2020年9月27日「悪習慣から脱する」U列王記13:1〜25

序−人は、知らずに悪習慣に支配されていると、ずっとその負のループから抜け出せず、続けてしまいます。しかし、悪習慣を止めればいいかと言うとそれは難しいのです。ただ止めるのは難しいけれども、別な新しい習慣と代えることができるそうです。今日の箇所から、神の民にとって悪習慣とは何か、その悪習慣からどう脱するのかを学びます。

T−繰り返される悪習慣−1〜9
 悪習慣と言っても、甘い物が止められないとか仕事を先伸ばしにすると言うものではありません。旧約時代の神の民が持っていたものです。1〜7節。北イスラエルの王エホアハズの場合は、主の目の前に悪を行い、ヤロブアムの罪を犯し続けました。2節。そのために、アラムの王の手にイスラエルが渡されました。3節。アラムに虐げられると、王は主に助けを求めました。4節。それで、主は、救いの手を与えてくださいました。5節前半。そして、以前のように自分たちの天幕に住めるようになりました。5節後半。ところが、恵みを受けたにもかかわらず、また罪を犯し、偶像もそのままでした。6節。
 これは、士師記で繰り返されていた神の民の姿でした。@主の前に悪を行う。A患難や敵の襲撃が起こる。B主に懇願する。C助けが与えられ、平安が来る。D=@再び悪を行う。この負のループを繰り返すのです。これは旧約聖書の時ばかりでなく、今日でも、聖徒たちの生活の中で繰り返されていることです。主の前に悪や罪を行うといっても、偶像を拝むというようなことではなく、主を忘れるとか神様に背を向けて、自分勝手に歩むという姿です。これが、聖徒たちにも起こる悪習慣です。
 問題が起こった時は、主に祈り、助けを求めるのですが、助けられ、平安がしばらく続くと、主を忘れ、自分勝手な思いで生きるようになります。そういう中で問題に出会うと信仰的な取り組みができず、酷く落ち込み、悩み、病んでしまいます。落ちこんだり不安になったり、イライラしてストレスが溜まったりします。こうした感情を引きずることで仕事や生活に悪影響を及ぼし、何事もうまくいかない負のループに陥るのです。
 神の民は患難から解放されてしばらくすると、神様の恵みを忘れ、神様から離れてしまったというのです。リバイバルも終わり、偶像崇拝に戻ってしまったのです。イエス様の十字架による救いの素晴らしさ、そこにあらわされた神の愛を真実に理解していないと、聖徒の信仰の復興も長続きしません。しばらく安定すると、世に戻ってしまいます。そして、人生の荒波の中で迷って、苦しんで、どうしようもなくなった時、神様に叫び求め、立ち返って行くという習慣を繰り返して行きます。いや、立ち返って行くのが遅くなって行くことも生じます。人の心の中には、肉の思うままに行きたいという強い欲望があるからです。
 人は習慣的行動に支配されています。それで、悪い習慣も中々変えられないのです。日常的行動は自動的に、無意識にしている行動です。では、意識して悪い習慣を止めればいいのでは。ところが、止めようとしても、難しいと思ってしまいます。なぜでしょう。脳の後帯状皮質は、欲求にとらわれると活性化し、欲求から距離を置くと興奮が収まります。悪い習慣を止めようとすればするほど、後帯状皮質は興奮状態となり、欲求が大きいと錯覚し、行動のコントロールは難しいと思い込んでしまうからです。

U−悪習慣から脱する方法−10〜19
 ですから、悪習慣を断つ方法について、心理学では、簡単に悪い習慣を止めろとは勧めないのです。脳は、止めるのは大変難しいと錯覚しているからです。それよりも新しい習慣と取り替えることを勧めています。それも、正反対の拮抗する習慣です。悪習慣を止めるのではなく、別な習慣と入れ替えることができるというのです。取り替えれば、悪習慣はなくなります。次の箇所で出て来る出来事から、その例を学びます。10〜19節。
 次の王ヨアシュも、主の目の前に悪を行い、ヤロブアムの罪を行い続けました。11節。それでも、預言者エリシャが病気に死にそうだと聞くと、見舞いに来て、泣き伏したというのです。14節。エホアハズ王の時にアラムの攻撃を受け、ヨルダン川の東側の町々を奪い取られ、軍隊は少ししか残っていません。恐れと不安でいっぱいだったヨアシュは、エリシャに向かって助けを求めたのです。
 この時、エリシャは、不思議なことを王にさせています。15〜17節。「弓と矢を取りなさい」と言ったので、彼は弓と矢をエリシャのところに持って行った。15節。「弓に手をかけなさい」と言われたので、彼は弓に手をかけました。16節。「東側の窓をあけなさい」と言われたので、彼が窓をあけ、「矢を射なさい」と言われたので、彼が矢を射ました。17節。エリシャの言うことを聞いて、そのままヨアシュが行うということが繰り返されています。
 これは、何を意味しているのでしょうか。このような従順な姿は、信頼がなくてはできないことです。訳が分からなくても、預言者の言葉通りに動いています。つまり、御言葉に従順であったということです。勝利の道は、御言葉に拠り頼んで行く道です。問題を解決され、祝福を受ける道も、御言葉に従うことです。これによって、悪習慣から脱することができます。御言葉に従順ですか。
 次に求められたのは、言われたままではありません。応用問題です。18〜19節。「矢で地面を打ちなさい」と言うと、彼は三回打ったが、それでやめました。エリシャは彼に向かい怒って「5回、6回と矢を打ったならば、アラムに勝利できただろう。しかし、3度だけアラムを打つことになろう」言うのです。矢で地面を打てと言われて、3回だけ打ったというのは、形式的であるということです。だから、エリシャは怒ったのです。
 説明なしに矢で地を打てという預言者の言葉に、王は誠意をもって従わなかったということです。主の祝福を得る機会を逸しました。17節で、「主の勝利の矢だ。アラムに対する勝利の矢だ」と言われていたのですから、説明がなくても、熱心に何度でも、止めなさいと言われるまでしないでしょうか。情熱を持って誠実に射るべきでした。それでも、3度アラムに勝利する恵みをうけました。25節。主の恵みに情熱と誠実を持って応えることが、悪習慣から私たちを抜け出させてくれます。
 ヨアシュは、エリシャをさがして行って、アラムに勝利する機会を得ました。もしヨアシュがエリシャを探して行かなかったら、その機会はないでしょう。私たちも、主のあわれみと恵みを求めて、主の前に大胆に出るように教えられています。ヘブル4:16。また、礼拝に出れば、祝福を受ける機会となり、信仰の友と交われば、恵みを受ける機会となります。
 こうして、悪習慣から抜け出すには、新しい習慣、すなわち、主を探し求めて、御言葉に対して従順に、誠実に、情熱をもって従っていく習慣を持つことだと示しているのです。

V−繰り返しから脱する保証−20〜25
 この新しい習慣を持つのも難しいでしょうか。主の保証があるからできます。20〜21節を見ると、エリシャが死んでから、モアブの略奪隊がイスラエルに侵入して来ました。その時、不思議なことが起こっています。人を埋葬する者たちが、その略奪隊を見かけたので、恐れて遺体を近くにあったエリシャの墓の中に入れて逃げました。その遺体がエリシャの骨に触れると、その人は生き返り、自分の足で立ち上がったというのです。これは、何を示しているのでしょうか。その骨に触れ、体が生き返ったことを通じて、預言者は死んでも、神の契約は生きている。主は約束を果たされるということを示しています。事実、エリシャの死後、ヨアシュはアラムに勝利しています。25節。
 アラムの虐げと攻撃に苦しんでいるイスラエルの民にとって、希望を持たせる象徴的な事件です。アラムに勝利するというエリシャの預言の約束を確証しているのです。主の約束は、エリシャの死後も働いてアラムの抑圧で苦しんでいる民を回復させることを示唆します。イエス様は、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」と言われました。ヨハネ11:25。このイエス様に出会い、たましいがイエス様に触れるなら、死んでいたたましいが生き返り、約束された恵みを受けるようになります。イエス様の命を受ける者は、新しい命、新しい習慣に生きるようになります。Uコリント5:17。
 23節でも、アラムに虐げられても滅ぼされることはなかった理由は、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約のためと言っています。それゆえに、主は彼らを恵み、あわれみ、顧みてくださったのです。ヨアシュ王は、3度アラムを打ち破って、イスラエルの町々を取り返しました。25節。主は、私たちをも恵み、あわれみ、顧みてくださいます。
 主を信頼して、誠実を尽くし、御言葉に熱心に聞き従うならば、約束通り勝利を得ることができます。私たちがいつでもどんな時でも、イエス・キリストを信じて拠り頼み、御言葉に従順になって歩むという信仰の習慣を持つことで、悪習慣を脱することができます。神様は聖徒たち一人一人と結んでくださった約束も、誠実に守ってくださいます。ローマ8:32。一度イエス様の十字架の犠牲によって救ってくださったならば、問題や患難があったとしても、救いの恵みからもれることはありません。



U列王記13:1 ユダの王アハズヤの子ヨアシュの第二十三年に、エフーの子エホアハズがサマリヤでイスラエルの王となり、十七年間、王であった。
13:2 彼は【主】の目の前に悪を行い、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪を犯し続けて、それをやめなかった。
13:3 それで、【主】の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、【主】は彼らをアラムの王ハザエル、および、ハザエルの子ベン・ハダデの手にいつまでも渡しておられた。
13:4 しかし、エホアハズが【主】に願ったので、【主】はこれを聞き入れられた。アラムの王のしいたげによって、イスラエルがしいたげられているのを見られたからである。
13:5 【主】がイスラエル人にひとりの救い手を与えられたとき、イスラエルの人々はアラムの支配を脱し、以前のように、自分たちの天幕に住むようになった。
13:6 それにもかかわらず、彼らはイスラエルに罪を犯させたヤロブアム家の罪を離れず、なおそれを行い続け、アシェラ像もサマリヤに立ったままであった。
13:7 また、アラムの王が彼らを滅ぼして、打穀のときのちりのようにしたので、エホアハズには騎兵五十、戦車十台、歩兵一万だけの軍隊しか残されていなかった。
13:8 エホアハズのその他の業績、彼の行ったすべての事、およびその功績、それはイスラエルの王たちの年代記の書にしるされているではないか。
13:9 エホアハズは彼の先祖たちとともに眠り、人々は彼をサマリヤに葬った。彼の子ヨアシュが代わって王となった。
13:10 ユダの王ヨアシュの第三十七年に、エホアハズの子ヨアシュがサマリヤでイスラエルの王となり、十六年間、王であった。
13:11 彼は【主】の目の前に悪を行い、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムのすべての罪から離れず、なおそれを行い続けた。
13:12 ヨアシュのその他の業績、彼の行ったすべての事、およびユダの王アマツヤと戦ったその功績、それはイスラエルの王たちの年代記の書にしるされているではないか。
13:13 ヨアシュは彼の先祖たちとともに眠り、ヤロブアムがその王座に着いた。ヨアシュはイスラエルの王たちとともにサマリヤに葬られた。
13:14 エリシャが死の病をわずらっていたときのことである。イスラエルの王ヨアシュは、彼のところに下って行き、彼の上に泣き伏して、「わが父。わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち」と叫んだ。
13:15 エリシャが王に、「弓と矢を取りなさい」と言ったので、彼は弓と矢をエリシャのところに持って行った。
13:16 彼はイスラエルの王に、「弓に手をかけなさい」と言ったので、彼は手をかけた。すると、エリシャは自分の手を王の手の上にのせて、
13:17 「東側の窓をあけなさい」と言ったので、彼がそれをあけると、エリシャはさらに言った。「矢を射なさい。」彼が矢を射ると、エリシャは言った。「【主】の勝利の矢。アラムに対する勝利の矢。あなたはアフェクでアラムを打ち、これを絶ち滅ぼす。」
13:18 ついでエリシャは、「矢を取りなさい」と言った。彼が取ると、エリシャはイスラエルの王に、「それで地面を打ちなさい」と言った。すると彼は三回打ったが、それでやめた。
13:19 神の人は彼に向かい怒って言った。「あなたは、五回、六回、打つべきだった。そうすれば、あなたはアラムを打って、絶ち滅ぼしたことだろう。しかし、今は三度だけアラムを打つことになろう。」
13:20 こうして、エリシャは死んで葬られた。モアブの略奪隊は、年が改まるたびにこの国に侵入していた。
13:21 人々が、ひとりの人を葬ろうとしていたちょうどその時、略奪隊を見たので、その人をエリシャの墓に投げ入れて去って行った。その人がエリシャの骨に触れるや、その人は生き返り、自分の足で立ち上がった。
13:22 アラムの王ハザエルは、エホアハズの生きている間中、イスラエル人をしいたげたが、
13:23 【主】は、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約のために、彼らを恵み、あわれみ、顧みて、彼らを滅ぼし尽くすことは望まず、今日まで彼らから御顔をそむけられなかった。
13:24 アラムの王ハザエルは死に、その子ベン・ハダデが代わって王となった。
13:25 エホアハズの子ヨアシュは、その父エホアハズの手からハザエルが戦い取った町々を、ハザエルの子ベン・ハダデの手から取り返した。すなわち、ヨアシュは三度彼を打ち破って、イスラエルの町々を取り返した。




ヘブル4:16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

ヨハネ11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。

詩篇103:8 【主】は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。

詩篇105:8 主は、ご自分の契約をとこしえに覚えておられる。お命じになったみことばは千代にも及ぶ。
105:9 その契約はアブラハムと結んだもの、イサクへの誓い。
105:10 主はヤコブのためにそれをおきてとして立て、イスラエルに対する永遠の契約とされた。

Uコリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

ローマ8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

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