2020年9月6日「私の熱心、主の熱心」U列王記10:1〜36

序−人の肉の性質は、自分中心です。すべての状況や条件が自分に有利になることを望んでいます。ですから、神についても、自分の望みを聞いてくれる存在と期待するのです。すべてのことを自己中心に考える習性は、神の御心でさえ、自分に都合よく利用するようになります。そんな人の罪の姿をエフーのその後を通して学びます。

T−主を利用する私の熱心−1〜17
 謀反を起こして王となったエフーは、すでにヨラム王とイザベル女王を倒したのですが、アハブ王家につながる者をなきものにします。サマリヤにいた70人の子どもたちまで殺害させています。1〜8節。彼らに仕えていた者たちや養育係にやらせています。主が預言者を通して言われたとおりにしていると言うのですが、それだけなのでしょうか。民に対してわざわざ主から告げられたからと言っているのは何のためでしょうか。10節。
 さらに、南ユダ王国のアハズヤ王の親族まで殺害しています。13〜14節。アハズヤ王の王妃はイゼベルの娘なので、その子どもはアハブの孫ということになりますが、そこまでは預言者も何も言っていません。あきらかにエフー個人の考えです。ここまでする必要があるのでしょうか。
 韓国で朴、金、李という3大氏姓が多いのは、いずれも新羅王朝や朝鮮王朝の王族の苗字だからです。でも、高麗王朝の王氏姓はほとんどありません。謀反を起こして高麗を倒した李成桂によって、王氏一族が抹殺されたからです。王氏一族が担がれて朝鮮王朝が倒されるのを恐れたのです。生き残った者も苗字を変えたので、王の苗字の人はいなくなったのです。
 エフーも同じです。謀反を起こして王となったエフーは、王権を維持することが自分の願いの中心となりました。アハブ家につながる者はすべて、担がれてエフーを倒す可能性のある存在です。王権を揺るがす不安材料は、徹底的に除いたということです。それなのに、すべて主の言われた通りにしたと宣伝するのです。自分の正当化のためです。
 そのことを垣間見せるエフーの言葉は、「私の熱心」です。15〜17節。レカブの一族は、主の御言葉に聞き従うことに熱心でした。ヨナダブは、子孫に対して、一生酒を飲まず、天幕に住むように言い残した人です。エレミヤ35:6〜7。この人がエフーを尋ねて来た時、喜んだエフーは、「私の主に対する熱心さを見なさい」と言うのです。主に対する「私の熱心」と言っています。このような人が一緒にいれば、自分の正当化の助けになり、エフーの主に対する熱心の裏づけとなるからです。ですから、一緒に戦車に乗ってもらい、サマリヤに入場します。16〜17節。
 主が言われた通りに行っていると言っても、はたしてエフーは主の御心に従っていたと言えるのでしょうか。もう自分の王権確立のために行っているならば、主のための熱心と言っても、それは自分の熱心です。自分の熱心を誰かのせいにするのは、人の習性です。たとえば、会社のために尽くしている、家族のために苦労していると言っても、自分の人生のため、自己実現のためです。家族のために、子どものために頑張っている、犠牲になっていると言うのですが、家族あっての自分です。自分がやりたいことをしているのに、誰々のために苦労していると利用するのです。
 エフーが主によって王に立てられたのは、主の御言葉を成すための道具、手段であったのに、王という権力の虜になってしまったのです。10節でわざわざ自分の所業を神の御言葉の成就であると主張し、その所業の中心に自分がいることを示しています。エフーのような例は、主の御心や御言葉を叫んでいても、そこに自己中心、自分の欲望が介入することはいくらでもあることを教えています。私たちに必要なのは、このような自己中心に目覚めて、自分を正当化することをやめることです。イエス様がこのような罪から私たちを救うために来られたからです。ピリピ2:3〜8。

U−主を退けるヤロブアムの罪−18〜36
 さて、エフーは、霊的指導者であるヨナダブが加わってくれたので、その協力を得てバアルの預言者たちを一掃することになります。バアルの神殿を徹底的に破壊しました。18〜27節。こうしてエフーは、イスラエルからバールを根絶やしにしたので、主はエフーに王朝が4代目まで続くと祝福してくださいました。30節。こんなことを言ってもらえたのは、北イスラエル19人の王の中で彼一人だけです。ここを見れば、ちゃんと主の言われた通りエフーはしたからだと思われるでしょう。これは、主なる神様のあわれみです。
 しかし、29節、31節をご覧ください。「ヤロブアムの罪をやめようとはしなかった」「ヤロブアムの罪から離れなかった」と繰り返され、強調されています。エフーは、心を尽くして主に聞き従う道を歩まなかったと言うのです。それぞれ文頭に「ただし、エフーは」「しかし、エフーは」とあります。主の残念な御思いが伝わって来ます。
 「ヤロブアムの罪」とは、何でしょう。T列王12:26〜32を見ると、イスラエルが南北に分かれた時、北イスラエルの王となったヤロブアムは、不安に思い、恐れたことがありました。このままでは、民は事ある毎にエルサレムにある神殿に行くだろう。そうしているうちに民の心は南ユダのレハブアムの元に帰り、自分を殺すだろうと思ったのです。それで、出エジプトの時ように金の子牛を作って、エルサレム神殿の代わりとしたのです。29節。これが主から北イスラエルを引き離す大きな罪となりました。
 エフーにとって、王権が今や偶像となっています。王権が離れるのを恐れたヤロブアムと同じ恐れと不安を抱いて、ベテルとダンにあった金の子牛に仕えることをやめようとはしなかったのです。つまり、本気で偶像を一掃しようとする主のための熱心ではなくて、王権を奪い、自分の王権を確立するための自分の熱心に他ならなかったのです。私たちも、自分の熱心を主のため、誰かのためとしていないでしょうか。
 エフーは、主の命令と自分の政治的な利益が合う時には、主の命令を実行したが、主の命令と自分の政治的な利益が合わない時は、主の命令に従わなかったのです。自分の利益となれば主に従い、そうでなければ世に従ったのです。そんなヤロブアムの罪が、私たちにもないでしょうか。私たちが神に仕えると言いながら、心の中には何があるのでしょうか。自己中心という自我像でしょうか。認められたい思い、自分の栄光ではないですか。そんな自我が御言葉を退けていませんか。
 ヨナダブは、エフー政権確立の第一の功臣です。なのに、彼は栄達を求めず、すぐに自分の故郷に帰ります。エフーに利用されたことが分かったからでしょうか。彼は、主に従うことが第一の信仰だったからです。エレミヤ35:18〜19では、ヨナダブの信仰、生き方が称賛されています。

V−主の熱心によって救われる−イザヤ9:6〜7
 現代の聖徒たちが信仰の力を失うのは、イエス様の名前を呼びながら、その心の中には他のものがいっぱいだからです。天国を言いながら、世をながめているからです。イエス様だけが道であり、真理であり、命だという確信がなくてイエス様を呼ぶから、力がないのです。イエス様が救い主と言いながらも、イエス様を私の人生のすべてと思わないで、常に他のものを求めているのです。本当にイエス様だけが真理だ命だと信じて、依り頼んで行くなら、主の守りと癒し、導きと祝福を確信できます。
 多くの聖徒たちが、自分の心がイエス様だけに向いているかどうかを考えずに、イエス様を呼びます。自分の信仰の実像がどうなのかを考えずに、主の助けを求めます。イエス様が再臨の話をされた時、羊と山羊を分けるように言われます。マタイ25:32〜45。なぜイエス様は羊と山羊を区別されたのでしょう。その善の行いで区別されたのではありません。区別の基準は、信仰です。信仰だけが、裁きを避けることができます。十字架に死なれたイエス様だけが、私たちの唯一の望みです。
 自分の熱心や宗教的行為を信仰だと見てはなりません。心の中に偶像を置いていても、自我が中心でも、いくらでも自分の熱心や宗教的行為は出て来ます。信仰は、イエス様だけが私の望み、命だという思いです。心の中心に自我像や偶像がすわりながら、イエス様をまるで便利なトラブルシューティングのように求めるのですが、確信がありません。信仰に生きるとは、何でしょう。一体、自分の心には何があるのでしょう。エフーだけでなく、私たちも、そのような心から抜け出せずにいるのです。
 エフーは、主を愛する心で主に従ったのではなく、自分が王に立てられた本来の目的を達成するために行ったことでもありません。自分の王権のためでした。私たちも、気付かないで、意識なく、御言葉が自分の願いに合っていることだけ熱心で、自分の都合に合わなければ御言葉を退けています。神の御心や御言葉が原則とならないで、自分の利益になるかどうかが原則となっているからです。これは、信仰の重大な問題です。
 信仰は、自分の熱心を信じるのではなく、主の熱心を、主の愛を信じることです。主の熱心とは何でしょう。イザヤ9:6〜7。主の熱心とは、ご自分の御子を救い主として遣わし、十字架の犠牲でもって自分の民を救い、神の国を立てることです。主なる神様は、イエス様の十字架を通して救いを成し遂げてくださいました。私たちは、心の王座から自我が降りて、イエス様を心の王座に迎えて生きることを願います。私たちの信仰生活、主の熱心がこれを成し遂げてくださいます。ヨハネ14:6。



U列王記10:15 彼がそこを去って行くと、彼を迎えに来たレカブの子ヨナダブに出会った。エフーは彼にあいさつして言った。「私の心があなたの心に結ばれているように、あなたの心もそうですか。」ヨナダブは、「そうです」と答えた。「それなら、こちらに手をよこしなさい。」ヨナダブが手を差し出すと、エフーは彼を戦車の上に引き上げて、
10:16 「私といっしょに来て、私の【主】に対する熱心さを見なさい」と言った。ふたりは、彼の戦車に乗って、
10:17 サマリヤに行った。エフーはアハブに属する者で、サマリヤに残っていた者を皆殺しにし、その一族を根絶やしにした。【主】がエリヤにお告げになったことばのとおりであった。

10:28 このようにして、エフーはバアルをイスラエルから根絶やしにした。
10:29 ただし、エフーは、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪、すなわち、ベテルとダンにあった金の子牛に仕えることをやめようとはしなかった。
10:30 【主】はエフーに仰せられた。「あなたはわたしの見る目にかなったことをよくやり遂げ、アハブの家に対して、わたしが心に定めたことをことごとく行ったので、あなたの子孫は四代目まで、イスラエルの王座に着こう。」
10:31 しかし、エフーは、心を尽くしてイスラエルの神、【主】の律法に歩もうと心がけず、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪から離れなかった。
10:32 そのころ、【主】はイスラエルを少しずつ削り始めておられた。ハザエルがイスラエルの全領土を打ち破ったのである。
10:33 すなわち、ヨルダン川の東側、ガド人、ルベン人、マナセ人のギルアデ全土、つまり、アルノン川のほとりにあるアロエルからギルアデ、バシャンの地方を打ち破った。
10:34 エフーのその他の業績、彼の行ったすべての事、および彼のすべての功績、それはイスラエルの王たちの年代記の書にしるされているではないか。
10:35 エフーは彼の先祖たちとともに眠り、人々は彼をサマリヤに葬った。彼の子エホアハズが代わって王となった。
10:36 エフーがサマリヤでイスラエルの王であった期間は二十八年であった。



ピリピ2:3 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
2:4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

イザヤ9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。

エレミヤ35:18 エレミヤはレカブ人の家の者に言った。「イスラエルの神、万軍の【主】は、こう仰せられる。『あなたがたは、先祖ヨナダブの命令に聞き従い、そのすべての命令を守り、すべて彼があなたがたに命じたとおりに行った。』
35:19 それゆえ、イスラエルの神、万軍の【主】は、こう仰せられる。『レカブの子、ヨナダブには、いつも、わたしの前に立つ人が絶えることはない。』」

ヨハネ14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

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