2020年7月19日「信仰の器を準備しなさい」U列王記4:1〜7,42〜44

序−列王記は、王様たちの政治や戦いが記録されていますが、個人の生活のことも記されています。神様は、私たち一人一人の生活のことも覚えていてくださり、守り、導いてくださるということを教えています。

T−絶望の中で主を求める−1
 人が人生を歩む時、色々な出来事に会います。うれしい楽しいことばかりでなく、辛い悲しいことにも出会います。次々起こる問題によって、落胆し、絶望することもあります。深い心の傷を抱いて生きることもあります。この女性もまさにそのような状況に陥っています。1節。この人は、預言者学校の学生、今で言えば、神学校の学生の妻でした。この夫が、若くして死に、子どもが2人残されました。どんなに心の痛手となったことでしょう。心の痛みと不安だけでなく、経済的な不安と困難を抱えたが生活が始まりました。
 さらには、より苛酷な出来事が襲って来ました。何らかの理由で夫が借金を負っていて、借金のために子どもが奴隷にされてしまう境遇になったのです。北イスラエルは、悪い王様が続き、偶像礼拝が行われていました。そのために預言者たちは、迫害されていました。また、律法によれば、同胞から利息を取ってはならず、やもめやみなし子は、社会の助けを受けることになっていたにもかかわらず、その社会では行われていませんでした。申命記23:19,24:17〜21。人の罪と欲望の資本主義が社会を荒廃させている現在に似ています。
 現代社会でも、人々を絶望させる問題や事件が起こり、人々を痛みや不安に陥れます。でも、最も怖いのは、事件や問題ではありません。事件や問題のために絶望することです。哲学者は、「死に到る病とは絶望である」と言っています。この女性は絶望しませんでした。エリシャのところに来て、惨状を訴えました。1節。エリシャの所に来て、訴えたというのは、神様の御前に来て、訴えたということです。詩篇18:6。絶望的な状況になったとしても、主なる神の御前に来て、御前に祈り訴えるのです。絶望から希望への転換点です。
 「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう」と言われる神です。エレミヤ33:3。この神様に訴えるのです。祈るのです。絶望の時私たちにできることは、神を見つけることです。絶望の時生きる道は、神に叫び求めることです。主なる神は聞いて、答えてくださいます。詩篇40:1〜2。ところが、神を見出さない人は、問題や事件の中で絶望してしまいます。恨みや不満でいっぱいになります。あなたは、困難と絶望の中にいらっしゃいますか?落胆せず、神様を見つけて解決されますよう願います。
 絶望の時には、たましいの医者であるイエス様に来て、治療を受けてください。絶望に陥ると憂いと患いによって心に深い傷を負います。救い主イエス様は、人々の罪を十字架上で負ってくださって、たましいを癒してくださいます。Tペテロ2:24。イエス様は、「疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」と叫ばれました。マタイ11:28。失望落胆する時、倦み疲れた時、憂いに陥る時、イエス様に来てください。疲れて、傷ついたたましいを癒し、休ませてくださいます。解決へ導いてくださいます。主を見上げ見ながら、心の中にある暗い現実を話してください。経済的なこと、健康のこと、将来への不安、家族の心配、仕事の問題など主に祈って、聞いてもらいましょう。

U−あなたには何があるのか、信仰の従順−2-6
 主なる神は、この女性の訴えにどのように応えてくださったのでしょう。エリシャを通してどんな導きを与えてくださったのでしょうか。2節。エリシャが「家にはどんな物が残っているか」「あなたには、何があるか」と女性に聞いて来ました。女性は、「油の壺一つだけ残っている」と答えると、エリシャは、「隣の人みなから器を借りて来なさい。そのすべての器に油をつぎなさい」と命じました。3〜4節。
 何か難しいことを要求したのでしょうか。女性ができる日常的なことでした。ただ、納得できることではないでしょう。なぜ、こんなことをするのと質問するか、そんなことではなく借金が返せるようにしてくださいとか言ったのでしょうか。いいえ、女性は、言われた通りにしました。5〜6節。信仰がなくては、できないことでした。主の恵みや祝福を経験できるかできないかを分けているのは、信仰の従順です。御言葉に聞き従うことで、絶望から希望へ変わります。
 ただお言葉に従って近所をまわり、空の器を集めました。そして、戸を閉じて油を注ぎ始めました。驚くべきことに、いくら注いでも、次から次へと注いでも、油はなくなりませんでした。これを通して、私たちは、主が助けてくださるように祈り、叫ぶだけでなく、御言葉を疑わないで従うことがどれほど祝福されることか悟らされます。主の助けと恵みを受けることができる秘訣は、ただ従うだけです。
 油は、集めた器の分量だけ注ぐことができました。器が少なければその分の油が出て、器が多かったら多くの油が出たことでしょう。私たちは、これを通して、私たちは自分の信仰の分に応じて祝福を受ける者であることを学びます。イエス様も、人々に恵みと祝福を与える時、「あなたの信じたとおりになるように」と言って、癒してくださり、奇跡を起こしてくださいました。マタイ8:13, 9:29。従順に御言葉どおりする信仰が、女性自身の用意した器です。信仰という器を準備できたのです。
 器は、隣人の親切がなければ集めることができません。器を借りることができるのは、隣人の助けを得るということです。空の器を貸してもらえるくらいの証しの生活があったということです。もとめに応じて器を貸してくれる隣人がいたということが、財産です。確かに、この女性は、社会の不条理と悪い人々のために傷を受けたのですが、人々の助けも受けることができました。私たちにも助けて祈ってくれる信仰の友がいます。
 この時、器がなくなるまで油が止まることがなかった奇跡を2人の子どもが体験しています。5〜6節。これが、大きな恵みです。自分たちの母が、真実に主に拠り頼み、御言葉に従い、主のあわれみと恵みを受けたことを見たからです。物質的な解決を受けるよりも大切なことは、信仰が人生の問題を解決してくださることを体験したことです。主を恐れる父の信仰は、こうして子どもたちに受け継がれました。これが、何よりも大きな恵みです。召された夫の信仰の遺産です。貧しくても、信仰を受け継げれば立ち上がることができます。家族に問題が起こることもあります。しかし、信仰があれば解決へ導かれます。

V−油の壺一つしか−7, 42-44
 注ぎ出る油の奇跡を経験した女性は、エリシャに知らせに行きました。7節。このことは、神から与えられた恵みであることを覚えて感謝するためです。エリシャは、報告に来た女性に、油を売って借金を返し、残りで生活をしなさいと指示しました。借金という過去の問題を解決し、これからの将来の生活まで恵みは及びます。信仰が確かになることで、過去の罪の問題が解決され、将来の神の国への歩みが保証されます。
 私たちが恵みと助けを受けるために、してはならないことは、「私には何もない」ということです。他の人であれば、夫が死に、借金が残され、子どもたちが取られてしまう状況では、「私にはもう何もない」と言うでしょう。「油の壺一つしかない」からと言って、何もしないでしょう。しかし、この女性は「油の壺一つしかない」と言いましたが、その一壺の油を用いました。ここから、神のあわれみの奇跡が始まりました。
 42〜44節の出来事でも、「これだけで、どうして百人もの人に分けられましょう」と言っていますが、配って行くと、それはあり余りました。人は、問題や挫折で絶望に陥ると、私にも何もない、残っていないと言います。「これしかない、これだけでは」と言って否定して、用いることなく、働かせることがありません。しかし、あるのです。残されています。「これしかない」のではなく、「これがあります」から始まります。私たちが持っているものに目を留め、働かせることで希望につながります。
 田原米子さんという伝道者がおれました。18歳の時、母親の死にショックを受け、電車の飛び込み自殺をはかり、一命は取りとめたもの、両足と左手の三肢を切断、残る右手も小指と中指が切断されていて、また死のうとしましたが、聖書の世界に触れ、劇的に変えられました。「なんで自分だけが不幸なの」というマイナス思考から、「自分にはまだ3本の指がある」という発想に変えられた喜びと希望、生きる素晴らしさを証しし続けた人でした。発想の転換は、病室のベットの横にあった聖書を取ろうと、残った3本の指でつかんだ時でした。
 主なる神を信頼して、絶望の時も神に従えるのは、救い主イエス様を私たちに送られたという事実です。罪のゆえに滅ぶはずの者たちを救うために御子を十字架に送られたという神の愛とあわれみがあるからです。神の助けと恵みを疑うことはできません。ローマ8:32。イエス様にある神の恵みの奇跡が、私たちを救うことになります。私たちの問題は、患難や挫折、状況や環境の問題ではなく、信仰の問題なのです。主がどれほど私たちを愛しておられるか気付かないことです。信仰の器を準備することが何よりも大事です。詩篇18:6。



U列王記4:1 預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、【主】を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」
4:2 エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」彼女は答えた。「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」
4:3 すると、彼は言った。「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。
4:4 家に入ったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。」
4:5 そこで、彼女は彼のもとから去り、子どもたちといっしょにうしろの戸を閉じ、子どもたちが次々に彼女のところに持って来る器に油をついだ。
4:6 器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。「もっと器を持って来なさい。」子どもが彼女に、「もう器はありません」と言うと、油は止まった。
4:7 彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」
4:42 ある人がバアル・シャリシャから来て、神の人に初穂のパンである大麦のパン二十個と、一袋の新穀とを持って来た。神の人は、「この人たちに与えて食べさせなさい」と命じた。
4:43 彼の召使いは、「これだけで、どうして百人もの人に分けられましょう」と言った。しかし、エリシャは言った。「この人たちに与えて食べさせなさい。【主】はこう仰せられる。『彼らは食べて残すだろう。』」
4:44 そこで、召使いが彼らに配ると、彼らは食べた。【主】のことばのとおり、それはあり余った。



詩篇18:6 私は苦しみの中に【主】を呼び求め、助けを求めてわが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、御前に助けを求めた私の叫びは、御耳に届いた。

エレミヤ33:3 わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。

詩篇40:1 私は切なる思いで【主】を待ち望んだ。主は私のほうに身を傾け、私の叫びを聞き、
40:2 私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。

Tペテロ2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

マタイ11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

マタイ8:13 それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。

マタイ9:29 そこで、イエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われた。

ローマ8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

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