2020年8月16日「良い知らせの日なのに」U列王記7:1〜20

序−ドラマや映画の中には、描いている物語そのものの他にメッセージが込められているものがよくあります。聖書もそうです。今日の箇所は、戦いで兵糧攻めが行われている中での出来事が記されているのですが、大切なメッセージが込められています。

T−御言葉の通り−6:24〜33,7:1〜2,10〜20
 この頃、北イスラエルに飢饉が起こり、そこにアラムが大軍を率いて攻めて来て、首都サマリヤを包囲しました。6:24〜25。町全体が城壁に囲まれており、サマリヤの民全体が兵糧攻めのために飢餓で苦しんでいました。普段食べないようなものまで大金で売られており、餓死者が出ていました。惨状に怒ったイスラエルの王は、王としての責任を負うことなく、エリシャのせいにして、神様のせいにしています。6:31,33。
そこで、王は、どうにかしてくれとエリシャのもとに王の侍従、大臣を送りました。エリシャは、大臣に対して、明日には、食料が普通の値段で売られるようになると告げます。1節。今は食べ物にもならないようなものが大金で売られているのに、明日には食料が普通の値段で買えるようになる、つまり、包囲は解かれ、兵糧攻めは終わるというのです。明日には助かるという朗報を伝えてくれたのです。
 ところが、この朗報に対して、大臣は、皮肉を言って否定します。2節前半。「主が天に窓を作られる」というのは、かつて出エジプトの時、天からマナを降らせてくださったことです。先祖に与えられた奇跡、神のあわれみを知っていても、そんなことは起こらない、食料が普段の値段で売られることは決してないと言うのです。状況は変わらないと強く断定しているのです。主の力やあわれみを無視し、預言者をあざわらっているのです。優秀で、自信もある大臣は、神の言葉を否定し、自分の考えや判断だけを信じています。でも、そのままでは、民は助かりません。
 絶体絶命の時なのに、助かるとの良い知らせを信じようとしません。民は飢えて死んでいるのに、自分たちは余裕があるから、こんな反応をしています。朗報を信じない者は、恵みを享受することができません。2節後半。人生において危機の時があります。仕事や勉強の危機、家庭や家族の危機、健康や経済の危機があります。危機の中で、主の御言葉を聞かなければなりません。大臣のように反応してはなりません。状況は変わらないと断定してはなりません。神のあわれみを求め、自己中心や責任転嫁を止めなければなりません。
 はたして、その後アラム軍は逃げてしまい、陣営には多くの食料が残されていると知らされると、次の日に町の人々が町から出て、アラムの陣営に来て食料を取り合いました。15〜16節。そして、1~2節で言われたように、通常の値段で食料が売られるようになりました。そして、この混乱の中、陣営の食料に殺到する人々に押し倒されて、大臣は死んでしまいました。17節。ここで繰り返し「御言葉通り」と強調されています。17,20節。今日私たちにこのような命を助ける御言葉を与えられるなら、どのように反応するでしょうか。神の約束を信じますか。それとも、大臣のように自分の知恵と力を信じるのでしょうか。

U−座して死ぬよりは−3〜8
 神のあわれみを受け、良いニュースを聞くことができたのは、最も危機に瀕して、切実に助けを求めていた人々でした。3節前半。町の門の入口に、4人のツァラアトに冒された人たちがいました。その病気のために町の中に住むことができず、人から施されるもので生きていました。当然食料危機になれば、食べるものはもらえません。餓死寸前でした。元々病気のために、人生は破綻し、いつ死ぬか分からない人々でした。
 ですから、彼らは考えました。3〜4節。ここで座っていても、飢饉のために飢え死にするだろう。それなら、一縷の望みをかけてアラムの陣営に行こう。殺されるかもしれないが、ひょっとしたら生かしておいてくれるかもしれない。殺されたら、それまでのこと。座して死を待つよりは、少しでも可能性のある方を選択して、アラムの陣営に行きました。彼らのしたことは、ただ陣営に行っただけです。これが、命拾いとなりました。救われるためには、何か難しいことをする必要はありません。すでに、救い主イエス様が十字架にかかられ、完了したと言われました。ヨハネ19:30。命の救いは、信じるだけで与えられた恵みです。エペソ2:8。
 彼らの選択は、座して待つよりは、敵の陣営に身を投じる選択でした。重要なことは、どのような困難な状況でも肯定的な考えを持って臨むということです。大臣は主が天に窓を作ってマナを降らせるようなことはないと否定しましたが、病人たちはあわれみと慈愛の神に依り頼んだのです。人は、今の生活、生き方ではむなしい、希望がないと言います。でも、聖書が言うようにイエス様を救い主と信じるだけで人生が変わるだろうかと疑います。そのままで希望がないならば、イエス様の救いに希望をかけてもいいのではないでしょうか。座してそのままならば、イエス様の救いに身を投じてみましょう。
 陣営に行ってみると、何と誰もいません。5節。何が起こったのでしょう。6〜7節。主がアラムの陣営に、戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせられたので、アラムの兵士たちは、「イスラエルの王が、ヘテ人の王たち、エジプトの王たちを雇って、われわれを襲うのだ」と思い込んで、陣営の食料、衣服、武器を置き去りにして、命からがら逃げ去ったのでした。そういうことは戦争の時、あり得ることでした。病人たちは、残されたものをたらふく食べたり飲んだりしました。8節。このような方法で、まさに主が天に窓を作って、恵んでくださいました。
 イエス様を信じる者は、イエス様が自分の代わりに十字架にかかってくださったので、罪が赦され、天国の命が与えられ、イエス様に似た者に変えられて行きます。主からの恵みと導きが与えられ、生活や仕事にも守りや祝福があります。新しい命、新しい生活が始まるのです。今まで死んでいたような者が生き返るのです。Uコリント5:17。

V−良い知らせの日なのに−8〜10
 彼らは、たらふく食べ、銀や金や衣服を持ち出し、それを隠しに行きました。それを繰り返しました。8節。彼らは、大金持ちになりました。そうしているうちに、彼らの心に1つ考えが浮かんで来て、心を刺しました。9節。「私たちが、たらふく食べたり飲んだりして楽しんでいる間も、町の中にいる多くの人々は、この時間にも飢えて苦しみ、どんどん死んでいるだろう。今私たちだけ良ければよいのだろうか。私たちは間違っている」と覚醒しました。「今主の恵みとあわれみを受けているのに、この良い知らせを人々に黙っている(原文では)なら、明日まで待つなら、その間にも人は死んで行き、私たちは罰を受けるだろう。さあ、町に行って、王宮に知らせてこよう」こうして、彼らは夜中に町へ走って行き、アラム軍が撤退し、多くの食料が残されていると知らせました。10節。
 「良い知らせの日なのに」という言葉に注目しましょう。良い知らせと言えば何を思い出しますか。福音です。使徒13:31〜32。聖書によれば、人はその罪のゆえに滅びに向かっている者です。そのままでは死にいく者です。まるで、サマリヤの町に閉じ込められ、死を待つだけの人々のようです。しかし、主なる神は、私たちを死と滅びから解放してくださいました。誰でも、イエス様の十字架を信じれば永遠の命をいただけるからです。
 今も、まだこの救いの祝福のニュースを聞くことなく、罪と死の力に閉じ込められている人々がいます。もし私たちが、自分が救われたことだけ感謝して、この良い知らせを伝えずに黙っているなら、8節の彼らの姿と同じです。使徒パウロも、9節の彼らと同じように、「福音を伝えることは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったなら、私はわざわいだ」と証ししています。Tコリント9:16。
 天国へ行ってから、「あなたは、どうして一人で来たのか。町の人々はどうしたのか。家族や友人、職場や学校の人はどうしたのか」と聞かれないでしょうか。なぜ、彼らは、「良い知らせ」を人々に知らせなければと思ったのでしょう。それが、参考になります。この病人たちは、絶望していた人々です。何の希望もなく、自分には何もありませんでした。家族や友人に迷惑をかけたくないと思うばかりです。社会を恨み、自分を恨んでいました。そんな彼らが、救いの良い知らせを聞いたからです。彼らは、良い知らせに感激したのです。私たちは福音に感激していますか。
 世の人々を見ると、サマリヤの城壁の中に閉じ込められている人々のようです。自分の築いた城で人生を享受しようとしたけれども、次から次に起こって来る人生の問題に囲まれて、苦しみ、痛み、希望を失っている人々が多いです。家庭という城の中に夫婦間の傷があり、子どもの痛みがあります。職場という城の中で人間関係に痛み、成果主義に苦しめられています。社会というサマリヤで、人々は恐れや不安に閉じ込められています。
 誰でも、あわれみと慈愛に満ちた主の御手に捕らえていただかなければ、真実に生きて行くことができないような存在です。ですから、良い知らせを聞いたなら、自分だけ享受したままではいられません。ローマ10:15。今日の箇所は、兵糧攻めの戦いを描きながら、福音が知らされていることの幸いと良い知らせを伝えることの大切さを教えてくれました。
 

 
U列王記7:1 エリシャは言った。「【主】のことばを聞きなさい。【主】はこう仰せられる。『あすの今ごろ、サマリヤの門で、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られるようになる。』」
7:2 しかし、侍従で、王がその腕に寄りかかっていた者が、神の人に答えて言った。「たとい、【主】が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか。」そこで、彼は言った。「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」
7:3 さて、四人のツァラアトに冒された人が、町の門の入口にいた。彼らは互いに言った。「私たちはどうして死ぬまでここにすわっていなければならないのだろうか。
7:4 たとい、私たちが町に入ろうと言っても、町はききんなので、私たちはそこで死ななければならない。ここにすわっていても死んでしまう。さあ今、アラムの陣営に入り込もう。もし彼らが私たちを生かしておいてくれるなら、私たちは生きのびられる。もし殺すなら、そのときは死ぬまでのことだ。」
7:5 こうして、彼らはアラムの陣営に行こうと、夕暮れになって立ち上がり、アラムの陣営の端まで来た。見ると、なんと、そこにはだれもいなかった。
7:6 主がアラムの陣営に、戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせられたので、彼らは口々に、「あれ。イスラエルの王が、ヘテ人の王たち、エジプトの王たちを雇って、われわれを襲うのだ」と言って、
7:7 夕暮れになると、彼らは立って逃げ、彼らの天幕や馬やろば、すなわち、陣営をそのまま置き去りにして、いのちからがら逃げ去ったのであった。
7:8 このツァラアトに冒された人たちは、陣営の端に来て、一つの天幕に入り、食べたり飲んだりして、そこから、銀や金や衣服を持ち出し、それを隠しに行った。また、戻って来ては、ほかの天幕に入り、そこから持ち出し、それを隠しに行った。
7:9 彼らは話し合って言った。「私たちのしていることは正しくない。きょうは、良い知らせの日なのに、私たちはためらっている。もし明け方まで待っていたら、私たちは罰を受けるだろう。さあ、行って、王の家に知らせよう。」
7:10 彼らは町に行って、門衛を呼び、彼らに告げて言った。「私たちがアラムの陣営に入ってみると、もう、そこにはだれもおらず、人の声もありませんでした。ただ、馬やろばがつながれたままで、天幕もそっくりそのままでした。」
7:11 そこで門衛たちは叫んで、門のうちの王の家に告げた。
7:12 王は夜中に起きて家来たちに言った。「アラムが私たちに対して計ったことをあなたがたに教えよう。彼らは私たちが飢えているのを知っているので、陣営から出て行って野に隠れ、あいつらが町から出て来たら、生けどりにし、それから町に押し入ろう、と考えているのだ。」
7:13 すると、家来のひとりが答えて言った。「それでは、だれかにこの町に残っている馬の中から五頭だけ取らせ、その者たちを遣わして偵察してみましょう。どうせ彼らはこの町に残っているイスラエルの全民衆と同じめに会い、または、すでに滅ぼされたイスラエルの全民衆と同じめに会うのですから。」
7:14 彼らが二台分の戦車の馬を取ると、王は、「行って、偵察して来なさい」と命じ、アラムの陣営のあとを追わせた。
7:15 彼らはアラムのあとを追って、ヨルダン川まで行った。ところが、なんと、道は至る所、アラムがあわてて逃げるとき捨てていった衣服や武具でいっぱいであった。使者たちは帰って来て、このことを王に報告した。
7:16 そこで、民は出て行き、アラムの陣営をかすめ奪ったので、【主】のことばのとおり、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られた。
7:17 王は例の侍従、その腕に王が寄りかかっていた侍従を門の管理に当たらせたが、民が門で彼を踏みつけたので、彼は死んだ。王が神の人のところに下って行ったとき話した神の人のことばのとおりであった。
7:18 神の人が王に、「あすの今ごろ、サマリヤの門で、大麦二セアが一シェケルで、上等の小麦粉一セアが一シェケルで売られるようになる」と言ったとき、
7:19 侍従は神の人に答えて、「たとい、【主】が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか」と言った。そこで、彼は、「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない」と言った。
7:20 そのとおりのことが彼に実現した。民が門で彼を踏みつけたので、彼は死んだ。
 


使徒13:31 イエスは幾日にもわたり、ご自分といっしょにガリラヤからエルサレムに上った人たちに、現れました。きょう、その人たちがこの民に対してイエスの証人となっています。
13:32 私たちは、神が父祖たちに対してなされた約束について、あなたがたに良い知らせをしているのです。

ローマ10:15 遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」

Tコリント9:16 というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったなら、私はわざわいだ。





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