2020年11月15日「ヒゼキヤの祈り」U列王記19:1〜37

序−人は何かの責任を負っているものです。責任とは、心身のエネルギーを必要とします。元気な時、うまく行っている時は負えるのですが、責任が重く感じられたり、責任を問われたりする時もあります。そうすれば、とても苦しく、辛くなり、病気にもなります。そんな時どうすればいいのか、責任の負担と重荷の中でどう生きるか、ヒゼキヤの祈りから学びます。

T−負担感と自責感の中で主の宮へ−1〜7
 ヒゼキヤがまさに、そのような状態にありました。18章を見れば、アッシリヤ帝国が攻めて来ました。屈辱的にひれ伏して、神殿の金まで剥がして納めました。エジプトも引き入れようとしました。できることはやりました。でも失敗し、効果はありませんでした。アッシリヤはユダの町々を攻め取り、エルサレムを取り囲み、嘲り、降伏を迫ります。特に、ヒゼキヤを責め、民にヒゼキヤを信用するなと繰り返したのです。18:29〜31。責任を重く感じ、責任を追及される圧迫と恐れを感じました。
 ヒゼキヤは、国の安全と繁栄を保つのが王の役目、責任だと思いました。ユダとエルサレムがこのような状態になったことについて、王としての自分の不甲斐なさを責め、対応の失敗を悔やんだのです。このような王の心を表した言葉が、「苦難と、懲らしめと、侮辱の日です。子どもが生まれようとするのに、それを産み出す力がないのです」という表現です。3節。心身のエネルギーが低下し、自信をなくし、無力感で一杯になりました。
 現代社会でも、会社での仕事はもちろん、家庭や地域、学校でも、人は様々な責任を担います。頑張っても結果が出ない、失敗したりすれば、うまくいかないのは、すべて自分がダメなせいだという無力感でいっぱいになります。周りの期待通りできなかった場合、自分が至らなかったのだという自責感にさいなまれることになります。そうして、心の病気になります。このような場合、自分の責任を現実以上にふくらませ、抱え込んでしまうことが多いのです。私たちも、そんなことがなかったでしょうか。
 この時、ヒゼキヤは、どうしたのでしょう。自分の衣を裂き、荒布を身にまとって、主の宮に入りました。1節。この姿は、大きな悲しみとへりくだりをあらわしています。そして、預言者イザヤに祈りの応援を要請しています。2〜4節。この時は、自分には祈りの力もないと思っていたかもしれませんが、それでも、とにかく主に心を向け、主に拠り頼んだのです。このように祈ってくれという内容は、自分の限界を覚えて、主を信頼して、主の助けを期待したのです。
 これが、主の民の王としての責任です。確かに王の責任は、国の安全と繁栄を保つことですが、最終的には主のなさることであり、王はそのために用いられるに過ぎません。ヒゼキヤ王の責任は、主に拠り頼むこと、なすべきことをしたら、主に委ね、期待することなのです。ヒゼキヤの主の民の王としての責任は、そういう主に拠り頼んでいる姿を見せることです。でも、圧迫と恐れと絶望に陥り、自責感、無力感でいっぱいになっていたヒゼキヤは、本当の自分の責任を忘れていたのです。自分が何とかしなければならない、自分が責任をとらなくてはならないという考えにとらわれていたのです。私たちは、どうでしょうか。
 聖徒たちも、問題が起こった時、自分がしなければと考えて、悩み、落胆するのです。そうではなくて、最善を尽くしたら、後は神様が責任を取ってくださるとゆだねるのです。イエス様を信じて救われた私は、主のもの、主の民、その牧場の羊であるということを忘れてはなりません。詩篇100:3。主が私の責任をとってくださるということを信じるのです。主は、祈りに応答してくださいました。6〜7節。恐れないようにと言い、アッシリヤを退かせ、その王も倒れると約束してくださいました。

U−主の前で手紙を広げて祈る−8〜19
 しかし、情勢が急変します。8〜9節。クシュの王ティルハカがついに動き出したという情報を得ました。ナイル川上流地域のヌビヤ人が、エジプトまで支配したブラックファラオと呼ばれるヌビヤ王朝のエジプトです。アッシリヤは、エジプト軍に集中するためには、エルサレムをすぐに征服させなければなりません。そこで、セナケリブ王は、ヒゼキヤに手紙を送って、降伏を迫ります。10〜12節。
 セナケリブの手紙は、アッシリヤから救い出されるというお前たちの神に騙されるな。他の国々は滅ぼされたではないか。それらの国々の神々は、助けにならなかったではないか、王たちは滅びたではないかというのです。この手紙は、ヒゼキヤ王へのあざけりと脅かしに満ちています。神様への信頼からヒゼキヤを引き離し、目の前の困難で絶望させようとするのです。篭城しているヒゼキヤにとって、エジプト軍の接近を知る由もありません。
 降伏を迫る文書を受け取ったヒゼキヤは、どうしたのでしょう。14〜20節。「主の宮に上って行って、それを主の前に広げて」祈りました。主の前に大胆に出ています。ヘブル4:16。私たちが悲しみ、苦しむ時すべきことは、「あわれみを受け、助けを受けるために、大胆に恵みの御座」に出ることです。切実に主に祈るのです。
 ヒゼキヤ王にとって、神様はとても実際的なお方です。「敵はこんな手紙を書いて来ました。こんなにひどく嘲り、侮辱しています」と神様に訴えています。実に生き生きとした信仰です。詩篇3:1〜4。王にとって、神様は目の前におられて、生きておられるお方、自分の訴えを聞いて、手紙を読んで、応えてくださるお方なのです。私たちにとって、主なる神は、このように生きておられる方ですか。
 私たちは、ヒゼキヤの祈りから学ばなければなりません。その特徴は、苦難をなくしてくれ、こうしてくれという祈りばかりではないということです。何よりも神様が私のすべてのことを見て、私の訴えを聞いておられる方だと確信しています。14節。自分の信じている神は、天地を造られ、統べ治めておられる主だと告白しています。15節。そして、神様の栄光のために私たちを勝たせてください、と祈っています。19節。このような祈りをされていますか。
 もう、ここには、圧迫と恐れと絶望に陥り、自責感、無力感でいっぱいになっていたヒゼキヤの姿はありません。誰しも、状況によっては責任に押しつぶされそうになります。しかし、神様が責任を取ってくださる、元々自分にできることは限られている、自分にできることに集中し、後は主に委ねようとするのです。そうすれば、状況に翻弄されず、しっかり働くことができます。自らの限界を知るということこそ、責任を過剰に抱え込みすぎないポイントだと心理の専門家は教えています。

V−主の熱心がこれをする−20〜37
 ヒゼキヤの祈りに主からの応答が来ました。20〜34節。韻を含んだ詩篇のような表現です。要するに、アッシリヤは滅びる、エルサレムは助けられると約束されました。しかし、現実にはアッシリヤに攻められ、脅かされています。主の言葉は、信仰なくては受け入れられません。アッシリヤは誰に対してそしり、ののしっているのか。主に対してだと言ってくださいました。自分がそしられ、ののしられていると思っていたヒゼキヤにとって、どれほど慰めになり、励まされたことでしょう。
 何と、次の日人々が起きて見ると、アッシリヤ軍は死体となって横たわっていました。アッシリヤの王セナケリブは立ち去り、帰ってニネベに住みました。そして、ニネベで偶像の宮にいる時、息子たちの謀反によって、殺されてしまいます。35〜37節。これは、世界史の事件として記録されていることです。こうして、エルサレムは助け出されました。このように歴史を主管される神が私たちを守ってくださるのです。
 ヒゼキヤは何もしていません。主の宮で祈っていただけです。自分の責任だ、自分の力で何とかしなければと思っても、何もできませんでした。ただ、限界を知り、主に拠り頼み、祈って主に委ねたのです。31節を見てください。大事なことは、「万軍の主の熱心がこれをした」ということです。また、34節で「わたしのために、わたしのしもべダビデのために」とあるのも、主がご自分の契約を守られるということです。だから、主の熱心が救い出してくださるということです。
 このような聖書の鮮やかな恵みは、私たちにも及びます。主なる神の行われることは、この時も今も変わることはありません。では、なぜこのような鮮やかな恵みを経験できないのでしょう。ヒゼキヤのような切実な信仰、あのように主に切実に祈る姿がないからです。これまでのように世の価値観や方法で生きて行くのではなく、主を求めて拠り頼んで行く切実さを私たちも持ちたいのです。
 神の熱心と契約の完成がイエス様の十字架です。主は、イエス様の十字架の御業を通して、人々を救い出してくださいます。イエス様が私たちの罪と滅びの身代わりに十字架に渡されたことが、まさに主の熱心によることでした。十字架の犠牲は、イエス様が私たちのために責任を負ってくださったことです。Tペテロ2:24。ですから、今負っている責任、重荷を主に任せてください。なすべきことをしたら、主の取り扱いを信じてください。ヒゼキヤが経験したようなことを、イエス様を信じる私たちも経験することができます。切実に祈り、主の御業を見ることができますように願います。使徒4:29〜30。




U列王記19:1 ヒゼキヤ王は、これを聞いて、自分の衣を裂き、荒布を身にまとって、【主】の宮に入った。
19:2 彼は、宮内長官エルヤキム、書記シェブナ、年長の祭司たちに、荒布をまとわせて、アモツの子、預言者イザヤのところに遣わした。
19:3 彼らはイザヤに言った。「ヒゼキヤはこう言っておられます。『きょうは、苦難と、懲らしめと、侮辱の日です。子どもが生まれようとするのに、それを産み出す力がないのです。
19:4 おそらく、あなたの神、【主】は、ラブ・シャケのすべてのことばを聞かれたことでしょう。彼の主君、アッシリヤの王が、生ける神をそしるために彼を遣わしたのです。あなたの神、【主】は、その聞かれたことばを責められますが、あなたはまだいる残りの者のため、祈りをささげてください。』」


19:14 ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取り、それを読み、【主】の宮に上って行って、それを【主】の前に広げた。
19:15 ヒゼキヤは【主】の前で祈って言った。「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、【主】よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。
19:16 【主】よ。御耳を傾けて聞いてください。【主】よ。御目を開いてご覧ください。生ける神をそしるために言ってよこしたセナケリブのことばを聞いてください。
19:17 【主】よ。アッシリヤの王たちが、国々と、その国土とを廃墟としたのは事実です。
19:18 彼らはその神々を火に投げ込みました。それらは神ではなく、人の手の細工、木や石にすぎなかったので、滅ぼすことができたのです。
19:19 私たちの神、【主】よ。どうか今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、【主】よ、あなただけが神であることを知りましょう。」

19:31 エルサレムから、残りの者が出て来、シオンの山から、のがれた者が出て来るからである。万軍の【主】の熱心がこれをする。
19:32 それゆえ、アッシリヤの王について、【主】はこう仰せられる。彼はこの町に侵入しない。また、ここに矢を放たず、これに盾をもって迫らず、塁を築いてこれを攻めることもない。
19:33 彼はもと来た道から引き返し、この町には入らない。──【主】の御告げだ──
19:34 わたしはこの町を守って、これを救おう。わたしのために、わたしのしもべダビデのために。」
19:35 その夜、【主】の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていた。
19:36 アッシリヤの王セナケリブは立ち去り、帰ってニネベに住んだ。
19:37 彼がその神ニスロクの宮で拝んでいたとき、その子のアデラメレクとサルエツェルは、剣で彼を打ち殺し、アララテの地へのがれた。それで彼の子エサル・ハドンが代わって王となった。



詩篇100:3 知れ。【主】こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。

ヘブル4:16ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

詩篇3:1 【主】よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。
3:2 多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼に神の救いはない」と。 セラ
3:3 しかし、【主】よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。
3:4 私は声をあげて、【主】に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる。 セラ

Tペテロ2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

使徒4:29 主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。
4:30 御手を伸ばしていやしを行わせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください。」

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