2020年10月25日 「うなじのこわい民」 Ⅱ列王記17:1~41

 序-あなたも日常生活において偶像崇拝していると言われたら、木や石でできた像なんて拝んではいないと答えるでしょう。私たちは、十字架のイエス様をしっかり握っていないと、主なる神様を頼るのではなく、目に見える他のものをたよるようになります。そして、心の中に偶像を作ってしまうのです。

Ⅰ-滅亡したイスラエル-1~6
 今日の個所は、北イスラエルの滅亡に関するところです。最後の王は、ホセアです。1~2節。主の目の前に悪を行ったが、以前のイスラエルの王たちのようではなかったというのは、政治的なことで翻弄され、積極的に偶像崇拝をしていなかったようです。国を取り巻く情勢が緊迫化し、国力の整備や国際関係をどうするか、頭が一杯になっていたのです。とは言え、現実問題に信仰的に取り組んでいたわけではありません。主に拠り頼んだのでもありません。
 どうして、ホセア王の時に滅亡に至ることになったのでしょうか。3~6節。ホセア王は、アッシリヤの王の攻撃を受けると、貢物を納めて従うようになります。しかし、エジプトと同盟を結ぶ方がよいように思えたので、アッシリヤへの貢物をやめて、エジプトと同盟を結びました。当然、アッシリヤは、裏切った北イスラエルを攻撃し、3年間サマリヤを包囲した後、これを滅ぼしました。人々は、アッシリヤの別の土地に捕囚となりました。エジプトは助けになりませんでした。
 ホセア王の立場になって考えてみてください。アッシリヤとエジプトという2大強国に挟まれている現実で、どう対処すればよいのでしょう。どちらかに付かなければなりません。どちらを選んだら有利になるか、助かるのか、滅亡するのか、切羽詰まっての選択でした。私たちがおかれている生活の現場でも、問題が多く起こるでしょう。仕事の問題、夫婦の問題、家計や子どもの教育の問題においても、選択を迫られることがあります。どう対処しますか。何か忘れていませんか。主は、あなたのことを心配してくださいます。重荷を委ねよとおっしゃっておられます。詩篇55:22。
 ホセアには、他に選択の余地がなかったのでしょうか。どうして、主に、拠り頼まなかったのでしょうか。ホセアにとって、強大な帝国が偶像になっていたのです。私たちは、どうでしょう。生活の現場で直面している問題について、信仰によって対処しているのでしょうか。世の習慣や知恵によって、私たちなりのアッシリヤやエジプトを選択していることはないでしょうか。ホセアにとって、主はわが力、わが救いとはならず、アッシリヤやエジプトを頼ったのです。私たちは、生活の現場で、直面する問題において、主はわが力、わが巌、わが盾となっているでしょうか。詩篇18:1~2。そういう御言葉が恵みとなり、感動的に聞こえていますか。
 目の前にある現実の問題に振り回され、解決を迫られると、目に見えない精神的な問題に心が向かなくなります。精神的な問題に心が向かないと、イエス様の救い、神の愛と力にも関心が向かなくなるでしょう。実は、聖徒たちにとって、教会のことだけが信仰の問題ではなく、すべてのことに信仰が関わっており、すべてが信仰でもって取り組むべき問題です。今、自分が取り組んでいる問題について、信仰的に対処しているか点検してみましょう。その問題にもイエス様が必要です。緊急な問題であれば、緊急に主の前に出て、主はわが力、わが巌としなければなりません。
 何か自分の中で、これは自分の力と世の論理で対処して、これは信仰でと分けていないでしょうか。困難な問題であればなおのこと、そんな中でもかかわらず、私は主に拠り頼むと確認しましょう。すべての問題にイエス様にともに取り組んでいただきましょう。

Ⅱ-うなじのこわい者-7~23
 
7節以下には、北イスラエルが滅亡した理由が記録されています。外交政策の失敗とかではなく、信仰上の理由がありました。7~23節。異邦人の忌むべき慣わしを真似て、偶像崇拝をして来たからです。偶像に仕えてきたことが、滅亡の理由でした。偶像は何が問題なのか、私たちにとって偶像とは何なのかについて、この所からしっかり学び、適用を受けましょう。木や石で造られた像を拝まないからと言って、偶像問題と無関係だとは言えないからです。
 イスラエルにとって最も大きな出来事は、出エジプトです。7節。出エジプトの時、神に会うために上った山からモーセが降りて来ないので、不安になった民は、金の子牛を作って、主に仕えようとしました。出32:1~4。鋳物の子牛をもって、「これがあなた方をエジプトから連れ上ったあなたの神だ」と言うのですが、主はこれを斥けられました。この間違いから逃れることができず、その後、偶像崇拝が続いていくことになります。
 これについて主の言われることに、偶像崇拝がなぜ危険なのか、信仰者を駄目にするのか、重要なことが示されています。出32:8~9。主は彼らのしたことについて、「わたしが彼らに命じた道からはずれ、自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み」と言われました。そうです。それは、「自分たちのために」作ったのです。それを自分たちの神としたのです。主なる神を自分のための神とした、ここに偶像問題の本質があります。「うなじのこわい」とは、頑固、頑なだということです。頑なな者は、自己中心になって、神を自分が作ってしまうのです。うなじのこわい民は、頑なに主に聞き従わないのです。13~14節。
 神を自分が作った神としている者は、偶像を作るようになります。必ずしも形ある像を作らなくても、心の中に偶像を作るのです。自分のための神とは、自分の願う通りに叶えてくれる神、自分の役に立つ神です。自分の言うことを常に聞いてくれる神です。ご利益信仰ですね。そうすると、ご利益をいただくためには、何かしなければならない、懸命に拝んで、して、喜んでもらわなくてはならないということになります。目に見える偶像を作り、色々なものをささげ、仕えることにします。
 これが、現代の聖徒たちも知らずに陥る姿です。自分にとっての金の子牛を作っているのです。聖書を懸命に学び、奉仕をすることで神に喜んでいただき、願いを聞いてもらおうとします。こうして、ご利益信仰の罠にはまるのです。神様は私たちに罪がないから救ってくださったのですか。イエス様は私たちが真面目だから身代わりに十字架にかかってくださったのですか。私たちがまだ罪びとであったとき、
キリストが私たちのために死んでくださいました。ここに神の愛があります。ローマ5:8。
 18~19節を見ると、北イスラエルは滅んだけれども、南ユダ王国だけは残されたとありますが。南ユダもまた、主の命令を守らず、偶像に仕え、悪しき慣わしを真似て歩みました。残されたのは、人間の行為とは無関係に、神様の約束があったからです。Ⅱサムエル7:11~12。主は、その約束を忠実に果たされ、ついに救い主イエス・キリストを世に遣わしてくださいました。私たちは、イエス様の十字架の前で自分の神を作りつづけることができるのですか。私の救いのために主はご自分の御子を十字架に渡されたという救いの恵みを信じるなら、私は主のものですと告白します。詩篇100:3。自分のために神が存在しているのではなく、神の栄光のために自分が存在していることを意識して生きるのです。イザヤ43:7。
 
Ⅲ-主を礼拝しながら、偶像に仕えた-24~41
 
イスラエル人がアッシリヤの地に捕囚となった後、サマリヤ地域には、アッシリヤからほかの民族が連れて来られました。24節。異邦人がサマリヤに住み始めた時、住民が獅子に襲われる事件が起きました。住民は恐れてアッシリヤ王に報告すると、捕らえ移したイスラエルの祭司を送って、主を礼拝する仕方を教えさせたと言います。25~28節。では彼らは神の民になったのかと言うと、そうではありません。33節。主を礼拝しながら。同時に自分たちの慣わしに従って偶像を拝み続けました。41節。
 主なる神を礼拝しながら、自分の偶像に仕えるという姿、主なる神を信じながら、様々な偶像も取り入れた神の民と何ら変わりはありません。言ってみれば、現代日本で生きる聖徒たちの多くは、はじめは偶像の中で生きて来た者です。サマリヤに来た人々のように、クリスチャンとなって主なる神を礼拝するようになっても、それまで見聞きして来た偶像に心を向けたり、心に偶像を抱く危険が大いにあります。そうなっていることに気づかないかもしれません。ただ主なる神だけに拠り頼みます。
 5つのソラという宗教改革から言い習わされて来た大事な信仰の教理があります。ソラとは、「ただそれのみ」、「ただそれだけ」という意味です。「聖書のみ、信仰のみ、恵みのみ、キリストのみ、神の栄光のみ」の5つです。救いはただ神の恵みによるもので、罪びとたる人によりなされるものではなく、ただキリストによる神からの賜物なのです。
 35節以下で、エジプトから導き出してくださった主の恵みを忘れないで、主だけを恐れて生きなさい、そうすれば敵から救われると約束されています。35~39節。聖徒たちは、イエス様の十字架によって罪から救われた人です。イエス様の流された血によって罪赦され、滅びから解放されたことを信じて感謝する人です。その恵みを忘れてどのように歩めるのでしょうか。イエス様の十字架上で起こった、その驚くべき救いの御業を覚えて、愛と恵みに感謝しながら生きるものとなることを願います。






Ⅱ列王記17:1 ユダの王アハズの第十二年に、、エラの子ホセアがサマリヤでイスラエルの王となり、九年間、王であった。
17:2 彼は【主】の目の前に悪を行ったが、彼以前のイスラエルの王たちのようではなかった。
17:3 アッシリヤの王シャルマヌエセルが攻め上って来た。そのとき、ホセアは彼に服従して、みつぎものを納めた。
17:4 しかし、アッシリヤの王はホセアの謀反に気がついた。ホセアがエジプトの王ソに使者たちを遣わし、アッシリヤの王には年々のみつぎものを納めなかったからである。それで、アッシリヤの王は彼を逮捕して牢獄につないだ。
17:5 アッシリヤの王はこの国全土に攻め上り、サマリヤに攻め上って、三年間これを包囲した。
17:6 ホセアの第九年に、アッシリヤの王はサマリヤを取り、イスラエル人をアッシリヤに捕らえ移し、彼らをハラフと、ハボル、すなわちゴザンの川のほとり、メディヤの町々に住ませた。
17:7 こうなったのは、イスラエルの人々が、彼らをエジプトの地から連れ上り、エジプトの王パロの支配下から解放した彼らの神、【主】に対して罪を犯し、ほかの神々を恐れ、
17:8 【
主】がイスラエルの人々の前から追い払われた異邦人の風習、イスラエルの王たちが取り入れた風習に従って歩んだからである。
17:9 イスラエルの人々は、彼らの神、主に対して、正しくないことをひそかに行ない、見張りのやぐらから城壁のある町に至るまで、すべての町々に高き所を建て、
17:10 すべての小高い丘の上や、青々と茂ったどの木下にも石の柱やアシュラ像を立て、
17:11 【主】が彼らの前から移された異邦人のように、すべての高き所で香をたき、悪事を行なって【主】の怒りを引き起こした。
17:12 【主】が彼らに、「このようなことをしてはならない」と命じておられたのに、彼らは偶像に仕えたのである。

17:13 【主】はすべての預言者とすべての先見者を通して、イスラエルとユダとに次のように警告して仰せられた。「あなたがたは悪の道から立ち返れ。わたしがあなたがたの先祖たちに命じ、また、わたしのしもべである預言者たちを通して、あなたがたに伝えた律法全体に従って、わたしの命令とおきてとを守れ。」
17:14 しかし、彼らはこれを聞き入れず、彼らの神、【主】を信じなかった彼らの先祖たちよりも、うなじのこわい者となった。
17:15 彼らは主のおきてと、彼らの先祖たちと結ばれた主の契約と、彼らに与えられた主の警告とをさげすみ、むなしいものに従って歩んだので、自分たちもむなしいものとなり、【主】が、ならってはならないと命じられた周囲の異邦人にならって歩んだ。
17:16 
また、彼らの神、【主】のすべての命令を捨て、自分たちのために、鋳物の像、二頭の子牛の像を造り、さらに、アシェラ像を造り、天の万象を拝み、バアルに仕えた。
17:17 また、自分たちの息子や娘たちに火の中をくぐらせ、占いをし、まじないをし、裏切って【主】の目の前に悪を行ない、主の怒りを引き起こした。
17:18 そこで、【主】はイスラエルに対して激しく怒り、彼らを御前から取り除いた。ただユダの部族だけしか残されなかった。
17:19 
ユダもまた、彼らの神、【主】の命令を守らず、イスラエルが取り入れた風習に従って歩んだ。
17:20 そこで、【主】はイスラエルのすべての子孫をさげすみ、彼らを苦しめ、略奪者たちの手に渡し、ついに彼らを御前から投げ捨てられた。
17:21 主がイスラエルをダビデの家から引き裂かれたとき、彼らはネバテの子ヤロブアムを王としたが、
ヤロブアムは、イスラエルを【主】に従わないようにしむけ、彼らに大きな罪を犯させた。
17:22 イスラエルの人々は、ヤロブアムの犯したすべての罪に歩み、それをやめなかったので、
17:23 ついに、【主】は、そのしもべであるすべての預言者を通して告げられたとおり、イスラエルを御前から取り除かれた。こうして、イスラエルは自分の土地からアッシリヤへ引いて行かれた。今日もそのままである。




詩篇55:22 あなたの重荷を【主】にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。

詩篇18:1 彼はこう言った。主、わが力。私は、あなたを慕います。
18:2 【主】はわが
巌、わがとで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。

出32:3 そこで、民はみな、その耳にある金の耳輪をはずして、アロンのところに持ってきた。
32:4 彼がそれを、彼らの手から受け取り、のみで型を造り、鋳物の子牛にした。彼らは、「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ」と言った。

32:8 彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道からはずれ、自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえをささげ、『イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ』と言っている。」
32:9 【主】はまた、モーセに仰せられた。「わたしはこの民を見た。これは、実にうなじのこわい民だ。

ローマ5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

詩篇100:3 知れ。【主】こそ神。私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。

イザヤ43:7 わたしの名で呼ばれるすべての者は、私の栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。 





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