2020年10月18日「主の救済のしるし」U列王記16:1〜20

序−列王記は、王様たちの記録ですが、自分の人生の歩み、あなたの生き方が記録されているとしたら、どうでしょう。実は、「いのちの書」というものがあり、記されていると聖書は教えています。黙示録3:5,イザヤ4:3。考えて見れば、自分が関わる人々にも、記憶という形で記録されているのではないでしょうか。そうなると、人ごとのように王たちの記録を読むわけにはいきません。

T−自己の判断より主の判断−1〜5
 今日の箇所は、珍しく悪い王様の記録です。1〜4節。聖書は、王の業績が立派かどうかではなく、信仰的に正しい歩みをしたか、そうでなかったかで記されています。彼の父ヨタム王は、主の目にかなう歩みをしたのに、アハズ王は主の目にかなうことを行いませんでした。それどころか、周囲の国の忌みきらうべきならわしをまねて、国中に偶像崇拝を広め、子どもの人身御供までしました。どうして、こんなことをしたのでしょう。
 この頃ユダは、国力が下火になって来た時代です。若くして王となり不安だったのでしょうか。それで、周りの国の忌みきらうべき慣わしをまねたのかもしれません。でも、その結果、どうなりましたか。5〜6節。アラムと北イスラエルの連合軍がユダを攻めて来ました。南の貿易港エラテも奪われたことは、経済力の低下を意味します。U歴代28:5〜8を見ると、被害は大きく、ユダ王国は危機に瀕したのです。王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺したと記録されています。イザヤ7:2。
 私たちも、仕事や生活の現場で困難な出来事が起これば、風で揺らぐ木の葉のように動揺するでしょう。不安や恐れが起こるでしょう。そこで問題となるのは、困難な出来事が起こったことではなく、人は動揺すると判断力が歪むということです。より悲観的否定的になるのです。私たちにも、そういうことがないでしょうか。しかし、主は、連合軍を二つの木切れの煙る燃えさしに過ぎないと見ておられます。イザヤ7:4。これが、主の判断です。しかし、アハズ王には、木切れの燃えさしが大木に見えたのです。動揺すると、認知の歪みが起きます。
 事実、5節をよく見てください。連合軍はエルサレムを包囲したが、勝つことができなかったとあります。そうなのです。敵は勝てなかったのです。主を信頼し、主に拠り頼む者には、主の判断が与えられます。ですから、主を思う者は、この場合、被害は大きかったが、私たちは負けなかった、私たちは守られたというのです。さらに、北イスラエルに連れて行かれたユダの捕虜も、ほどなく帰されました。U歴代28:9〜15。これが、主の救済でした。主が見捨てておられなかったからです。主を信頼する者は、北イスラエルに悔い改めの気持ちを与え、帰すようにしてくださった主の守りを知るようになります。
 私たちが列王記を学ぶのは、歴史の勉強のためではありません。信仰について学ぶためです。私たちが信仰者としてどのように人生を生きるかを教えてくれるのです。その具体的な例として、王たちの記録があるのです。しっかり私たち自身への適用を学び取りましょう。

U−自己救済法5〜20
 この2国だけでなく、他の周囲の国々も、弱みに付け込んで来ます。6節。アラムの攻撃でエラテを失うとそこに南のエドムが住み着きました。エドムは、ユダを攻撃して捕虜を連れ去り、西のペリシテがユダから土地を奪い取りました。U歴代28:17〜18。四面楚歌という状態です。アハズ王は、助けを求めて預言者イザヤに会いました。そして、アラムと北イスラエルは、アハズを倒して、別な傀儡の王を立てると脅かしていましたが、主は、そんなことは起こらないと教えてくださいました。イザヤ7:5〜7。
 ところが、彼は、主の言葉を信頼しません。預言者に聞きに来たのに、奇妙なことです。期待した答えではなかったからでしょうか。王は、敵はエルサレムを包囲しただけで帰ったのに、脅かしを真に受けて、もう自分が倒されて、王朝が終わりだと思い込みました。そして、心は嵐の木々のように揺れ動いたのです。私たちも、仕事や家庭のことで問題が起こり、心が大きく揺れ動いたら、どうしようかと必死に考えるでしょう。
 その時、聖徒たちにも奇妙なことが起こることがあります。信じているのに、神様に頼らないという現象です。そうなると、何を頼るのでしょうか。自分の知恵や力でしょう。つまり、世の知恵や人の力を頼るでしょう。また、お金や薬、偶像や占いにまで頼る人もいるでしょう。
 アハズ王はどうしたのでしょう。偶像や世の忌むべき慣わしは頼りになりませんでした。アハズ王にも、為政者としての知恵がありました。王の救済策は、北方の大国アッシリヤ帝国を頼みとすることでした。7〜9節。遠交近攻というのでしょうか。この策は功を奏し、アッシリヤ帝国は、アハズの願いを聞き入れて、ダマスコに攻め取り、アラム王を殺し、住民を捕囚にしたのです。確かに、危機は脱しました。
 でも、本当に知恵ある策だと言えるのでしょうか。実は、アラム征服の機会を求めていたアッシリヤは、ユダの願いに応じたかのように見せながら、アラムを攻め滅ぼしました。ユダを助けるつもりなどないことが、後に分かることになります。もし、私たちが策を考えて、表面上うまくいったように見えるとしたら、どうでしょう。自分の策を過信しますか。でも、本当にそれでよいのだろうか、本当にうまく行ったのだろうかと主の前に思い巡らさなければなりません。
 聖書は、人は自分の計画が良いと思っても、主に委ねなさい。その計画を確かなものにされるのは主なる神なのだからと教えています。箴言16:3,9。知恵を使って考えることは大事です。仕事のことでも、家族の問題でも、自分の知恵と知識を用いて考え、計画するでしょう。しかし、主の前に生きる者は、人としての限界も足りなさもわきまえています。策を立てたら、主に委ねて、導きを求めるのです。それが、聖徒の姿です。
 アハズ王の態度を見てください。「私はあなたのしもべであり、あなたの子です。どうか私を救ってください」と言って、金銀の宝物を送り、助けを求めています。7節。こうして、ユダは自らアッシリヤ帝国の属国となります。属国は属国としての姿勢をとらなければなりません。10節以下は、戦勝の祝いとお礼のために、アッシリヤ帝国の王に会いに行ったことから起こったことの記録です。アハズ王は、アッシリヤ帝国の偶像の祭壇を見て、その通りにエルサレムにも作らせます。アッシリヤ帝国に対する忠誠心をあらわすためでしょう。結局、主の宮は改造され、目茶苦茶にされました。これが、自己救済法の結果です。

V−主の救済法−イザヤ7:11〜14、Tコリント4:8〜11
 アハズ王の姿は、イエス様を信じる聖徒たちが主に拠り頼む必要があるのに、他に頼ることの弊害がどれほどであるかを見せています。アハズが連合軍に攻められて、預言者イザヤに助けを求めた時、大丈夫だから、落ち着いて、静かにしていなさい、恐れてはならないと主の言葉を受けました。イザヤ7:4。そう言われたって、患難の中では静かにしていられません。恐れや不安で動揺してしまうと反応するでしょう。私たちも、そうではないですか。心配して騒いで、恐れて右往左往してしまうでしょう。
 ですから、主は、しるしを与えると言われました。イザヤ7:10〜14。そのしるしとは、「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと名づける」というのです。これは、イエス様のことです。マタイ1:22〜23。インマヌエルとは、「神は私たちとともにおられる」という意味です。イエス様を信じる者にとって、これほど確かなことはないでしょう。イザヤ41:10。主は、わたしはあなたとともにいる。だから恐れるな、たじろぐな、あなたを助け、守ると約束されました。
 天地万物を創造し統べ治めておられる主が、御子イエス・キリストを十字架の犠牲に渡されるほど私を愛してくださっておられます。ヨハネ3:16。イエス様を自分の救い主と信じた者は、罪赦され、天国への命を与えられています。エペソ1:7。神の子どもとされています。ヨハネ1:12。子どもなら親の愛や守りを一身に受けることができます。まさに特権です。私たちのためにご自分の御子を十字架に渡された主が、守りや恵みをくださらないわけがないというのです。ローマ8:34。これが、主の救済法です。罪と滅びからたましいを救済してくださるばかりでなく、人生における様々な問題の中にあっても救済してくださるのです。
 ユダは、大きな被害にあっても、負けなかったのです。滅びていません。ここにも、主の救済があります。問題が起こらないのではなく、問題は起こっても守られたということです。苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれますが、行きづまることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。イエス様に救われて、命を得ているからです。Uコリント4:8〜11。
 自分の銀行口座に多額の入金があったのに、それを知らずに貧しい生活をする人にならないようにという言い方があります。奇妙なことに、聖徒が患難に出会っているのに、主に頼らないというのです。救われた者として主の守りと導きを受けられるという恵みを忘れて、口座が空のような貧しい生活をするのです。私たちは、救われた者としてどんな時でも主を信頼し、拠り頼んで生きた人生だったと記録されることを願います。



U列王記16:1 レマルヤの子ペカの第十七年に、ユダの王ヨタムの子アハズが王となった。
16:2 アハズは二十歳で王となり、エルサレムで十六年間、王であった。彼はその父祖ダビデとは違って、彼の神、【主】の目にかなうことを行わず、
16:3 イスラエルの王たちの道に歩み、【主】がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の、忌みきらうべきならわしをまねて、自分の子どもに火の中をくぐらせることまでした。
16:4 さらに彼は、高き所、丘の上、青々と茂ったすべての木の下で、いけにえをささげ、香をたいた。
16:5 このとき、アラムの王レツィンと、イスラエルの王レマルヤの子ペカが、エルサレムに戦いに上って来てアハズを包囲したが、戦いに勝つことはできなかった。
16:6 そのころ、アラムの王レツィンはエラテをアラムに取り返し、ユダ人をエラテから追い払った。ところが、エドム人がエラテに来て、そこに住みついた。今日もそのままである。
16:7 アハズは使者たちをアッシリヤの王ティグラテ・ピレセルに遣わして言った。「私はあなたのしもべであり、あなたの子です。どうか上って来て、私を攻めているアラムの王とイスラエルの王の手から私を救ってください。」
16:8 アハズが【主】の宮と王宮の宝物倉にある銀と金を取り出して、それを贈り物として、アッシリヤの王に送ったので、
16:9 アッシリヤの王は彼の願いを聞き入れた。そこでアッシリヤの王はダマスコに攻め上り、これを取り、その住民をキルへ捕らえ移した。彼はレツィンを殺した。
16:10 アハズ王がアッシリヤの王ティグラテ・ピレセルに会うためダマスコに行ったとき、ダマスコにある祭壇を見た。すると、アハズ王は、詳細な作り方のついた、祭壇の図面とその模型を、祭司ウリヤに送った。
16:11 祭司ウリヤは、アハズ王がダマスコから送ったものそっくりの祭壇を築いた。祭司ウリヤは、アハズ王がダマスコから帰って来るまでに、そのようにした。
16:12 王はダマスコから帰って来た。その祭壇を見て、王は祭壇に近づき、その上でいけにえをささげた。
16:13 彼は全焼のいけにえと、穀物のささげ物とを焼いて煙にし、注ぎのささげ物を注ぎ、自分のための和解のいけにえの血をこの祭壇の上に振りかけた。
16:14 【主】の前にあった青銅の祭壇は、神殿の前から、すなわち、この祭壇と【主】の神殿との間から持って来て、この祭壇の北側に据えた。
16:15 それから、アハズ王は祭司ウリヤに命じて言った。「朝の全焼のいけにえと夕方の穀物のささげ物、また、王の全焼のいけにえと穀物のささげ物、すべてのこの国の人々の全焼のいけにえとその穀物のささげ物、ならびにこれらに添える注ぎのささげ物を、この大祭壇の上で焼いて煙にしなさい。また全焼のいけにえの血と、他のいけにえの血はすべて、この祭壇の上に振りかけなければならない。青銅の祭壇は、私が伺いを立てるためである。」
16:16 祭司ウリヤは、すべてアハズ王が命じたとおりに行った。
16:17 アハズ王は、車輪つきの台の鏡板を切り離し、その台の上から洗盤をはずし、またその下にある青銅の牛の上から海も降ろして、それを敷石の上に置いた。
16:18 彼は宮の中に造られていた安息日用のおおいのある道も、外側の王の出入口も、アッシリヤの王のために【主】の宮から取り除いた。
16:19 アハズの行ったその他の業績、それはユダの王たちの年代記の書にしるされているではないか。
16:20 アハズは彼の先祖たちとともに眠り、先祖たちとともにダビデの町に葬られた。彼の子ヒゼキヤが代わって王となった。



イザヤ7:1 ウジヤの子のヨタムの子、ユダの王アハズの時のこと、アラムの王レツィンと、イスラエルの王レマルヤの子ペカが、エルサレムに上って来てこれを攻めたが、戦いに勝てなかった。
7:2 ところが、「エフライムにアラムがとどまった」という報告がダビデの家に告げられた。すると、王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した。
7:3 そこで【主】はイザヤに仰せられた。「あなたとあなたの子シェアル・ヤシュブとは出かけて行って、布さらしの野への大路のそばにある上の池の水道の端でアハズに会い、
7:4 そこで彼に言え。気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。あなたは、これら二つの木切れの煙る燃えさし、レツィンすなわちアラムとレマルヤの子との燃える怒りに、心を弱らせてはなりません。

イザヤ7:10 【主】は再び、アハズに告げてこう仰せられた。
7:11 「あなたの神、【主】から、しるしを求めよ。よみの深み、あるいは、上の高いところから。」
7:12 するとアハズは言った。「私は求めません。【主】を試みません。」
7:13 そこでイザヤは言った。「さあ、聞け。ダビデの家よ。あなたがたは、人々を煩わすのは小さなこととし、私の神までも煩わすのか。
7:14 それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。

箴言16:3 あなたのしようとすることを【主】にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。
16:9 人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは【主】である。

マタイ1:22 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。
1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

イザヤ41:10 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。

ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

ヨハネ1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

Uコリント4:8 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。
4:9 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
4:10 いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。
4:11 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。





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