2020年8月9日「目が開かれて」U列王記6:8〜23

序−専門家によれば、私たちは見える現実をありのままに受け取っているのではなく、脳が解釈し編集した結果を受け取っているに過ぎないというのです。その証拠に、見たまま認識するなら、錯覚は起きません。視覚データに対して事前の知識を当てはめて見ることを可能にしているそうです。今日の箇所を通して、霊的に見ることへ目を開かれたいと願います。

T−問題に囲まれて、どうしたらよいのでしょう−
 当時紀元前9世紀中頃、北方の強国アラムは、北イスラエルのあちこちを急襲し、侵略していました。ところが、アラムの作戦がことごとくイスラエル側に知られて、失敗しました。8〜10節。怒ったアラム王は、誰か内通するスパイがいるのではないかと家来たちを問い詰めると、預言者エリシャがイスラエル王に教えているためですと告げるのでした。11〜12節。アラム王は、エリシャのいる町へ大軍を送り夜のうちに町を取り囲みます。13〜14節。これまで作戦がことごとく知られて失敗しているのですから、これも知られているだろうと考えなかったのでしょうか。しかし、今度は警戒されることなく、預言者エリシャを町ごとアラムの軍隊で包囲することができました。見た目は、作戦大成功です。
 エリシャに仕えている若者が朝早く起きて、外に出ると、何とアラムの軍隊が町を包囲しているのです。15節。びっくりした若者は、エリシャの所に走って行って報告します。恐れに陥り、震えながらエリシャに「どうしたらよいのでしょう」と訴えるのです。私たちも、「どうしたらよいのでしょう」と言う時があります。私たちは人生を何の問題もなく生きていくことができません。とりわけ、色々な問題が次々に起きて来て、問題に包囲されるような時があります。恐れと不安に締め付けられて、身動きがとれなくなります。私たちが問題に包囲された時、私たちはただ恐れるしかありません。今あなたを取り囲んでいる問題は何ですか。
 なぜ人は、問題によって恐れや不安にとらわれるのでしょうか。私たちに恐れや不安を与える正体は、外部的な環境や事件や問題ではなくて、その現実を見てどう認識しているかということです。つまり不安や恐れは、環境の産物ではなく、人の持っている視覚の違いなのです。自分の考えや経験が見え方を決定しています。問題が私たちを取り巻く時、信仰がなければ、問題が生じる度、「ああ、どうすればいいのだろう」と嘆き、恐れるしかありません。問題だけしか見えません。それも、大きく、難しく見えて来ます。主を見ていないからです。
 この時、召使の若者は、エリシャに対して「どうしたらよいのでしょう」と言ったのですが、それは、主なる神様に言っていることです。単に「どうしたらよいのだろう」と一人で嘆いていたのではありません。人間は誰でも、平和と安定を求めながら生きています。でも、私たちが生きている世は、到るところに恐れと不安の要素が潜んでいます。問題を通して心配と恐れ、痛みと苦しみが私たちの前に生じて来るような世界です。ですから、私たちは、問題に囲まれたら、「主よ、どうしたらよいのでしょう」と訴え、祈らなければなりません。

U−目を開いて、見えるようにしてください−16〜17
 召使の若者の訴えを聞いたエリシャは、「恐れるな」と言いました。なぜ恐れてはならないのでしょう。「自分たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いから」です。16節。そして、「彼の目を開いて、見えるようにしてください」とエリシャが祈ると、召使の若者は、天の軍勢がエリシャを取り巻いて山に満ちているのを見ました。17節。霊的な目が開かれると、主なる神が一緒におられることを知るようになります。聖書には、「恐れるな」という言葉が数多く出て来ます。人生には恐れることが多いけれども、主は「恐れるな。わたしはあなたとともにいる」と繰り返し言ってくださるのです。イザヤ41:10。
 恐れるか恐れないかの違いは、何かがあるかないかの違いではありません。何を見るかの違いです。同じものを見ても、それをどのように見るかの違いです。主を信じる聖徒は、精神的な視覚が必要です。見えるものだけを見るのではありません。目に見えないものを見るようになります。よく何かについて「目が開かれる」という表現が使われます。何かを発見したり、重要なことに気付いたりする時です。私たちも、「私の目を開いてください」と主にお願いしなければなりません。詩篇119:18。
 イエス様を信じる者の見え方は、世の人々と違って来ます。困難な状況でも感謝できるのは、人が見ていないものを見ているからです。エリシャが若者のために祈ると、彼の目が開かれて、天の軍勢が見えました。こんな場面なら、アラム軍を退けてとか救援を求めるでしょう。しかし、目が開かれて見えるようにと祈ったのです。聖徒たちは、状況が変わる祈りよりも、霊的な目が開かれるように祈ります。何かが良くなることを願うよりも、自分の心が変わって、自分の見え方が変わるように願うのです。
 肉の目で見た時は、町を包囲するアラムの大軍しか見えませんでしたが、開かれた霊の目で見ると、それを取り囲む天の軍勢を見ることができました。つまり、たとえイエス様を信じる者たちが問題に包囲されたとしても、それよりも大きな神様の守りに取り囲まれているということを教えています。イエス様を信じる私たちは、罪の赦しを得てたましいが癒され、イエス様の十字架の偉大な勝利を見ています。ですから、問題に囲まれたなら、イエス様の十字架を見ます。主の守りを覚えます。
 天の軍勢に囲まれ、守られていたということは、主なる神様が共にいてくださるということです。アラムの大軍に包囲されていても、不安と恐れを払拭することができました。ですから、大事なことは、誰と一緒にいるかということです。霊的な戦いは、自分たちの力によるのではなく、誰と一緒にするかにかかっています。イエス様と同じ真理の御霊が、イエス様を信じた者と一緒におられます。ヨハネ14:16〜17。
 霊的に目が開かれた者は、主が守っていてくださることを信じることができます。17節。囲まれている問題よりも、主に囲まれて守られている方が大きいと思えるならば、霊的に目が見える者です。常に危機だけ、不安や恐れだけ指摘する人がいます。そのような人は、主が守ってくださっておられることを見えていないのです。霊の目で世を見る人は、目の前の現象だけを見てはいません。現象の背後にあることを見ようとします。

V−目を開かれたので−18〜23
 霊的な目が開かれた人は、偉大なことをするようになります。エリシャが祈ると、エリシャを捕らえに来たアラムの軍隊はみな、目が見えなくなりました。18節。目の見えなくなったアラム軍は、エリシャによって北イスラエルの首都サマリヤに連れて来られます。19節。霊的に見える者、目覚めた者は、見えない人たちを導くことができます。霊的に目が開かれた者は、世に引っ張られて行くのではなく、世の人々を主に導く働きをするのです。
 アラムの軍隊がサマリヤに連れて来られた時、彼らはこれまで攻撃して来たイスラエルのただ中にいます。20節。逆にアラム軍がイスラエルに囲まれました。これまで散々にイスラエルを侵略して来たアラム軍を手中にした北イスラエルの王は、すぐさま憎い敵を打とうとしました。21節。これが霊的に目の見えない人々の姿です。肉の目は、相手を報復で見ます。しかし、イエス様は、自分の敵を愛し、迫害する者のために祈れと言われました。マタイ5:44。救われた者は、主に赦された者として人を赦し受け入れる用意があります。
 敵といえども、何もできない捕虜の身です。エリシャは、捕虜になったアラムの軍隊にパンと水を与えて、アラムに返しなさいと言うのです。22節。驚くべきことです。イスラエルの王も、それを受けて、盛大に彼らをもてなし、アラムに帰らせたので、アラムの略奪隊が侵入して来なくなりました。これが、霊的に目の開かれた者のやり方です。23節。
 また、私たちの霊の目が開かれたら、自分自身を見るようになります。私たちは、自分のことは自分が一番よく知っていると思っているので、誰かから忠告を受けたとしても、あの人は私を分かっていないとして受け入れないのです。しかし、霊の目が開かれたら、自分が誰なのかを知ることができるようになります。私たちが自分の本質的な姿を見る方法は、主の前に立つことです。肉の目で見ているだけでは、内面の深い所にある罪の姿を見ることができません。霊の目で見なければ、見えません。
 霊の目をもって自分を見ることを知っている人だけが、自分が神様の中でどれほど大切な存在であるかを知るようになります。イエス様が醜い罪にまみれた自分のために十字架に犠牲になられたからです。霊の目で見た私たちは、罪のかたまりであったけれども、今はイエス様の十字架によって生まれ変わった尊い存在である恵みを知ることができるのです。
 霊的に目が開かれると、洞察力や識別力が与えられるようになります。ピリピ1:9〜10。世で生きて、生活するならば、様々な問題が起こって来ます。問題自体が問題なのではありません。信仰によって霊的な目が開かれることが必要です。問題に囲まれる時、「私の目を開いてください」と祈りましょう。問題に包囲されて恐れと不安に陥る人生ではなく、主に守られて勝利する人生を歩めますように祈ります。イザヤ41:10。
 


U列王記6:8 アラムの王がイスラエルと戦っていたとき、王は家来たちと相談して言った。「これこれの所に陣を敷こう。」
6:9 そのとき、神の人はイスラエルの王のもとに人をやって言った。「あの場所を通らないように注意しなさい。あそこにはアラムが下って来ますから。」
6:10 イスラエルの王は神の人が告げたその場所に人をやった。神の人が警告すると、王はそこを警戒した。このようなことは一度や二度ではなかった。
6:11 このことで、アラムの王の心は怒りに燃え、家来たちを呼んで言った。「われわれのうち、だれが、イスラエルの王と通じているのか、あなたがたは私に告げないのか。」
6:12 すると家来のひとりが言った。「いいえ、王さま。イスラエルにいる預言者エリシャが、あなたが寝室の中で語られることばまでもイスラエルの王に告げているのです。」
6:13 王は言った。「行って、彼がどこにいるかを突き止めなさい。人をやって、彼をつかまえよう。」そのうちに、「今、彼はドタンにいる」という知らせが王にもたらされた。
6:14 そこで王は馬と戦車と大軍とをそこに送った。彼らは夜のうちに来て、その町を包囲した。
6:15 神の人の召使いが、朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若い者がエリシャに、「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう」と言った。
6:16 すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」と言った。
6:17 そして、エリシャは祈って【主】に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」【主】がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。
6:18 アラムがエリシャに向かって下って来たとき、彼は【主】に祈って言った。「どうぞ、この民を打って、盲目にしてください。」そこで主はエリシャのことばのとおり、彼らを打って、盲目にされた。
6:19 エリシャは彼らに言った。「こちらの道でもない。あちらの町でもない。私について来なさい。あなたがたの捜している人のところへ連れて行ってやろう。」こうして、彼らをサマリヤへ連れて行った。
6:20 彼らがサマリヤに着くと、エリシャは言った。「【主】よ。この者たちの目を開いて、見えるようにしてください。」【主】が彼らの目を開かれたので、彼らが見ると、なんと、彼らはサマリヤの真ん中に来ていた。
6:21 イスラエルの王は彼らを見て、エリシャに言った。「私が打ちましょうか。私が打ちましょうか。わが父よ。」
6:22 エリシャは言った。「打ってはなりません。あなたは自分の剣と弓でとりこにした者を打ち殺しますか。彼らにパンと水をあてがい、飲み食いさせて、彼らの主君のもとに行かせなさい。」
6:23 そこで、王は彼らのために盛大なもてなしをして、彼らに飲み食いをさせて後、彼らを帰した。こうして彼らは自分たちの主君のもとに戻って行った。それからはアラムの略奪隊は、二度とイスラエルの地に侵入して来なかった。



イザヤ41:10 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。

詩篇119:18 私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。

ピリピ1:9 私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、
1:10 あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。

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