2020年7月26日「確かな信仰、貴い人格」U列王記4:8〜37

序−私たちは、イエス様の福音を知っているし、神を信じているのですが、主を無視して、神がおられないかのように振る舞い、自分の考えや計画で歩んでしまいます。それでも、人生の問題に出会い、主に戻ります。しかし、心が変化しなければ、またそれを繰り返してしまいます。素晴らしい女性の姿を通して、確かな信仰とそれに対する恵みを見せてくださいます。

T−貴い人格−7〜17
 今日の主人公は、一般にその地名からキリスト教世界ではシェネムの女と呼ばれています。しかし、8節には、「裕福な女」と紹介されています。裕福なというと単にお金持ちという印象を与えますが、裕福と訳された言葉は、精神的に豊かな人、人格的にも立派な、貴い人を意味しています。確かに、内容を見ると、物質的に豊かな人でしたが、人格的に優れた、細やかな心配りのできる謙遜な人でした。
 そのような貴い人の特徴を見てみましょう。まず、人をもてなし、仕える人でした。8〜10節。この女性は、預言者エリシャがシェネムを通りかかる度にもてなし、ついには家の屋上にエリシャの部屋まで作りました。必要な家具も整え、エリシャが祈ったり、勉強したり、休んだりできるようにしました。単に裕福だからというより、細やかな配慮がなければ、できないことです。そのような姿は、夫にも影響を与えて、夫も貴い働きに参加しています。預言者に仕えることを通して、主に仕えていたということです。主の働きをする者を助けるのは、主に対することです。マタイ10:40〜42。
 また、足ることを知り、見返りを求めない人でした。12〜13節。エリシャは、この女性の細やかな配慮に感謝して、何かしてあげたいと思いました。何かしてほしいことはないか、王や将軍にも口を利いてあげることもできますよというのです。驚くべきことに、何も求めません。幸せに暮らしていますと答えるのです。神の人に仕えることで満足していました。その状態で足りていました。よく尽くしてくれたから、何でもしてあげたいというのに、何も求めない人がいるでしょうか。人は、かえって報いを期待し、見返りのないことに不満を持つのではないでしょうか。
 結局、この女性の姿勢は、主を感動させて、主によって子どもが与えられました。16〜17節。求めてもいないのに、本当に大きな恵みをいただきました。良いことには必ず実があります。期待していなくても、恵みがあります。見返りを期待しないで働くならば、必ず結果があります。主は恵み豊かな方だからです。この女性は、はじめから自分の利益は考えていません。結果や報いを望んでいません。
 世の中では、いわゆるご利益が現代でも人々の心をとらえています。ですから、信仰においても、利益や見返りを求め、思い通りにならなければ、不満に思うのです。祝福を受けるために信仰生活をしていたのではありません。信仰は、イエス様の救いが真実だからです。ご利益を求めてではありません。でも、信仰の結果、祝福や恵みがあります。祝福は、神様の一方的な恵みです。この女性の生き方は、救われた者は神様を喜ばせる人生を生きるようになることを教えています。ローマ12:2。救われた人は、生まれ変わった人生を生きるのです。Uコリント5:17。

U−確かな信仰−18〜30
 ですから、この女性の素晴らしい所は、信仰にこそ発揮されます。この女性の信仰の特徴は、絶望しない姿です。何と、あれほどの恵みの結果であった一人息子が、突然死んでしまいました。18〜20節。こんなに突然悲しことに出会えば、たいていの人は、絶望し、慟哭し、悲嘆にくれるでしょう。茫然自失として、憂いに沈むでしょう。イエス様の遺体を抱くマリヤの姿をあらわした、ミケランジェロのピエタ像の情景ですね。
 ところが、この女性は、違いました。20〜22節。エリシャのために建てた屋上の間に息子を寝かせて、戸を閉じました。そして、夫には預言者エリシャのところに行くと言うのです。息子の死を夫にも誰にも知らせていません。つまり、息子のことを諦めていない、絶望していないということです。神様がくださった子どもだから、神様がどうにかしてくださると信じたのです。悲しみ慟哭するどころか、落ち着いて迅速に行動しています。
 失望や恨みの言葉がありません。否定的な言葉を吐いていません。信仰の人にも、問題や事件は起こります。しかし、重要なことは、その時どう対処するかということです。私たちの口からどのような言葉が出てくるかが問題です。この女性は、驚くべき言葉を発しています。エリシャの従者に何と答えていますか。26節。無事という言葉は、シャローム、平安です。無事です、平安は挨拶の言葉ですから、問う方はそう言っていても、無事とか平安とはとても答えられません。こんな状況で無事ですか、平安ですかと言われたら、普通は泣き崩れてしまうでしょう。この女性が、最大の悲しみと痛みの中にあっても、平安だと言えたのは、神への信頼と信仰の確信があったからです。
 そして、その心の内の苦しみをエリシャだけに訴えます。28,30節。それは、神様だけに訴えたということです。まず、訴えるべきは神様、主に祈って聞いてもらうことが最優先事項です。私たちは、様々な問題に出会います。どうしてよいか分からない事件の前に立たされます。私たちは、問題を解決できなくても、イエス様に問題を持って行くことで心に平安を与えられ、適切に問題に対処できるようになります。
 私たちは、問題に出会った時、その問題のために口を開いて騒いだり、否定的なことを言ってしまったことがないでしょうか。そのために、心に痛みを覚えることもあったでしょう。心に残る痛みでもって、これからはそうならないようにしたいものです。問題や事件の時、不安や恐れを抱き、神様に不満や恨みをぶつけ、否定的な行動と言葉が出るようになれば、ますます深い絶望に中に陥るしかありません。
 反対に、主なる神様に心を向けるならば、どのような問題や危機の中でも、静かな希望と平安にたましいが導かれます。詩篇23編。エリシャの部屋の寝台に息子を横たえてから、この女性の問題は、神様の問題となりました。私たちが家族の問題や仕事の問題をイエス様に持って行って、イエス様の御手に委ねるなら、イエス様の問題になります。私たちには罪を倒す力はなく、病気を癒す力もなく、問題を解決する力もありません。しかし、主の問題になるなら、主が働いてくださいます。主が赦せない罪がありますか。主が癒せない病がありますか。主が解決できない問題がありますか。問題を主に持って行くなら、主が責任を負ってくださいます。

V−私たちの身代わりである十字架−31〜37
 さて、従者のゲハジに、屋上の間に行って、エリシャの杖を子どもの顔の上に置かせましたが、何の変化もありません。29,31節。エリシャがそこに付くと、祈ってから、主に教えられたとおりすると、子どもは癒されました。33〜35節。こうして、子どもが生き返らされて、女性は平安を得ました。ここで、子どもを癒す時、エリシャは、祈った後不思議な行動を取っていることに目が留まります。34節。これは、主が教えてくださった方法です。これを通して、私たちを救う道を教えています。この子どもは、私たちです。聖書によれば、私たちは、罪のゆえに、霊的にはこの子どものように死んでいた者でした。エペソ2:1〜3。
 最初、エリシャは、自分の考えで、杖を使って癒そうとしました。31節。この杖は律法をあらわしているようです。律法は、偶像を拝んではならない、嘘をついてはいけない、姦淫をしてはならない、むさぼってはならないというような命令です。出エジプト20:2〜17。私たちは、そういう律法の言葉を聞いた時、自分はそれらを守ることができない罪人である事実を知るばかりです。ローマ7:7。心では、律法を破っている者です。律法は、人を生かすことはできません。「罪から来る報酬は死だから」です。ローマ6:23。多くの人々が自分で自分を救うために努力するのですが、修行や功績が人を救うことはできません。
 34節のエリシャの行動は、死んだ子どもとエリシャ自身の体の部分を合わせています。これは、エリシャがその子どもと同じになっているということです。つまり、十字架につけられたイエス様の業を見せているのです。イエス様が十字架にかかられたことは、私たちと同じになられたことです。私たちが罪人であるように、イエス様も罪人になって十字架につけられました。私たちが受けなければならない罪の刑罰をイエス様が代わりに受けられました。それで、私たちは、罪赦されて、永遠の命を得ることができるようになりました。イザヤ53:5〜6。十字架の犠牲を新たに感じます。
 なぜ、何の罪もない聖なる神の御子が、私たちに代わって罪のための恐ろしい裁きと罰を受けられるようにされたのでしょうか。Uコリント5:21。それは、神様が愛なるお方だからです。Tヨハネ4:10。罪人の私たちのようになられた主の愛が、私たちを救ったのです。人の救いについて自分の考えや基準を当てはめようとするのは、子どもの顔に杖をつけるようなことです。自分の基準や尺度ではたましいは救われません。
 杖は主の方法ではありません。エリシャは、祈りました。33節。そして、主の方法を取りました。私たちに与えられた救いの方法が、イエス様の十字架です。イエス様の愛は、私のために命を差し出されました。これより大きな愛はありません。ヨハネ15:13。イエス様を信じてください。



U列王記4:8 ある日、エリシャがシュネムを通りかかると、そこにひとりの裕福な女がいて、彼を食事に引き止めた。それからは、そこを通りかかるたびごとに、そこに寄って、食事をするようになった。
4:9 女は夫に言った。「いつも私たちのところに立ち寄って行かれるあの方は、きっと神の聖なる方に違いありません。
4:10 ですから、屋上に壁のある小さな部屋を作り、あの方のために寝台と机といすと燭台とを置きましょう。あの方が私たちのところにおいでになるたびに、そこをお使いになれますから。」
4:11 ある日、エリシャはそこに来て、その屋上の部屋に入り、そこで横になった。
4:12 彼は若い者ゲハジに言った。「ここのシュネムの女を呼びなさい。」彼が呼ぶと、彼女は彼の前に立った。
4:13 エリシャはゲハジに言った。「彼女にこう伝えなさい。『ほんとうに、あなたはこのように、私たちのことでいっしょうけんめいほねおってくれたが、あなたのために何をしたらよいか。王か、それとも、将軍に、何か話してほしいことでもあるか。』」彼女は答えた。「私は私の民の中で、しあわせに暮らしております。」
4:14 エリシャは言った。「では、彼女のために何をしたら良いだろうか。」ゲハジは言った。「彼女には子どもがなく、それに、彼女の夫も年をとっています。」
4:15 エリシャが、「彼女を呼んで来なさい」と言ったので、ゲハジが彼女を呼ぶと、彼女は入口のところに立った。
4:16 エリシャは言った。「来年の今ごろ、あなたは男の子を抱くようになろう。」彼女は言った。「いいえ。あなたさま。神の人よ。このはしために偽りを言わないでください。」
4:17 しかし、この女はみごもり、エリシャが彼女に告げたとおり、翌年のちょうどそのころ、男の子を産んだ。
4:33 エリシャは中に入り、戸をしめて、ふたりだけになって、【主】に祈った。
4:34 それから、寝台の上に上がり、その子の上に身を伏せ、自分の口を子どもの口の上に、自分の目を子どもの目の上に、自分の両手を子どもの両手の上に重ねて、子どもの上に身をかがめると、子どものからだが暖かくなってきた。
4:35 それから彼は降りて、部屋の中をあちら、こちらと歩き回り、また、寝台の上に上がり、子どもの上に身をかがめると、子どもは七回くしゃみをして目を開いた。
4:36 彼はゲハジを呼んで、「あのシュネムの女を呼んで来なさい」と言いつけた。ゲハジが彼女を呼んだので、彼女はエリシャのところに来た。そこで、エリシャは、「あなたの子どもを抱き上げなさい」と言った。
4:37 彼女は入って来て、彼の足もとにひれ伏し、地に伏しておじぎをした。そして、子どもを抱き上げて出て行った。



ローマ12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

Uコリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

ローマ6:23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

Uコリント5:21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

Tヨハネ4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

ヨハネ15:13 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

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