2020年11月8日「授かりもの、預かりもの」Tサムエル1:10〜28

序−昔から「子どもは天からの授かりもの」と言われて来ましたが、放棄や虐待など最近子育ての問題が多くなるにつれて、そうではなく、「子どもは預かりもの」という言葉が使われるようになりました。どちらも聖書的だなと思います。今日の箇所に登場する母ハンナの姿を通して、子どもについて大切な観点を学びましょう。

T−祈りによって授かった子ども−10〜18,20,27
 詩篇127:3に「子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である」ように、神様が与えてくださる子供は、神が私たちに与えてくださる祝福です。子供は、神が私たちの家庭に与えられる最高の贈り物です。まさに授かりものです。ハンナは、子どもがいなかったので、心が痛み、泣きながら主に祈りました。10〜11節。ハンナの祈りの特徴は、「神が子どもを授けてくださる」こと、「与えられた子どもを主にささげる」こと、「神のものとして子どもを育てる」ことです。
 まず、子どもは神が授けてくださるもの、神の所有と考えていることです。どうも、社会で人々が子どもは天からの授かりものと言っていても、与えられた後は、自分のものという思いしかないようです。自分のものということなので、自分の思いで子どもを育てようとし、自分の期待を押し付けるようになります。ひどくなれば、放棄したり、虐待したりするようになります。子どもは授かりものという認識はないと、いつしか子どもは荷物、負担に思うからです。心の病気にもなります。
 子どもは天からの授かりものとは、まさに聖書的な表現です。11節。ハンナは、はっきりと祈りに応えて、神様がその子を授けてくださったと告白しています。27節。子どもは、神様から私たちに与えられた契約の子です。創世記17:7。生命の神秘を思ったら、子どもは神様からの授かりものだと思わざるをえません。神様から与えられたならば、元々神のものです。神の子どもという認識が必要です。ハンナは、その子を自分の子どもだと思う前に、神様の子だと認めていたのです。20節。私たちも、神の前に謙遜になって、子どもを神から授けられた神の子と覚えます。この思いを持つだけでも、私たちは子どもに対する思いが大きく変えられるでしょう。
 ハンナは、祈りを通して子どもを与えられました。12〜16節。その祈りの様子は、母は凄いな、偉大だなと思います。子どものためには必死に切実に祈るのです。主なる神をどれほど信頼して祈っていることでしょうか。ハンナは信じて祈りました。ハンナは祈りの応答を信じて、祈った後平安になりました。17〜18節。親は子どものために必死に祈ります。主を信頼して祈るなら、心が落ち着き、平安が与えます。
 ハンナは、子どもが与えられるためにだけに祈ったのではありません。祈りの中で与えられたのですから、息子サムエルのために生涯祈り続けました。私たちも、子どものために祈ることが必要です。子どものために祈る親は、霊的なことについて考えるようになります。子どもの肉的な期待を持つよりも、霊的な期待を持つようになります。子どものために祈る親を子どもが知るなら、親の深い愛情を感じるようになります。そういう子どもは、親の言葉より親の責任ある行動からより深く影響を受けます。親の信仰的行動、勤勉な生活、愛のこもった世話を通して、言葉以上のものを受けることになります。祈りは、言葉ではなく、実践です。

U−神にささげて、委ねる−11, 27〜28
 ハンナの祈り第二の特徴は、授けられたその子の生涯を主なる神にささげることです。祈って約束した通り、ハンナは、与えられた子を主に渡しました。27〜28節。子どもを主にささげるということは、主に委ねるということです。主は、私たちに子どもたちを授けられましたが、私たちは、自分のものとするのではなく、主にささげる思いが必要です。
 これは、容易なことではありません。子どもを神にささげる、委ねるというのは、親が子どもを自分のものと思って、子供の生涯を自分の欲を満たす手段とするようなことはしないということです。親が、世的な自慢のために、子供の生涯をコントロールしようとします。人の評価や名誉、お金や地位などのために子供を育てれば、その子の人生は親の栄光と欲に利用されたものとなるでしょう。子どもを育てるのに、自分の思い通りにやろうとします。うまく行きません。
 私たちは、ハンナのように神様が与えられた子供について、その子の生涯を神にささげるように最善を尽くして行くのです。アデル・フェイバという教育学者は、「多くの子供たちが親の脅迫に対して、しばらくの間は少し変化したりするが、すぐに古い習慣に戻っていく。そして、彼らの心の中に、親への不信感を持つようになる」と言っています。最近の本でも、「子どもが聞いてくれる話し方と子どもが話してくれる聴き方」が必要だと教えています。子どもに必要なのは気持ちを分かってあげることと、気持ちの整理をちょっとだけ手伝うことなのです。
 人が、世に生まれて来て世において生きることは容易なことではありません。様々な問題が起こります。幾多の苦難と試練が待ち受けています。本当に子どもたちを神様に委ねることがなかったら、平安ではいられません。自分の力で育てると考えるととても、大変なことになります。自分にはできない、無理だという思いも起こって来ます。多くのお母さんが育児ノイローゼに陥ります。確かに子育ては大変です。物理的な労苦ばかりでなく、精神的な労苦も多いからです。
 子どもを育てながらも、主にささげる思いをもって養育するということです。子どもは自分のもの、自分の力で育てるという思いではなく、子どもは神からの預けられたものです。神が預けてくださったのですから、主が助けてくださいます。
 子どもは、主からの預けられたものです。子どもはお荷物や負担のものではなく、神からの祝福であると信じてください。イエス様も、子どもたちを祝福してくださり、天国はこのような者たちのものですと言われました。マルコ10:14。神から与えられた子どもは、神の愛と親の愛を受けて育つのです。どんなにか幸いな子どもでしょうか。
 主にその子をささげたというのは、その子を神の御手に委ねるという信仰告白です。自分の力ではなく、神が責任を負ってくださることを信じて、平安を与えられるのです。もちろん、私たちの責任もあります。私たちは、しっかり管理をよくするのです。祈りながら神に委ねてください。

V−神の人として御言葉で育てる−11, 25〜28
 第三の特徴は、神の人として御言葉で育てるということです。11節のその子の頭にかみそりをあてませんとは、ナジル人として育てるという意味です。ナジル人は、主なる神のものと聖別され、区別された人を意味します。つまり、ハンナは、神が子供を与えてくだされば、その子を生涯神の人として育てると約束しました。幼児洗礼の意味は、子どもを神にささげ、信仰によって養育するという親の信仰告白です。
 ハンナは、サムエルを主の宮に連れて来て、祭司にその子を渡しました。24〜28節。それは、私たちにすれば、教会に連れて来て、礼拝生活をすることであり、御言葉で養育するということです。連れて行ったのは乳離れした時とありますが、3、4歳だそうです。もうその頃から御言葉による信仰の養育が始まったということです。三つ子の魂百までもですね。
 子どもは、親の価値観を受け継ぎます。聖書は、母の信仰が子どもに伝わって行くことを証ししています。Uテモテ1:5。信仰は伝わるものです。特に母親を通して伝えられます。テモテの場合、祖母ロイスから母ユニケに伝えられ、母ユニケからテモテに伝えられました。子どもにとって母の影響は、とても大きいのです。
 宮で育てられるということは、人々とともに礼拝し、人々の信仰する姿を通して信仰を学ぶということです。子どもは環境の子と言われます。幼児の時から一緒に神を礼拝し、御言葉に聞き従って生きる人々を見ることは、他では体験することはできません。当時は、士師時代の終わり頃、社会が混乱していた時代です。現代社会でも、世にあふれる罪の環境の中だけで育つとしたら、子どもはどんな影響を受けることでしょう。
 聖徒たちが実際に子どもを育てる時、信仰的でない時、反抗する時期もあるでしょう。有名な教父アウグスティヌスは、若い時放蕩三昧をしていました。涙で祈っていた母モニカは、有名なアンブロシウズ司教に相談すると、「このような涙の子が滅びるはずはありません」と祝福しました。アウグスティヌスは母の涙の祈りによって回心し、キリスト教の歴史に最も偉大な足跡を残す学者となりました。
 モニカのように子どもが主から離れるような時、諦めないで涙の祈りをささげて、神に委ねてください。何もない状態で、祈りながら夢を育ててきたハンナに、サムエルという偉大な預言者が与えられました。たとえ、欠けや弱さがあったとしても、父母の祈りを通して奇跡の子が育つことを期待しましょう。私たちは、神が授けられ、預けられた子どもを育てるのです。こんなに素晴らしい仕事はありません。ハンナもモニカも、信仰の母として模範を見せてくれました。これが大きかったのです。子どもは親にならうものです。私たちは、子や孫のために、自分自身が真実に信仰に生きて、模範となるように生きることを願います。Tコリント11:1。



Tサムエル1:10 ハンナの心は痛んでいた。彼女は【主】に祈って、激しく泣いた。
1:11 そして誓願を立てて言った。「万軍の【主】よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を【主】におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」
1:12 ハンナが【主】の前で長く祈っている間、エリはその口もとを見守っていた。
1:13 ハンナは心のうちで祈っていたので、くちびるが動くだけで、その声は聞こえなかった。それでエリは彼女が酔っているのではないかと思った。
1:14 エリは彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。」
1:15 ハンナは答えて言った。「いいえ、祭司さま。私は心に悩みのある女でございます。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は【主】の前に、私の心を注ぎ出していたのです。
1:16 このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私はつのる憂いといらだちのため、今まで祈っていたのです。」
1:17 エリは答えて言った。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」
1:18 彼女は、「はしためが、あなたのご好意にあずかることができますように」と言った。それからこの女は帰って食事をした。彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。
1:19 翌朝早く、彼らは【主】の前で礼拝をし、ラマにある自分たちの家へ帰って行った。エルカナは自分の妻ハンナを知った。【主】は彼女を心に留められた。
1:20 日が改まって、ハンナはみごもり、男の子を産んだ。そして「私がこの子を【主】に願ったから」と言って、その名をサムエルと呼んだ。
1:21 夫のエルカナは、家族そろって、年ごとのいけにえを【主】にささげ、自分の誓願を果たすために上って行こうとしたが、
1:22 ハンナは夫に、「この子が乳離れし、私がこの子を連れて行き、この子が【主】の御顔を拝し、いつまでも、そこにとどまるようになるまでは」と言って、上って行かなかった。
1:23 夫のエルカナは彼女に言った。「あなたの良いと思うようにしなさい。この子が乳離れするまで待ちなさい。ただ、【主】のおことばのとおりになるように。」こうしてこの女は、とどまって、その子が乳離れするまで乳を飲ませた。
1:24 その子が乳離れしたとき、彼女は雄牛三頭、小麦粉一エパ、ぶどう酒の皮袋一つを携え、その子を連れ上り、シロの【主】の宮に連れて行った。その子は幼かった。
1:25 彼らは、雄牛一頭をほふり、その子をエリのところに連れて行った。
1:26 ハンナは言った。「おお、祭司さま。あなたは生きておられます。祭司さま。私はかつて、ここのあなたのそばに立って、【主】に祈った女でございます。
1:27 この子のために、私は祈ったのです。【主】は私がお願いしたとおり、私の願いをかなえてくださいました。
1:28 それで私もまた、この子を【主】にお渡しいたします。この子は一生涯、【主】に渡されたものです。」こうして彼らはそこで【主】を礼拝した。



詩篇127:3 見よ。子どもたちは【主】の賜物、胎の実は報酬である。

創世記17:7 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。

マルコ10:14 イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。

Uテモテ1:5 私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。

Tコリント11:1 私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。

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