2020年10月4日「人の評価より主の評価」U列王記14:1〜29

序−誰でも、仕事や生活において人の評価が気になるものです。相手にどう思われているのだろうか、気にしながら行動します。もちろん、人の評価を気にするのは悪いことではなし、励ましにもなるでしょう。しかし、評価が気になり過ぎると、人の評価にふりまわされる人生となります。

T−人の評価を気にして−1〜6
 その例の1つは、アマツヤ王です。その父は神殿修理の業績のゆえに、民の大きな評価を受けましたが、晩年には失政のために民に殺されてしまいました。その父の姿を見ていたアマツヤは、王となってから、民の評価を得るように統治していたようです。1〜6節。主の目にかなうように治め、律法に従いました。神の民の王として、評価を受けることでした。
 ただし、高き所は取り除きませんでした。4節。高き所とは、エルサレム神殿のような罪の認識と悔い改めを伴うものではありません。なぜ、好き勝手な礼拝や偶像礼拝の危険性のある高き所を取り除かなかったのでしょう。高き所を取り除いて、民の反発を受けることを恐れたからです。つまり、民の評価を気にしたからです。
 主の目にかなうように、律法に従うことも民の評価を得るためでしたが、高き所を取り除かなかったのも、民の評価を失わないためでした。民の評価を得て、王権を確立するための政治的なものでした。結局、神の方を向いていたのではなく、民の方を向いていたのです。良いことも悪いことも民の評価を得るため、何事も民の評価を気にしてのことでした。
 無理もないことです。父ヨアシュ王が、ソロモン王以来の神殿大修理を成し遂げ、神の民の大きな評価を受けたことを見て来ました。にもかかわらず、敗戦と神殿の財宝を失うという大失敗のために民心を失い、殺されてしまったからです。それを見ながら育ったアマツヤ王にとって、民の評価が人生を左右するものとなっていました。
 心理学が言うように、人の評価を求める、つまり承認欲求は、人間の5つの基本的欲求の1つでもあります。人は、子ども時代親の評価を受けられたか受けられなかったによって、人生に大きく影響を与えるそうです。大人になっても仕事や家庭において、周りの人からどう評価されているかが気になってしまうのです。とりわけ、仕事の現場において人の評価が気になります。評価を受ければ、気持ちよく仕事ができ、昇進もします。しかし、評価を受けられなければ、日常的に否定され、責められることもあります。無視され、干され、罵声をあびることさえあります。そうした扱いが続くと、心身ともに病んでしまいます。
 人は、どうしても、他の人の評価が気になります。どのように見られているのだろうか、嫌われていないだろうか、期待に応えられているだろうかと常に思い、過剰に気にしてしまうのです。子どもの頃から成績や行動の評価があり、人間関係に翻弄され、否が応でも人の評価を気にせずにはいられません。評価によって自分が受け入れられるかどうかが決まるというのが、社会の決まりでもあるかのように思い込むようになります。
 そして、周りの期待に応えようと頑張り、自分は認められていると思うと、もっと評価されるために無理に頑張ったり、過剰に突っ走ったりするようにもなります。アマツヤ王の姿に見ることができます。

U−さらに評価を得るために−8〜22
 民の評価を得て王権が確立して行くと、もっと評価を得ようと、民の目を引くための外征をすることになります。7節。民の評価を得ようと戦争までしたのです。この時、U歴代25:6によれば、大金を払って、北イスラエルから10万人も傭兵を集めました。それまでして、エドムを征服しようとしたのです。実際には、預言者の助言を聞いて傭兵を帰したのですが、民のさらなる評価を得ようと、外征を無理やり行ったということです。このことが、後の悲劇の原因となります。
 社会では、仕事での評価を得ようと励み、人に認められようと懸命に頑張ります。功を奏して成果を上げ、評価を受けると、さらなる評価を得ようとするあまり、無理をして心身を壊したり、無理な仕事回しをしたり、不正まですることがあります。承認欲求は、エスカレートすると、止め処がなくなります。「いいね!」欲求がエスカレートし、「いいね」の数が気になり、異常な行動に走る人々もいます。他人承認の基準は、明確ではなく、流動的です。他人承認に偏重することは、精神的不安定をもたらすことになります。自由と多様性を追い求めながらも、他人や周りからの承認という呪縛で雁字搦めになっているのが、現代社会の姿です。
 アマツヤ王は、大勝利してエドムを征服して帰って来ることになります。外征による大勝利は、民の高い評価を得、人気を博したことでしょうが、戦いに参加できなかった傭兵たちは、憤慨して、ユダの町々を襲い、大勢の人を殺し、略奪をしました。U歴代25:13。エドム征服戦争に勝利して評価を受けたアマツヤは、このために、イスラエルに戦争を仕掛けます。9節。元々ユダの属国であった小国エドムとは違い、ユダよりはるかに強く大きな北イスラエルです。なのに、なぜ戦おうとするのでしょう。エドムに勝利した結果生じた高慢、高ぶりのためです。10節。
 まったく評価されず、否定され、責められたりすれば、劣等感にさいなまれ、意気消沈して病んでしまいますが、評価を気にしている人が高い評価を受け、成功するならば、舞い上がって高慢にもなります。他の人々に対して劣等感を覚えている人が、ある人に対しては高慢になるということもあります。評価を受ければ、どうしても高慢になってしまうのです。
 結局、無謀な戦争をしかけたアマツヤは、北イスラエルに敗れて、捕虜となり、エルサレムは破壊され、宮と王宮の宝物はすべて奪われました。11〜14節。父ヨアシュの姿を見て、民の評価を気にして来た王だったのに、高慢のゆえに同じ失敗をしました。民の心はアマツヤから離れ、民の評価を失った王は、やがて謀反によって殺されてしまいます。19節。父と同じく悲惨な最期でした。
 評価を受けても、高ぶることなく、謙遜でありたいものです。上に立つ者に聖書の教える基本は、仕えることです。救い主が、かえって仕える姿をとって来られたからです。マルコ10:43〜45。その究極的な姿が、私たちの罪の身代わりであるイエス様の十字架です。

V−主の評価を思って、主の前に生きる−23〜29
 もう一人の王は、北イスラエル王ヤロブアムです。23節。北イスラエルを始めたヤロブアムと同じ名前です。名前の通り、主の前に悪を行い、ナバテの子ヤロブアムの罪をやめませんでした。24節。初代のヤロブアムは、民がエルサレム神殿に行ってユダに戻ることがないように、代わりに民が求める金の子牛を作って、それを拝ませました。民の評価を恐れ、民の評価を得ようとしたからです。ヤロブアムも初代と同じことをしたということは、同じく民の評価を気にしてのことです。
 ですから、ヤロブアム王もまた、アマツヤ王のように、民の評価を得ようと外征を行いました。イスラエルを虐げ、何度も攻撃していたアラムを支配するようになりました。25節。南ユダ王国と合わせて、ダビデ、ソロモン時代の領土に匹敵するものとなりました。評価を気にする者が成功し高い評価を得れば、高慢になります。ヤロブアムは、高ぶり、悪を行いました。心が整っていないものが権力を握れば、権力を振り回すようになるからです。パワハラの上司は、このタイプなのでしょう。
 世界史的には、アッシリア帝国の勃興により、アラムは弱体化し、ダマスコまで破壊されたので、ヤロブアムがアラムを支配できるようになりました。それよりも、聖書は、主がアラムに虐げられていたイスラエルの悩みが非常に激しいのをあわれんで、ヤロブアムによって民を救ってくださったと教えています。26〜27節。アマツヤ王も、主の約束によってエドムに勝利しました。U歴代25:9。主に対する感謝を忘れてはなりません。
 それなのに、「私の力がこれをした」と感謝を忘れて言うのです。申命記8:17〜18。ヤロブアムの死後30年、アッシリア帝国によってサマリヤは破壊され、民は捕囚としてどこかに連れ去られてしまいます。アマツヤ王も、エドムから偶像を持ち帰って、拝んだので、主の戒めを受けましたが、聞き入れず、結局悲惨な最期となりました。U歴代25:14〜16。
 心理学者アドラーは、「あなたを嫌うかどうかはあなたの問題ではなく他人の問題である。だからあなたにはどうすることも出来ない。他人に自分の評価を変えるよう働きかけるのは間違ったアプローチ」だと言っています。そして、「人からどう思われるかなんて関係ない、ありのままのあなたでいいのだよ」と気づかせてくれるのです。この勇気がある人は、誰からもほめられず認められなくても、自分が人に貢献できていることそのものに満足すると言うのです。
 結局、2人の王は、人の評価ばかり求めて、主の評価を考えませんでした。そこが問題でした。そうです。私たちは主の前に生きる者です。主に喜ばれることを求めます。Uコリント5:9。主なる神様は、ご自分の御子を十字架に渡されるほど私たちを愛してくださり、「あなたは高価で尊い」とおっしゃってくださる方です。イザヤ43:4。人の評価を気にする私たちをも顧みて、助けてくださる方です。主の評価を求めて、「コラム・デオ」主の前に生きる者となることを願います。使徒24:16。



招詞Tサムエル16:7 交読申命記8:16〜19

U列王記14:1 イスラエルの王エホアハズの子ヨアシュの第二年に、ユダの王ヨアシュの子アマツヤが王となった。
14:2 彼は二十五歳で王となり、エルサレムで二十九年間、王であった。彼の母の名はエホアダンといい、エルサレムの出であった。
14:3 彼は【主】の目にかなうことを行ったが、彼の父祖、ダビデのようではなく、すべて父ヨアシュが行ったとおりを行った。
14:4 ただし、高き所は取り除かなかった。民はなおも、その高き所でいけにえをささげたり、香をたいたりしていた。
14:5 王国が彼の手によって強くなると、彼は自分の父、王を打った家来たちを打ち殺した。
14:6 しかし、その殺害者の子どもたちは殺さなかった。モーセの律法の書にしるされているところによったのである。【主】はこう命じておられた。「父親が子どものために殺されてはならない。子どもが父親のために殺されてはならない。人が殺されるのは、ただ、自分の罪のためにでなければならない。」
14:7 アマツヤは塩の谷で一万人のエドム人を打ち殺し、セラを取り、その所をヨクテエルと呼んだ。今日もそうである。
14:8 そのとき、アマツヤは、エフーの子エホアハズの子、イスラエルの王ヨアシュに、使者を送って言った。「さあ、勝敗を決めようではないか。」
14:9 すると、イスラエルの王ヨアシュは、ユダの王アマツヤに使者を送って言った。「レバノンのあざみが、レバノンの杉に使者を送って、『あなたの娘を私の息子の嫁にくれないか』と言ったが、レバノンの野の獣が通り過ぎて、そのあざみを踏みにじった。
14:10 あなたは、エドムを打ちに打って、それであなたの心は高ぶっている。誇ってもよいが、自分の家にとどまっていなさい。なぜ、争いをしかけてわざわいを求め、あなたもユダも共に倒れようとするのか。」
14:11 しかし、アマツヤが聞き入れなかったので、イスラエルの王ヨアシュは攻め上った。それで彼とユダの王アマツヤは、ユダのベテ・シェメシュで対戦したが、
14:12 ユダはイスラエルに打ち負かされ、おのおの自分の天幕に逃げ帰った。
14:13 イスラエルの王ヨアシュは、アハズヤの子ヨアシュの子、ユダの王アマツヤを、ベテ・シェメシュで捕らえ、エルサレムに来て、エルサレムの城壁をエフライムの門から隅の門まで、四百キュビトにわたって打ちこわした。
14:14 彼は、【主】の宮と王宮の宝物倉にあったすべての金と銀、およびすべての器具、それに人質を取って、サマリヤに帰った。

14:23 ユダの王ヨアシュの子アマツヤの第十五年に、イスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムが王となり、サマリヤで四十一年間、王であった。
14:24 彼は【主】の目の前に悪を行い、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムのすべての罪をやめなかった。
14:25 彼は、レボ・ハマテからアラバの海までイスラエルの領土を回復した。それは、イスラエルの神、【主】が、そのしもべ、ガテ・ヘフェルの出の預言者アミタイの子ヨナを通して仰せられたことばのとおりであった。
14:26 【主】がイスラエルの悩みが非常に激しいのを見られたからである。そこには、奴隷も自由の者もいなくなり、イスラエルを助ける者もいなかった。
14:27 【主】はイスラエルの名を天の下から消し去ろうとは言っておられなかった。それで、ヨアシュの子ヤロブアムによって彼らを救われたのである。



申命記8:17 あなたは心のうちで、「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ」と言わないように気をつけなさい。
8:18 あなたの神、【主】を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである。

Uコリント5:9 そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。

使徒24:16 そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。

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