2020年11月1日「何に拠り頼んでいるのか」U列王記18:1〜37

序−真面目に生きれば損をする、頑張ったって報われない、一生懸命している人がばかを見る、真面目に仕事をすれば他の人の分まですることになるなどと呟き、そんな理不尽に痛む人は多いです。まして、それが嘲られ、批判されるとなれば、辛くなります。私たちも経験することです。どう考えたら、いいのでしょうか。素晴らしい信仰に生きた王様の姿から学びましょう。

T−真面目、頑張り、一生懸命−1〜8
 その王様は、ヒゼキヤ王です。1〜2節。真面目、頑張り、一生懸命は超のつく人でした。お母さんは、預言者ゼカリヤの娘でした。父アハズ王は、邪悪な王様でしたが、母や祖父から御言葉を教えられ、信仰で生きる王様となりました。3〜5節。主の目にかなう歩みをした王様はこれまでもいましたが、彼のあとにも彼の先にも、彼ほどの者はだれもいなかったというほど、信仰で一生懸命に国を治めました。
 これまでのユダの王様は、偶像を取り除いても、民の反発を恐れて、保身のために高き所を取り除きませんでしたが、ヒゼキヤは取り除きました。もっと特筆すべきは、モーセの作った青銅の蛇を取り除いたことです。裁きから蛇に噛まれた人々を助けるために、モーセが青銅の蛇を作って木につけて、悔い改めてそれを見ることで癒されました。民数記21:5〜9。しかし、その後人々は青銅の蛇に何か霊力があるかのように拝んでいました。7百年続けられて来たことを止めさせたのです。難しい課題に対して、ヒゼキヤは恐れないで、真面目に取り組みました。
 さらには、大国アッシリヤに服従することなく、あちこちに出陣しては勝利を収め、国を安定させました。本当に王様として頑張りました。真面目に信仰に生き、一生懸命に国を治めて、頑張って民を守った王様でした。主に堅くすがって離れることがなかったというほど、主とともに生きた信仰の人でした。
 現代の聖徒たちも、ヒゼキヤ王のように、真面目に信仰に生き、仕事も頑張り、何事にも一生懸命やるでしょう。私たちも、それなりに熱心に信仰生活をし、与えられたことを頑張ってしているでしょう。そのように生きれば、当然神様の恵みを期待します。働きは報われるはずだと考えます。確かに、頑張りが報われ、主の恵みを感じることもあります。でも、そうばかりではないのです。
 ヒゼキヤ王の場合、民の反発はなく、王に従っていました。外征も勝利して、主がともにおられること、主の恵みと守りを感じていたでしょう。しかし、それはずっとは続きませんでした。

U−損をする、報われない、ばかを見る−9〜18
 アッシリヤが、ユダ王国を攻めて来ました。13節。その記録の前に、北イスラエルがアッシリヤによって征服され、サマリヤも陥落して、住民も捕囚として連れ去られたことが挿入されています。9〜12節。ユダよりも大きくて強かった北イスラエルの滅亡を見ていたので、実際にアッシリヤが、ユダ王国を攻めて来た時、その恐れはとても大きかったに違いありません。どうして真面目に信仰で治めて来たのに、こんな目に会うのか、頑張って来たのは報われないのかと嘆いたことでしょう。
 その反応を見てください。14〜16節。北イスラエルが滅んで7年後、アッシリヤがユダのすべての城壁のある町を攻め取りました。恐れたヒゼキヤは、アッシリヤの王セナケリブに使者を遣わして、従わなかった私が悪かったです。要求されるものは何でも差し出しますから、ユダから引き揚げてくださいと嘆願するのです。実際に、多くの金銀を与え、主の宮の銀まですべて渡しました。
 これまでのヒゼキヤとまったく違います。歴代の王ができなかった改革を行い、後にも先にも彼ほど信仰的な王はいなかったと言われたあのヒゼキヤの姿は、ここにありません。アッシリヤ王の前に卑屈になった惨めな姿です。こんなヒゼキヤを見て、失望しますか。私たちには、できません。私たちも、患難に会えば、恐れ、不安になります。失敗し、挫折すれば、失望落胆し、惨めな姿になります。
 北イスラエルのように、ヒゼキヤが何か悪いことをしたのですか。12節。その反対です。信仰で一生懸命に国を治め、難しい課題に対しても真面目に取り組み、頑張りました。私たちも、真面目に信仰に生きて、仕事も頑張っているのに、報われず、失敗し、結果が出ない時もあり、他の人に評価されるのです。真面目に生きれば損をする、頑張ったって報われない、一生懸命している人がばかを見るなどという思いが生じて来るでしょう。熱心に信仰しているのに、恵みも祝福もないと思うでしょう。
 ヒゼキヤの姿は、私たちの姿を映し出しています。世の中で生きている私たちの弱い姿なのです。この時、ヒゼキヤは、アッシリヤの圧倒的な力の前に卑屈にならざるをえませんでした。ユダの町々が攻め取られて、恐れと不安のあまり、主に拠り頼むことを考えませんでした。ヒゼキヤは、勘違いしていました。いつしか自分の力でユダを治めて来た、自分の頑張りが国を守って来たと思い、主がこの国を治めている、主が私を助けてくださったということを忘れていたのです。
 私たちも、熱心に信仰で生きて、頑張って仕事をし、真面目に一生懸命やって、家庭や仕事が守られ、仕事が順調に進むと、自分の頑張りでそうなったと思い、神様の守りや恵みを忘れてしまいます。神様が見ておられ、評価してくださるのだから、人の評価がなくても大丈夫とはならなくなります。頑張ってやっても評価されず、仕事は増えるばかり、真面目に信仰に生きても報われないじゃないかと思うのです。
 世のあれこれを恐れる私たちに対して、イエス様は、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません」と言われました。マタイ10:28。私たちの人生は主の御手にあることを覚え、主に拠り頼むべきですが、そうできない私たちを主は見捨てないで、教えてくださいます。王はアッシリヤを恐れ、その力に拠り頼んだのですが、それは頼むに値しないものであることが分かります。17節。要求通り金銀を渡したのに、アッシリヤは大軍をもって攻めて来たからです。私たちにも、問題や事件を通して、拠り頼むべきは、世の何かはなく、自分の頑張りでもなく、イエス様の十字架であることを悟らせてくださいます。

V−嘲り、惑わし、揺さぶり−18〜31
 大軍でエルサレムを取り囲んだアッシリヤ軍から、ラブ・シャケという称号を持つ高官が出てきて、ユダの高官たちにアッシリヤ王の言葉を伝えます。19〜35節。聖徒たち自身が苦難の中で、熱心に信仰で生きて、頑張って仕事をしても報われないじゃないかと思うだけでなく、世の人々の嘲りの声が、聖徒たちを攻め、惑わし、揺さぶります。
 ラブ・シャケの伝えるアッシリヤ王の言葉は、人の心理を知り尽くした巧みな表現となっています。その嘲りの目的は、まったく神は助けにならない、ヒゼキヤを信用するなと言い、民を主から、信仰から離反させることでした。22,25,30節。問題を通して私たちを惑わし、試みるサタンの目的も、私たちをイエス様から、信仰から離すことです。
 21節では、エジプトを拠り頼むならば、ナイル川にはえている葦のように、それはいたんだ葦の杖だ、寄りかかる者の手を刺し通すだけだと嘲ります。確かにエジプトは、いたんだ葦です。実際に頼りになりませんでした。この時のエジプトとは、聖徒たちにとっては世のことです。はたして、自分は何に拠り頼んでいるのだろうかと点検させられます。自分のエジプトという世の何かより頼むのではなく、主なる神に拠り頼みます。
 聖徒たちが自分の現状に不満や戸惑いを持っているならば、世の嘲りに惑わされ、揺さぶられてしまうでしょう。面白いことに、ユダの高官がラブ・シャケに「ユダのことばで話さないでください」と頼むのですが、ラブ・シャケは「ユダの王や高官にではなく、ユダの民に話しているのだ」と言ってユダのことばを続けます。26〜29節。ここにラブ・シャケの狙いがあります。不安や恐れを抱きながら聞いている民の心を揺さぶり、惑わし、降参させることが目的なのです
 このような声は、サタンの声です。私たちの信仰を嘲り、惑わし、揺さぶるサタンの声が人々からも聞こえて来ます。どう対処しますか。民の応答を見ましょう。36節。民は黙っており、彼に一言も答えませんでした。ヒゼキヤが「彼に答えるな」と命令していたからです。へたに答えれば、向こうの思う壺です。不満や批判が吹き出るかもしれません。イエス様も、裁判で人々が偽証する中で黙って、答えませんでした。マタイ26:62〜63。
 「おまえは何に拠り頼んでいるのか、だれに拠り頼んでいるのか」という問いかけが繰り返されています。19〜22,30節。嘲りの言葉ですが、それを通して聞く者の心に主が問いかけておられます。あなたは何に拠り頼んでいるのですか。「人間は考える葦である」と言った数学、物理学者パスカルは、信仰者でした。私たちは弱い葦のような存在ですが、主に拠り頼むならば、どれほど確かな人生を歩めることでしょうか。私たちの救い主イエス様は、問題や困難のために心痛め、望みを失っている人々に対して、「いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」お方です。イザヤ42:3。主に拠り頼みながら懸命に信仰に生きて、働きます。



U列王記18:1 イスラエルの王エラの子ホセアの第三年に、ユダの王アハズの子ヒゼキヤが王となった。
18:2 彼は二十五歳で王となり、エルサレムで二十九年間、王であった。彼の母の名はアビといい、ゼカリヤの娘であった。
18:3 彼はすべて父祖ダビデが行ったとおりに、【主】の目にかなうことを行った。
18:4 彼は高き所を取り除き、石の柱を打ちこわし、アシェラ像を切り倒し、モーセの作った青銅の蛇を打ち砕いた。そのころまでイスラエル人は、これに香をたいていたからである。これはネフシュタンと呼ばれていた。
18:5 彼はイスラエルの神、【主】に信頼していた。彼のあとにも彼の先にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。
18:6 彼は【主】に堅くすがって離れることなく、【主】がモーセに命じられた命令を守った。
18:7 【主】は彼とともにおられた。彼はどこへ出陣しても勝利を収めた。彼はアッシリヤの王に反逆し、彼に仕えなかった。
18:8 彼はペリシテ人を打ってガザにまで至り、見張りのやぐらから城壁のある町に至るその領土を打ち破った。

18:13 ヒゼキヤ王の第十四年に、アッシリヤの王セナケリブが、ユダのすべての城壁のある町々を攻めて、これを取った。
18:14 そこでユダの王ヒゼキヤはラキシュのアッシリヤの王のところに人をやって、言った。「私は罪を犯しました。私のところから引き揚げてください。あなたが私に課せられるものは何でも負いますから。」そこで、アッシリヤの王は銀三百タラントと、金三十タラントを、ユダの王ヒゼキヤに要求した。
18:15 ヒゼキヤは【主】の宮と王宮の宝物倉にある銀を全部渡した。
18:16 そのとき、ヒゼキヤは、ユダの王が金を張りつけた【主】の本堂のとびらと柱から金をはぎ取り、これをアッシリヤの王に渡した。
18:17 アッシリヤの王は、タルタン、ラブ・サリス、およびラブ・シャケに大軍をつけて、ラキシュからエルサレムのヒゼキヤ王のところに送った。彼らはエルサレムに上って来た。彼らはエルサレムに上って来たとき、布さらしの野への大路にある上の池の水道のそばに立った。
18:18 彼らが王に呼びかけたので、ヒルキヤの子である宮内長官エルヤキム、書記シェブナ、アサフの子である参議ヨアフが、彼らのもとに出て行った。
18:19 ラブ・シャケは彼らに言った。「ヒゼキヤに伝えよ。大王、アッシリヤの王がこう言っておられる。いったい、おまえは何に拠り頼んでいるのか。
18:20 口先だけのことばが、戦略であり戦力だと思い込んでいるのか。今、おまえはだれに拠り頼んで私に反逆するのか。
18:21 今、おまえは、あのいたんだ葦の杖、エジプトに拠り頼んでいるが、これは、それに寄りかかる者の手を刺し通すだけだ。エジプトの王、パロは、すべて彼に拠り頼む者にそうするのだ。

18:26 ヒルキヤの子エルヤキムとシェブナとヨアフとは、ラブ・シャケに言った。「どうかしもべたちには、アラム語で話してください。われわれはアラム語がわかりますから。城壁の上にいる民の聞いている所では、われわれにユダのことばで話さないでください。」
18:27 すると、ラブ・シャケは彼らに言った。「私の主君がこれらのことを告げに私を遣わされたのは、おまえの主君や、おまえのためだろうか。むしろ、城壁の上にすわっている者たちのためではないか。彼らはおまえたちといっしょに、自分の糞を食らい、自分の尿を飲むようになるのだ。」
18:28 こうして、ラブ・シャケはつっ立って、ユダのことばで大声に呼ばわって、語って言った。「大王、アッシリヤの王のことばを聞け。
18:29 王はこう言われる。ヒゼキヤにごまかされるな。あれはおまえたちを私の手から救い出すことはできない。

18:36 民は黙っており、彼に一言も答えなかった。「彼に答えるな」というのが、王の命令だったからである。



ヨハネ3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。

マタイ10:28 からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

イザヤ42:3 彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。

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