2020年7月5日「信仰と働きをつないでいく」U列王記2:1〜25

序−中小企業の事業承継などという言葉を目にしますが、辞書によれば、先の人の地位、事業、精神を受け継ぐことが承継であり、身分、権利、財産を受け継ぐのが継承ということです。今日の箇所に出て来るエリヤからエリシャへ預言者の働きが受け継がれて行くのは、承継と言えるでしょう。ここから、私たちが信仰と働きをつないでいくことを学びます。

T−エリヤからエリシャへの承継−1〜11
 今日の箇所は、稀代の預言者エリヤが天国へ召されてようとしている時です。預言者として働いて来たエリヤは、何を残そうとしたのでしょうか。自分の働きを受け継ぐエリシャを連れて、あちこち巡りました。1〜6節。ギルガルからベテル、エリコとヨルダン地域を巡っています。ベテルとエリコに、預言者のともがらがいたからです。預言者のともがらを直訳すれば、預言者の息子たちという意味です。それだけ、教える人と学ぶ人の関係が近かったのです。エリヤがこの地域に預言者学校を建てて、若者たちを養育していたことを示しています。
 エリヤがそこにエリシャを連れて行ったのは、それを自分の働きを受け継ぐエリシャに見せているのです。この預言者の卵たちに、イスラエルの霊的復興をこの人々に期待していました。この大切な働きをエリシャにバトンタッチしたのです。このような姿は、私たちに信仰を受け継いで行くことを教えています。信仰と信仰の働きを受け継いだ私たちに必要なことは、その信仰を他の人々へつないで行くことです。家族や周りの人々にイエス様の信仰を伝え、教会生活を通して御言葉で養う働きをします。エリヤは天国へ召される瞬間まで、その働きをしています。その姿を今日私たちに見せているのです。
 エリヤは、それぞれの所で「ここにとどまっていなさい」と言い、エリシャは、3度とも「私は決してあなたから離れません」と答えて付いて来ます。なぜ、3度も繰り返しているのでしょうか。エリヤからすれば、エリシャが自分の意志と意欲でエリヤの働きを受け継ぐことを確認しているのです。信仰とその働きを受け継いで行くには、自分の意志と意欲が必要であることを教えています。最後までエリヤに付いて行くのは、主に付いて行くことです。エリシャの姿は、私たちに「自分を捨て、自分の十字架を負ってイエス様に付いて行く」ことを教えています。ルカ9:23。
 エリシャは、最後にエリヤから欲しいものを願えと言われた時、何を求めたのでしょうか。9節。「あなたの霊の、二つの分け前」とは、エリシャが、自分は弟子たちの長子みたいだから、2倍の相続をくれと要求しているのです。申命記21:17。エリシャが望んだものは、聖霊の力です。エリヤの後継者としての必要な聖霊の力を意味しています。偉大な預言者エリヤの大変な大きな働きを受け継がなければならなかったからです。聖書に出て来る神のしもべたちが力ある働きができたのは、みな聖霊の力でした。ゼカリヤ4:6。10節のように答えているのは、霊的力を与えるのは、エリヤではなく、主なる神からの賜物だからです。
 信仰と働きをつないで行く私たちも、聖霊の力が必要だということを教えています。世の中で生きて、働いて行くのに、神様からの召しがあるのですから、聖霊の力が必要です。エリシャの姿は、働きが大きく労苦が多いならば、自分の努力だけでなく、聖霊の力を強く求めることを教えています。私たちがしなければならないこと、乗り越えなければならないことが大きく難しければ、なおさら主に霊的な力、聖霊の満たしを求めて行くのです。ルカ11:10〜13。
 イエス様も、昇天される前に、弟子たちに聖霊が降ることを約束されました。使徒1:8〜9。弟子たちが、働きを担って行くには、イエス様そのものである聖霊の御力が必要でした。ヨハネ14:16〜17。

U−預言者としての働きだした姿−12〜25
 エリシャは、単に仕事を受け継いだというのではなく、信仰と価値観を受け継ぎました。エリシャがエリヤの預言者の働きを受け継いだことが、早速分かる出来事が起こっています。まず、エリヤがしたように外套をもってヨルダン川を打ち、渡っています。13〜15節。これは、何を意味しているのでしょう。それを見た預言者学校の生徒たちは、エリシャがエリヤの後継者だと理解しました。私たちも信仰に生きて、地の塩、世の光となって、御霊を受け継ぐ者となっている証しができれば幸いです。
 そして、預言者としての働きをしたことが2つ記されています。よく分からない、誤解される箇所ですが、背景を知れば分かります。1つは、エリコでの出来事です。18〜22節。エリコの町は、海抜マイナス240mのために年中暖かく、ヨルダン川が近くを流れている良いところです。それなのに、水がよくなくて、困っていました。なぜ、水が豊富なのに、体に良くなかったのでしょう。神に仕えず、偶像に仕えていたからです。
 ですから、新しい皿に塩を盛って来させて、水源に投げ入れさせています。科学的な意味ではありません。新しい器は、悔い改めた従順な心のことです。悔い改めて助けを求めて来た町の人々は、その通りにしています。水源とは、心の根本からきよめられることを意味しています。ですから、21節では、主が癒されたと言っているのです。霊的問題を抱えているのは、エリコの人々だけではありません。あらゆる人々が霊的な問題を持っており、自分の力だけでは解決できません。この話の水が示しているのは、イエス様です。イエス様に出会えば、渇くことのない命の水をいただけます。ヨハネ4:14。イエス様と出会ってください、イエス様に立ち返りましょう。
 もう1つは、とても誤解を与える話です。23〜24節。子どもがふざけて言ったことなのに、どうしてこんな酷い罰をと思います。ベテルは、元々北イスラエルが始まった時から金の子牛が作られ、偶像崇拝の中心地となった所です。偶像で商売をする大勢の祭司たちが住んでいました。小さい子どもの原文は、若者という意味です。若者たちと訳されているものも多いです。偶像に仕える祭司たちの若者のようです。
 「上って来い」の原文は、「上れ」です。若いエリシャにハゲと言うのも不自然です。ですから、子どもの悪ふざけではなく、祭司の若者たちがエリヤの後継者エリシャに対して、「エリヤのように空に上って消えてしまえ、ハゲ頭」と嘲笑し、攻撃していたのです。人の罪による攻撃は、嘲り、罵りをよく用います。彼らは、預言者を嘲笑することにより、主の言葉を聞いて立ち返る道を遮断してしまったのです。福音を聞いて、イエス様の十字架を信じるならば、罪の裁きを受けることはありません。

V−エリヤの最期が教えてくれること−1〜11
 エリシャにバトンを渡しながら、エリヤが天に行く準備の姿から、私たちの御国への備えを学びましょう。エリヤ自身、天に召されることを知っており、弟子たちも知らされていました。3節。ギルガルからベテル、エリコ、そしてヨルダン川を巡って、天に召されています。11節。召される準備ができていたということです。私たちは、この世のことだけに心を遣いながら生きることが多いでしょうか。信仰の人々は、天の故郷を見て喜び迎え、地上では旅人や寄留者であると思いながら過ごしました。天の故郷をあこがれていました。ヘブル11:13,16。天に召される備えをしていたのです。エリヤは、主の召しを受けて賢明に働きました。時には苦しくて死にたくなりましたが、主に助けられ、守られて生きて来ました。
 これらの地を巡ることは、エリヤ自身の働きの場所を見て回ることでもありました。1〜5節。最期までエリヤ自身がして来たことを見て周り、働きを確認していたのです。何百人もの偶像の預言者と戦い、王たちを戒め、国を守る働きをするとともに、次代のために預言者の若者を教育し、次の指導者エリシャを立てて養育しました。私たちも天に召される時は、自分がしてきたことを振り返り、確認することでしょう。エリヤのように、最期の時まで主の働きをして行きます。信仰を証しし、信仰で人々に仕えます。何もできなくなっても、とりなしの祈りはできます。
 エリヤの最期の感動的なシーンは、死を経ずして天に上げられます。11節。これは、イエス様の十字架を信じる者が、罪の結果である死を経ずして天国への命を与えられることを示しています。ヨハネ11:25,26。救われた私たちには、永遠の命が保証されています。
 エリヤの昇天事件は、まさにイエス様の昇天を示す出来事でした。イエス様は、十字架にかかられた3日後に復活され、天に昇られました。使徒1:8。このエリヤの事件は、将来の私たちのためのモデルのような事件だということです。Tテサロニケ4:16〜17は、イエス様がこの地に再臨するときのシーンですが、イエス様を信じて死んだ者が、まず初めによみがえり、天に上げられ、その時に生きている聖徒たちも天に上げられ、イエス様に会うというのです。どんなに感激する、素晴らしい光景でしょうか。
 イエス様を信じた者の受ける栄光が、どれほど素晴らしいものか知ることができます。地上の生涯は、とても辛い苦しいこともありますが、その中でも、私たちは輝かしい栄光を期待しながら、それらに耐えることができます。すでに十字架を信じて救われた者は、この素晴らしい祝福を受けている者です。それを覚えて、そういう自分に誇りを持つことができます。やがて復活のからだを着て、天に上り、天国に入るという救いの恵みを覚えて、日々感謝と喜びの中を生きて行くことを願います。ヘブル11:13。
 


U列王記2:1 【主】がエリヤをたつまきに乗せて天に上げられるとき、エリヤはエリシャを連れてギルガルから出て行った。
2:2 エリヤはエリシャに、「ここにとどまっていなさい。【主】が私をベテルに遣わされたから」と言ったが、エリシャは言った。「【主】は生きておられ、あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、彼らはベテルに下って行った。
2:3 すると、ベテルの預言者のともがらがエリシャのところに出て来て、彼に言った。「きょう、【主】があなたの主人をあなたから取り上げられることを知っていますか。」エリシャは、「私も知っているが、黙っていてください」と答えた。
2:4 それからエリヤは彼に、「エリシャ。ここにとどまっていなさい。【主】が私をエリコに遣わされたから」と言った。しかし、彼は言った。「【主】は生きておられ、あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、彼らはエリコに来た。
2:5 エリコの預言者のともがらがエリシャに近づいて来て、彼に言った。「きょう、【主】があなたの主人をあなたから取り上げられることを知っていますか。」エリシャは、「私も知っているが、黙っていてください」と答えた。
2:6 エリヤは彼に、「ここにとどまっていなさい。【主】が私をヨルダンへ遣わされたから」と言った。しかし、彼は言った。「【主】は生きておられ、あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、ふたりは進んで行った。
2:7 預言者のともがらのうち五十人が行って、遠く離れて立っていた。ふたりがヨルダン川のほとりに立ったとき、
2:8 エリヤは自分の外套を取り、それを丸めて水を打った。すると、水は両側に分かれた。それでふたりはかわいた土の上を渡った。
2:9 渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。「私はあなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に、求めなさい。」すると、エリシャは、「では、あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように」と言った。
2:10 エリヤは言った。「あなたはむずかしい注文をする。しかし、もし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことがあなたにかなえられよう。できないなら、そうはならない。」
2:11 こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、一台の火の戦車と火の馬とが現れ、このふたりの間を分け隔て、エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行った。



ゼカリヤ4:6 すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの【主】のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の【主】は仰せられる。

ヨハネ4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。

ヨハネ11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
11:26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」

使徒1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
1:9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。

ヘブル11:13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
11:16 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。

Tテサロニケ4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

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