2020年8月2日「と思っていたのに」U列王記5:1〜19

序−日常生活や仕事において、固定観念や思い込みが行動を妨げ、先入観にとらわれることがあります。それが、知らず知らずに自分の行動を規制してしまう危険があります。固定観念や先入観にとらわれると他人の意見や周りの状況を受け入れることができなくなり、改善や進展ができなくなってしまいます。信仰の決心や成長においても、そうです。一人の人物が救われる出来事から学びましょう。

T−重んじられ、尊敬されていたが−1〜5
 紹介文を読んでみましょう。1節。ナアマンは、イスラエルの北方の強国であるアラムの将軍でした。彼は、勇士であり、戦いにも勝利し、アラムの王様に信頼され、重んじられていました。多くの財産を持っていました。5節。何一つ欠けたところがないような人でしたが、彼には問題がありました。ツァラアトに冒されていました。ツァラアトは、重い皮膚病の類で、中には死に到るものもありました。人は、たとえ表面的には何もかも整っているように見えても、中には何か問題を抱えているものです。
 主なる神様は、すでにこの人に目を留めておられ、一人のイスラエルの少女を通して、彼を救おうとされました。2節。若い娘というと年頃の女性の印象を受けますが、小さな少女です。この少女は、戦いで捕虜となってアラムに連れて来られ、ナアマンの家のしもべとなっていました。家族と引き離され、一人で見知らぬ敵国の中で働いていました。どんなにか寂しく、辛いことでしょうか。ナアマンと対照的に、何も持たないように見えるのですが、確かな信仰を持っていました。
 ですから、その境遇を嘆くのではなく、その場で信仰をもって生きていました。誠実に働き、その主人から信頼も得ていました。そして、信仰の恵みの通路になろうとしました。3節。敵の関係ですが、病気に悩む主人をあわれみ、信仰の勇気をもって、主人を救う提案をしたのです。福音は誰でも救うことができます。主の御名を呼び求める者は、だれでも救われます。ローマ10:13〜14 。しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。誰かが救いの恵みの通路となり、福音を伝える者が必要です。少女の小さな働きが大きな働きになりました。ヨブ8:7。
 主は、私たちを用いようとされています。少女をナアマンの家に置かれたように、私たちも周りの人々のために、そこに置かれているのです。少女は、単純に預言者のところに行けば、主が癒してくださると信じていました。私たちも、福音が人を救ってくれる、主がその人を愛して、あわれんでくださると確信している必要があります。私たちには、世の問題を解決する力はありません。私たちが持っている力でこの世を救うことはできません。しかし、人々を主に導き、主の助けを受けるようにすることができます。金銀はなくても、救い主イエス様が私たちにはあります。
 ナアマンも、少女の言葉を信じて、イスラエルの預言者の所へ行くことにしました。4〜5節。それだけ、この少女の誠実な生き方を見て、信頼していたのでしょう。この少女の信じている神を信じてみようとしたのです。一縷の望みにかける素直さがありました。

U−プライド、固定観念、期待感を置いて−6〜12
 ところが、預言者の所に出かけたナアマンに、色々な障害が起きました。彼の思い込みが妨げとなりました。まず、直接エリシャの所に行かないで、王の親書を持ってイスラエル王の宮殿に行きました。6節。なぜ、直接エリシャの所に行かないで、アラム王の親書を携えて、イスラエル王の宮殿に行ったのでしょう。彼の権威を見せつけて、そこに、当然預言者エリシャが来て、治してくれるはずと思っていたからです。
 しかし、宮殿での騒ぎを聞きつけたエリシャは、逆に、人を介して、自分の所に来いというのです。7〜8節。王の信頼を得ているアラムの将軍としての自尊心が傷付きました。
 それでも、ナアマンは、エリシャの家に行きました。9節。エリシャに会いに来たナアマンは、馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入口に立ちました。戦いでもないのに、どうしてそんな格好をして来たのでしょう。なぜ、入口に立っているのでしょう。自分の権威を見せています。出迎えるべきだという彼のプライドです。
 ナアマンだけと思わないでください。自分には、プライドや見栄がないですか。誰にも肉のプライドはあります。自分を立ててくれないと怒るのではないですか。沽券に関わると憤慨することもあるでしょう。そのために取り返しのつかないことも生じます。私たちは、どうでしょうか。しかし、信仰者は、少女のような謙遜を身に着けるのです。何もないようで、信仰を持って確かに生きるのです。
 ナアマンは、エリシャが権威にひれ伏して、家の外に出てきて、治してくれるのを期待したのですが、出てきません。人は、期待感が大きいと、心が傷付き、不平不満を持ちます。エリシャの与えた処方箋は、「ヨルダン川で七度身を洗いなさい、そうすれば治る」としもべに伝えさせるだけです。10節。ここに至って、彼は、ついに怒って帰ろうとしました。11〜12節。二度も「怒って」という言葉が繰り返されています。怒ったのは、プライドが傷付いて、期待通りでなかったからだけではありません。
 「主の名を呼んで、患部の上で彼の手を動かして治してくれる」はずと思っていたのに、そうしてくれなかったからです。おそらくアラムでの経験がそのような固定観念を持たせたのでしょう。どうせ洗うなら、大きくてきれいなダマスコの川の方が治るのではないかと思ったからです。ナアマンの固定観念や思い込みとは違ったからです。癒してもらうという本来の目的を忘れて、怒ってしまいました。形式や手続きに拘泥すると、肝心の本質を失ってしまうものです。思い当たることはありませんか。
 仕事においても、経験の蓄積や立場によって固定観念が無意識のうちに強くなる危険性があります。特に過去の成功体験という固定観念に取り憑かれるならば、人から見て明らかな誤りや不自然と思えるような状態でも、訂正することができなくなるのです。時代や状況の変化に対応できなくなってしまいます。
 確かにヨルダン川はにごっていて、ダマスコの川の方がきれいでまさっていたでしょう。そういうことが問題なのではありません。エリシャの処方箋は、ナアマンが持っている固定観念や思い込み、自分の経験や考えをすべて脇に置いてみなさいということです。御言葉をそのまま信じて従ってみなさいと教えているのです。信仰する時にも、人は自分を神よりも高い所において、自分の考えで御言葉を判断し、福音を検討するのです。それでは、固定観念や思い込みが信仰の妨げとなってしまいます。

V−御言葉通りに−13〜19
 ナアマンは、怒ってアラムに帰ろうとしました。12節。私たちも、固定観念や思い込みのために、失敗することがありませんか。このままでは、ナアマンは癒される好機を失うことになります。救われる機会を逸してしまいます。ここでも、彼を助ける人が登場します。一緒に来ていた彼のしもべが提案します。13節。見事な言い方、勧め方です。彼のプライドに直接触れません。彼の行動の是非も問うていません。思い込みに気付かせ、ナアマンが素直になって、エリシャの処方箋通りにするように説得しています。ここにも、主が働いてくださったと言うほかありません。
 確かに難しいことを言われたら、何とか頑張ってみようと思っていたのです。あまりにも簡単なことを言われたから、信じられなかったのです。これもまた、思い込みです。信仰は、イエス様の十字架の犠牲が私の罪と裁きの身代わりだと信じるだけです。ローマ10:9。世には、努力や修行や行いを求め、そこに信仰があるかのように思う人々も多いです。聖書は難しいことを言っているのですか。イエス様の御名を信じる者は救われると言っているだけです。ローマ10:13 。
 しもべの特徴は、従順です。主人の命令に聞き従います。一方、将軍であるナアマンは、命令をくだすだけです。でも、今ここで、癒され、救われるためには、いつも自分の考え通りにしていたこだわりを主の前に捨てる必要があります。どんな人でも医者の前には患者です。たましいの医者である主の前には、従順なしもべでなければなりません。御言葉に聞き従うのでなければ、主の恵みを受けることができません。
 しもべの機転により考えを変えたナアマンは、言われた通りにしました。14節。プライドを捨てて行うと、彼のからだは元どおりになりました。固定観念や思い込みを置いて、御言葉に聞き従うなら、それは小さな決心ですが、そこに主の力が働きます。大きな奇跡が起こります。ヨブ8:7。感謝したナアマンは、信仰を告白しています。17〜18節。そこの土を持って帰るのは、そこに来た思い出ではなく、その土の上で主なる神に礼拝をささげたいという、主なる神への信仰告白でした。
 私たちに与えられた救いの処方箋は、イエス様の十字架です。罪人である人間は、救いの問題を自分で解決することはできません。重要なポイントは、ナアマンがヨルダン川へ行ったように、神の前に出て行くことです。イエス様がヨルダン川で洗礼を受けています。つまり、信仰を告白して洗礼を受けるのです。これが、私たちの救いの処方箋です。固定観念や思い込みではなく、御言葉によって生きるのです。ヘブル4:7。



イスラエル王は、この親書を読んで、いいがかりをつけようとしていると騒いでいます。イスラエルには、預言者への信頼、つまり主なる神への信仰がなかったのです。異邦人が救われた意味が、ここにあります。ルカ4:27。

U列王記5:1 アラムの王の将軍ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。【主】がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからである。この人は勇士で、ツァラアトに冒されていた。
5:2 アラムはかつて略奪に出たとき、イスラエルの地から、ひとりの若い娘を捕らえて来ていた。彼女はナアマンの妻に仕えていたが、
5:3 その女主人に言った。「もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのツァラアトを直してくださるでしょうに。」
5:4 それで、ナアマンはその主君のところに行き、イスラエルの地から来た娘がこれこれのことを言いました、と告げた。
5:5 アラムの王は言った。「行って来なさい。私がイスラエルの王にあてて手紙を送ろう。」そこで、ナアマンは銀十タラントと、金六千シェケルと、晴れ着十着とを持って出かけた。

5:9 こうして、ナアマンは馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入口に立った。
5:10 エリシャは、彼に使いをやって、言った。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」
5:11 しかしナアマンは怒って去り、そして言った。「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、【主】の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このツァラアトに冒された者を直してくれると思っていたのに。
5:12 ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないのだろうか。」こうして、彼は怒って帰途についた。
5:13 そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」
5:14 そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。



ローマ10:13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。
10:14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。

ヨブ8:7 あなたの始めは小さくても、その終わりは、はなはだ大きくなる。

ローマ10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

ヘブル4:7 神は再びある日を「きょう」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。

戻る