2020年7月12日「イエス様の救いの余恵」U列王記3:1〜27

序−1868年ヨルダンで、後にメシャ碑文と呼ばれる紀元前9世紀の碑文が発見されました。解読されると、モアブ王メシャの北イスラエルに対する反乱と独立を記念したものでした。U列王記3章の記事を裏付ける貴重な考古学資料の発見となりました。この箇所から、絶望の時信仰者はどうするのか、それに対して主はどうしてくださるのかについて学びます。

T−絶望の時に−1〜10,13
 北イスラエルの王アハズヤが即位2年で病死した後、弟のヨラムが王となりました。このヨラム王は、どんな人であったのか。2〜3節を見ると、偶像バアルの石の柱を取り除いたが、ヤロブアムの罪を彼も犯し続けたとあります。要するに、主だけに仕える信仰に戻ったということではありません。中途半端だったのです。偶像バアルを持ち込んだ父母ほどの悪をしていないが、主の目の前に悪を行っていたというのです。
 このような態度が事件や問題が起こり、絶望に瀕する時、決定的な影響を与えることになります。信仰は、何もない時は分からなくても、絶望に瀕した時に、その真価が問われます。その時は、モアブとの戦いの最中に起こります。4〜6節。父アハブ王の死後、属国として貢物をやめていたのですが、ヨラム王は、服属させようと、モアブ征討軍を動員します。
 ヨラム王は人間的には賢い人のようです。姻戚関係にある南ユダの王ヨシャパテの援軍を得て、連合軍を形成します。7節。さらには、北東のアラムを刺激せずに、攻めやすい南のエドムの荒野から攻めることを提案します。8節。そして、エドム王も連合軍に引き入れて、エドムとモアブの連合も阻止します。万全の戦術です。ヨラムの特徴は、自分の知恵と力だけに拠り頼んでいる姿です。もちろん、私たちも事に当たっては、自分の知恵や努力は必要です。しかし、それだけで人生の荒海を生き抜くことは困難です。人間の限界を認めることも必要です。
 ヨラムの知恵の戦術は、裏目に出ます。9節。連合軍で遠回りをしたせいで、荒野で水の補給ができなくなったというのです。水がなければ、戦いどころではありません。命が危険です。絶望の危機です。私たちは、どんなことで絶望に陥るのでしょうか。絶望の時、どうなりますか。10節。ヨラムは、絶望して、「水がないのは、主が我々をモアブの手に渡すためだった」と嘆くのです。ここに、彼の中途半端な姿勢が出ています。主なる神の名を出しながら、悔い改めて主に立ち返ることをせず、主が連合軍をモアブに渡すために水を涸らしたと言い、自分の作戦の失敗を主なる神のせいにしています。人は、自分の思いのままに生きながら、都合が悪くなると神のせいにするのです。悔い改めて、主に立ち返るのではなく、神様が助けてくれない、神が見捨てたと言うのです。
 ヨラムは、預言者エリシャから「あなたとは何の関わりもない、偶像の預言者たちの所へ行けばいい」と言われた時も、悔い改めと主への立ち返りを促すために、エリシャは言っているのに、「水がないのは、主が私をモアブの手に渡すためだ」と、不平と恨みを言うのです。13節。私たちが問題にぶつかると、落胆と絶望が出て来ます。しかし、絶望は問題解決の障害です。患難という問題は、誰でも受けるでしょうし、解決があります。しかし、困難に遭って絶望すると、それが問題となり解決しません。
 もし、私たちが絶望の危機に瀕した時、ヨラムのような態度をとったら、絶望の危機から脱することはできません。そのような姿勢は、絶望の時急に起こるのではありません。普段の信仰の姿勢が絶望の時に影響するのです。よく悪い状況になると、神様のせいにする人がいます。神様が罰を与えていると嘆くことも、信仰的ではありません。自分の失敗、不信仰のせいだと思うなら、悔い改めて、主に立ち返ればいいのです。それこそ、慈愛の主が求めておられることです。あわれんでくださり、助けてくださいます。ヨラムの姿に私たちの姿を見て、悔い改めて、主なる神様に立ち返りましょう。

U−主のみこころを求める−11〜12,15〜20
 ここには、信仰の王ヨシャパテがいます。11〜12節を見ましょう。普段信仰に生きていたヨシャパテは、主の預言者を通して、主の御心を求めました。普段の信仰の姿勢が、絶望の危機に瀕した時、真価を発揮します。なぜ、絶望の危機の時、主の御心を求めるのですか。主なる神様が、「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう」と約束されているからです。詩篇50:15。信仰は、患難の時、絶望の時に光を発します。絶望しかない環境の中でも、主の御言葉に脱出の道を見出すのです。
 人生を生きていくと、壁にぶつかり途方に暮れる時があります。出会った問題があまりにも重く、耐え難く、呻くことがあります。失敗や挫折で泣き叫ぶこともあります。人間関係で心が荒れ廃れることもあります。そのような時、どうするのか。ヨラムのように恨み嘆くのでしょうか。ヨシャパテのように、主なる神の御心を聞きますか。
 預言者エリシャが主の御心を聞くために、琴をひく者を呼んで、琴をひかせています。15節。これはどういうことですか。賛美をして、祈りをしていることです。つまり、礼拝をしているということです。主に拠り頼む聖徒は、まず神様に賛美をささげ、礼拝をして、主の導きを求めます。ですから、私たちが週のはじめの日に礼拝をささげ、何かの時にもまず礼拝をささげるのは、そのためです。
 預言者エリシャに主の霊がくだり、御心を教えてくださいました。16〜17節。谷に溝を掘って、溝で満たせば、水で満たされるという約束を与えてくだいました。ここで疑問が生じます。水を与えるには、雨さえ降らせてくだされば、問題は解決するはずです。どうして、溝を掘らせているのでしょうか。渇きに疲れた兵士たちには辛い作業だったと思います。それを指示する王も辛い立場に立たされます。王の信仰を試しているのです。溝を掘れと繰り返され、従順の信仰が強調されています。主を信頼しなければ、命令しないでしょう。信仰の従順を求められていたのです。
 連合軍は馬鹿げたことと思わず、御言葉に従い、溝を掘りました。翌朝礼拝をささげようとした時、水が流れて来て、地は水で満たされました。20節。絶望の谷に泉が流れ、問題が解決されるのを見せてくれています。溝を掘るのは人ができますが、谷に水を満たされるのは、神の奇跡です。私たちが信仰で行うことは小さいことですが、そこに働く神の恵みは溢れんばかりです。小さな従順が膨大な歴史を動かすのです。
 主なる神様は、多くのことをお一人でされるのではなく、人を用いて行われます。人を介して仕事をされるのです。人が信じて救われるのも、聖霊なる神の働きですが、私たちが伝えるようにされておられます。

V−あなたのために主の恵みが−13〜14, エペソ2:8
 最後に、注目すべき大事なことがあります。なぜ、ヨラムは、エリシャに何の関わりもないと拒絶されたのに、あわれみを受け、助けられたのでしょうか。13節。どうして、主なる神は中途半端なヨラムを絶望から救ってくださったのでしょうか。14節に注目しましょう。エリシャは、ヨラムに対して「ヨシャパテのためにするのでなかったなら、私は決してあなたに目も留めず、会いもしなかった」と言うのです。つまり、ヨシャパテのために、ヨラムも助けられたというのです。ヨシャパテの信仰のお陰で、ヨシャパテと一緒に救ってもらえたのです。
 このようなことを「余恵」と言います。本来受けるはずでなかった恵みという意味です。これは、人が信仰の親や信仰の人々によって、主のあわれみや恵みを得ることがあるということです。私たちが神のみ前にどのように生きているかに応じて、周囲の人々に益をもたらしたり、害を及ぼしたりする可能性があることを物語っています。信仰は、自分一人のためだけではないのです。私たちが信仰に生きるなら、周りの人々も私たちによって主の恵みとあわれみを受けるのです。
 この時、主の恵みは、お願いした水だけではありません。頼んでいないモアブに対する勝利の約束もくださいました。18〜19節。これも、恵み深い主の余恵と言えるでしょう。ただし、連合軍は、追い詰められたモアブの凄惨なケモシュ神の儀式を見て、戦意を失い退却してしまいました。26〜27節。結局、メシャ碑文の通り、モアブの勝利、独立となりました。
 ヨシャパテのためと言っても、彼一人のためでなく、ダビデ王から始まるユダ王国に対して、神様がダビデの王位を永遠に立てるという契約に基づいていました。ダビデの契約の先にあるのは、イエス・キリストによる救いの契約です。罪のない神の御子が罪人である私たちの代わりに苦しまれ、あざけりを受け、十字架につけられ死なれました。私たちは、恵みのゆえに信仰によって救われているのです。エペソ2:8。
 私たちが自分の業に応じて報いを受けるなら、その罪のゆえに滅びと裁きを受けるでしょう。しかし、イエス様の身代わりによって、罪赦されて救われるだけでなく、新しい命、神様の恵みと祝福を受ける者となりました。まさにイエス様の救いの余恵です。私たちは、父なる神と御子イエス様の契約によって、救いの恵みを享受することができます。さらには、私たちを通して、イエス様の恵みとあわれみが私たちの周りの人たちにも与えられます。そのためにとりなし祈ります。信仰に堅く立って、証しの生活をすることを望みます。詩篇50:15。



U列王記3:1 ユダの王ヨシャパテの第十八年に、アハブの子ヨラムがサマリヤでイスラエルの王となり、十二年間、王であった。
3:2 彼は【主】の目の前に悪を行ったが、彼の父母ほどではなかった。彼は父が造ったバアルの石の柱を取り除いた。
3:3 しかし、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪を彼も犯し続け、それをやめようとはしなかった。
3:4 モアブの王メシャは羊を飼っており、子羊十万頭と、雄羊十万頭分の羊毛とをイスラエルの王にみつぎものとして納めていた。
3:5 しかし、アハブが死ぬと、モアブの王はイスラエルの王にそむいた。
3:6 そこで、ヨラム王は、ただちにサマリヤを出発し、すべてのイスラエル人を動員した。
3:7 そして、ユダの王ヨシャパテに使いをやって言った。「モアブの王が私にそむきました。私といっしょにモアブに戦いに行ってくれませんか。」ユダの王は言った。「行きましょう。私とあなたとは同じようなもの、私の民とあなたの民、私の馬とあなたの馬も同じようなものです。」
3:8 そして言った。「私たちはどの道を上って行きましょうか。」するとヨラムは、「エドムの荒野の道を」と答えた。
3:9 こうして、イスラエルの王は、ユダの王とエドムの王といっしょに出かけたが、七日間も回り道をしたので、陣営の者と、あとについて来る家畜のための水がなくなった。
3:10 それで、イスラエルの王は、「ああ、【主】が、この三人の王を召されたのは、モアブの手に渡すためだったのだ」と言った。
3:11 ヨシャパテは言った。「ここには【主】のみこころを求めることのできる【主】の預言者はいないのですか。」すると、イスラエルの王の家来のひとりが答えて言った。「ここには、シャファテの子エリシャがいます。エリヤの手に水を注いだ者です。」
3:12 ヨシャパテが、「【主】のことばは彼とともにある」と言ったので、イスラエルの王と、ヨシャパテと、エドムの王とは彼のところに下って行った。
3:13 エリシャはイスラエルの王に言った。「私とあなたとの間に何のかかわりがありましょうか。あなたの父上の預言者たちと、あなたの母上の預言者たちのところにおいでください。」すると、イスラエルの王は彼に言った。「いや、【主】がこの三人の王を召されたのは、モアブの手に渡すためだから。」
3:14 エリシャは言った。「私が仕えている万軍の【主】は生きておられる。もし私がユダの王ヨシャパテのためにするのでなかったなら、私は決してあなたに目も留めず、あなたに会うこともしなかったでしょう。
3:15 しかし、今、立琴をひく者をここに連れて来てください。」立琴をひく者が立琴をひき鳴らすと、【主】の手がエリシャの上に下り、
3:16 彼は次のように言った。「【主】はこう仰せられる。『この谷にみぞを掘れ。みぞを掘れ。』
3:17 【主】がこう仰せられるからだ。『風も見ず、大雨も見ないのに、この谷には水があふれる。あなたがたも、あなたがたの家畜も、獣もこれを飲む。』
3:18 これは【主】の目には小さなことだ。主はモアブをあなたがたの手に渡される。
3:19 あなたがたは、城壁のある町々、りっぱな町々をことごとく打ち破り、すべての良い木を切り倒し、すべての水の源をふさぎ、すべての良い畑を石ころでだいなしにしよう。」
3:20 朝になって、ささげ物をささげるころ、なんと、水がエドムのほうから流れて来て、この地は水で満たされた。



詩篇50:15 苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。

エペソ2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

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