが臨みます。御言葉は、私たちを動かす力です。危機の中でも御言葉に聞き従い、主の祝福と御力が臨む人生を生きましょう。イザヤ30:15前半。



U列王記1:1 アハブの死後、モアブがイスラエルにそむいた。
1:2 さて、アハズヤはサマリヤにある彼の屋上の部屋の欄干から落ちて病気になった。彼は使者たちを遣わし、「行って、エクロンの神、バアル・ゼブブに、私のこの病気が直るかどうか、伺いを立てなさい」と命じた。
1:3 そのころ、【主】の使いがティシュベ人エリヤに告げた。「さあ、上って行って、サマリヤの王の使者たちに会い、彼らに言え。『あなたがたがエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに行くのは、イスラエルに神がいないためか。
1:4 それゆえ、【主】はこう仰せられる。あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」それで、エリヤは出て行った。
1:5 使者たちがアハズヤのもとに戻って来ると、彼は、「なぜあなたがたは帰って来たのか」と彼らに尋ねた。
1:6 彼らは答えた。「ひとりの人が私たちに会いに上って来て、こう言いました。『あなたがたを遣わした王のところに帰って行き、彼に告げなさい。【主】はこう仰せられる。あなたが人をやって、エクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てるのは、イスラエルに神がいないためか。それゆえ、あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」
1:7 アハズヤは彼らに尋ねた。「あなたがたに会いに上って来て、そんなことをあなたがたに告げた者は、どんな様子をしていたか。」
1:8 彼らが、「毛衣を着て、腰に皮帯を締めた人でした」と答えると、アハズヤは、「それはティシュベ人エリヤだ」と言った。
1:9 そこで、アハズヤは五十人隊の長を、その部下五十人とともにエリヤのところに遣わした。彼がエリヤのところに上って行くと、そのとき、エリヤは山の頂にすわっていた。彼はエリヤに、「神の人よ。王のお告げです。降りて来てください」と言った。
1:10 エリヤはその五十人隊の長に答えて言った。「もし、私が神の人であるなら、天から火が下って来て、あなたと、あなたの部下五十人を焼き尽くすだろう。」すると、天から火が下って来て、彼と、その部下五十人を焼き尽くした。
1:11 王はまた、もうひとりの五十人隊の長を、その部下五十人とともにエリヤのところに遣わした。彼はエリヤに答えて言った。「神の人よ。王がこう申しております。急いで降りて来てください。」
1:12 エリヤは彼らに答えて言った。「もし、私が神の人であるなら、天から火が下って来て、あなたと、あなたの部下五十人を焼き尽くすだろう。」すると、天から神の火が下って来て、彼と、その部下五十人を焼き尽くした。
1:13 王はまた、第三の五十人隊の長と、その部下五十人を遣わした。この三人目の五十人隊の長は上って行き、エリヤの前にひざまずき、懇願して言った。「神の人よ。どうか私のいのちと、このあなたのしもべ五十人のいのちとをお助けください。
1:14 ご承知のように、天から火が下って来て、先のふたりの五十人隊の長と、彼らの部下五十人ずつとを、焼き尽くしてしまいました。今、私のいのちはお助けください。」
1:15 【主】の使いがエリヤに、「彼といっしょに降りて行け。彼を恐れてはならない」と言ったので、エリヤは立って、彼といっしょに王のところに下って行き、
1:16 王に言った。「【主】はこう仰せられる。『あなたが使者たちをエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てにやったのは、イスラエルにみことばを伺う神がいないためか。それゆえ、あなたは、上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」
1:17 王はエリヤが告げた【主】のことばのとおりに死んだ。そしてヨラムが代わって王となった。それはユダの王ヨシャパテの子ヨラムの第二年であった。アハズヤには男の子がなかったからである。
1:18 アハズヤの行ったその他の業績、それはイスラエルの王たちの年代記の書にしるされているではないか。



Uテモテ4:3 というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、
4:4 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。

ヘブル2:14 そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、
2:15 一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。

Tペテロ3:12 主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行う者に立ち向かう。」

イザヤ66:2 これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。──【主】の御告げ──わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。

イザヤ30:15 神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」



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