2020年11月22日「延長された人生を生きる」U列王記20:1〜21

序−ヒゼキヤ王は祈りの人でした。病気で死にそうになった王が慟哭しながら祈ると、寿命が延ばされました。多くの人々がこの話を好み、熱心に祈って癒しを受け、奇跡を得ようとします。しかし、本当にそういうことを教えているのでしょうか。聖書をよく読んでみれば、祈りの結果から私たちに与えようとしている素晴らしいメッセージが見えて来ます。

T−主の恵みで人生が延長される−1〜11
 ヒゼキヤ王は、病気で死にそうになりました。1節。そのころというのは、アッシリヤに攻められていた時のことです。預言者イザヤを通して、「直らないから、あなたの家を整理しなさい」という主の言葉を聞きました。身辺整理をしなさいと言われたのです。どんなに心に衝撃を受けたことでしょう。イザヤ38:9〜20に、その時の気持ちが記されています。まだ、39歳ころです。戦いの最中なのに、国政改革もまだ道半ばなのになぜ、残念だという思いです。人生これからという時に、王としての働きを中断しなければならないなんて、とても受け入れがたいことでした。
 私たちも、人生を歩んでいる途中、青天の霹靂という出来事に出会うことがあります。それまでやって来たことが続けられなくなるという事態になることがあるでしょう。心の痛みや絶望に打ちひしがれてしまいます。そんな時、どうしますか。
 ヒゼキヤは、ここでも主に拠り頼んで、切実に祈りました。2〜3節。今度も祈り方がすごいです。顔を壁に向けて号泣しながら祈ったというのです。主だけに心を向けて、思いのたけをぶつけて祈ったということです。激しく泣きながら祈りました。慟哭の祈りです。自分が主の前に真実に生きて来たことを覚えてくださいと訴えました。時には、私たちもこのようにただもう主に思いをぶつけて祈ってみるのも必要でしょう。
 その祈りに対する主の答えが、こうです。4〜7節。「あなたの祈りを聞いた。涙も見た。あなたをいやす。寿命にもう十五年を加えよう。アッシリヤの王の手から救い出そう」と、ヒゼキヤの心に応えてくださいました。何と、寿命が15年も延ばされたというのです。聖書を読む人々はみな、祈って寿命は延ばされたという話が好きです。でも、この箇所の重点は、そういうことではありません。
 考えてみれば、私たちは、延長された人生を生きているのではないでしょうか。イエス様は、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と言われました。ヨハネ3:3。私たちは、罪のゆえに滅ぶべき者であったのに、イエス様の十字架と復活を信じることによって救われ、新しく生まれた者となったではありませんか。ローマ8:11,Tペテロ1:3。
 それなのに、新しく生きる者とされていることを忘れて、一日一日を当然のように生きているのではないでしょうか。もし私たちが、イエス様の犠牲によって延長された人生である恵みを思わないで生きるなら、感謝を失った生活をしていることになります。しかし、私たちが延長された一日一日を感謝して生きるなら、ヒゼキヤが経験したようなことを経験することができます。
 よく事故や病気から生還した人々が、助かった命を感謝して生きなければと言います。私たちも、本当は罪のゆえに滅ぶべき命であったのに、イエス様の十字架を信じて救われて、新しい命を与えられた。これからは、いただいた新しい命を大切に生きていかなければと言わざるを得ないのではないでしょうか。ですから、今日の箇所の重点は、ヒゼキヤの祈りに対する応答の奇跡にあるのではありません。聖徒たちにとって、重要なのは、どれくらい人生が延長されたということではなくて、延長された人生をどのように生きるかなのです。

U−人生が延長されたが−12〜18
 ヒゼキヤ王は、延長された人生をどう生きたのでしょう。12〜13節。その頃、バビロンの王が、ヒゼキヤの病気を知り、使者を遣わして来ました。今のイラクの南西部にあったバビロンは、アッシリヤ帝国から独立をしようとしていました。それで、ユダがアッシリヤの攻撃を退けたことを聞き、同盟関係を求めて、使者を遣わしたということです。
 アッシリヤの包囲から解放され、死にそうだった病気も直り、ヒゼキヤは大いに感謝したことでしょう。実際は、主の使いによってアッシリヤ軍は倒され、主によって病気も癒されましたが、外国には、大帝国を退け、病気も乗り越えた王として知れ渡ったことでしょう。それで、名声を聞きつけて、遠くの国から見舞いに来たというのです。どんなに嬉しかったことでしょう。喜んだヒゼキヤ王は、まるで自分がしたかのように自慢し、バビロンの使者に、王宮の隅々まで、宝物もみんな見せたというのです。ヒゼキヤ王は、高慢になりました。
 お見舞いは口実であり、バビロンは国益のために来たのであり、まだ小さく弱いバビロンも、やがて大帝国となります。そうすれば、ユダを征服しに来ます。14〜18節。やがて、ユダはバビロン帝国に滅ぼされて、バビロン捕囚となります。ですから、王宮のすべてを見せたなんてことは、大きな間違いでした。イザヤの叱責は、そういうことを指摘したわけです。人生を延長された恵みを忘れてしまった悲劇です。
 もし私たちが、ヒゼキヤのような経験をして、人生を延長させていただいたなら、どのように生活しますか。主に献身して、信仰をもってしっかり生きようと決意すると考えるでしょう。しかし、どうでしょう。信仰的なヒゼキヤが命の延長の経験をしたのに、この姿となりました。私たちも、救われた時の感激を忘れて、恵みを受けた経験も忘れて、生きているのではないでしょうか。私たちも、ヒゼキヤと違うところがありません。
 私たちは、聖書を学んで考えなければなりません。せっかく救われた人生をどう生きるのか、イエス様の尊い犠牲をもって与えられた新しい命をどう生かすのかということです。明日死ぬとしても、今日何のためにどう生きるのかということです。私たちは、主によって延長された人生を生きています。しかし、その自覚もなく、延長された人生を勝手に生きてしまいます。主にささげるどころか、好き勝手に自分のために生きているでしょう。時には、罪の姿をさらけ出してしまうこともあります。
 主なる神様は、そういう姿をご存知でありながら救ってくださいました。何の意味があるのでしょう。ヒゼキヤがこのような姿になることを分かっておられるのに、病気を癒し、アッシリヤから助け出し、人生を延長させてくださいました。高慢の罪に陥った自分の姿を自覚させて、延長された人生を確かに生きて行くことを期待されたのです。

V−延長された新しい人生を生きる−19〜21,U歴代32:24〜33
 ヒゼキヤ王は素晴らしい信仰の王なのに、今一人気がありません。19節に記されていることの誤解のためにです。ユダの滅亡とバビロン捕囚の預言を聞かされたこの反応が、自分だけよければいいのかという批判を受けるからです。では、ヒゼキヤの延長は失敗した人生なのでしょうか。聖書は評価しています。U歴代32:25〜26。ヒゼキヤ王の素晴らしさは、高慢を悔い改めて、その後の人生をしっかり生きたことです。失敗をしないことよりも、間違いをした後どう生きたかが大切です。民も王と一緒に悔い改めてへりくだったので、主は怒りが臨まなかったというのです。
 ヒゼキヤ王は、その後延長された人生を費やして数々の功績を残しています。U歴代32:27〜30。とりわけ歴史に残る功績は、エルサレムの水源であったギオンの泉の水を城内のシロアムの池まで引くトンネルを完成させたことです。20節。世界最古の水道トンネルです。そして、民は、歴代王墓の上り坂に葬り、栄光を与えました。U歴代32:33。王たちの墓の中で最も高い所に埋葬して、王の死に敬意を表したのです。
 ですから、19節のことも、自分さえ助かればという利己的な了見ではなく、「主のことばは良い、善だ」と言っているのです。バビロン捕囚は、ユダの国全体に対する裁きです。王として、裁きを延期してくださったことを感謝し、裁きは避けられないものと謙虚に受け止めているのです。そういう告白ができることも、延長されたことの目的です。私たちが生きていることを当然と見ることはできません。一日一日が、主が自分を生かしてくださる延長された人生であることを覚えなければなりません。救われたことを感謝して、一日一日を大切に信仰で生きて、主の栄光をあらすことが、人生が延長されたことの目的なのです。
 本当の悔い改めは、主のあわれみと恵みを深く経験した人ができることです。そして、主のあわれみと恵みを深く受け止めた人が、それに応えて、延長された人生を主の栄光をあらわしながら生きようとするのです。イエス様に救われた聖徒たちは、ただ主のあわれみや恵みを受けて生きるのです。過ちや失敗を指摘されても、謙遜に受け止め、感謝しつつ忠実に仕える態度を失わないのです。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」という信仰なのです。ヨブ1:21。
 今日御言葉を学んで、私たちの人生が延長されたものであり、延長していただいた理由も知ることができました。私たちは、人生には様々な出来事があるのを思うと、自分が生かされていることを当たり前だと思うことはできません。一日一日、神が生かしてくださる延長された人生として、主のあわれみと恵みに応えて生きたいと願います。Tペテロ1:3。



U列王記20:1 そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。そこへ、アモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。「【主】はこう仰せられます。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。』」
20:2 そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて、【主】に祈って、言った。
20:3 「ああ、【主】よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行ってきたことを。」こうして、ヒゼキヤは大声で泣いた。
20:4 イザヤがまだ中庭を出ないうちに、次のような【主】のことばが彼にあった。
20:5 「引き返して、わたしの民の君主ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、【主】は、こう仰せられる。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたをいやす。三日目には、あなたは【主】の宮に上る。
20:6 わたしは、あなたの寿命にもう十五年を加えよう。わたしはアッシリヤの王の手から、あなたとこの町を救い出し、わたしのために、また、わたしのしもべダビデのためにこの町を守る。』」
20:7 イザヤが、「干しいちじくをひとかたまり、持って来なさい」と命じたので、人々はそれを持って来て、腫物に当てた。すると、彼は直った。
20:8 ヒゼキヤはイザヤに言った。「【主】が私をいやしてくださり、私が三日目に【主】の宮に上れるしるしは何ですか。」
20:9 イザヤは言った。「これがあなたへの【主】からのしるしです。【主】は約束されたことを成就されます。影が十度進むか、十度戻るかです。」
20:10 ヒゼキヤは答えた。「影が十度伸びるのは容易なことです。むしろ、影が十度あとに戻るようにしてください。」
20:11 預言者イザヤが【主】に祈ると、主はアハズの日時計におりた日時計の影を十度あとに戻された。
20:12 そのころ、バルアダンの子、バビロンの王メロダク・バルアダンは、使者を遣わし、手紙と贈り物をヒゼキヤに届けた。ヒゼキヤが病気だったことを聞いていたからである。
20:13 ヒゼキヤは、彼らのことを聞いて、すべての宝庫、銀、金、香料、高価な油、武器庫、彼の宝物倉にあるすべての物を彼らに見せた。ヒゼキヤがその家の中、および国中で、彼らに見せなかった物は一つもなかった。
20:14 そこで預言者イザヤが、ヒゼキヤ王のところに来て、彼に尋ねた。「あの人々は何を言いましたか。どこから来たのですか。」ヒゼキヤは答えた。「遠い国、バビロンから来たのです。」
20:15 イザヤはまた言った。「彼らは、あなたの家で何を見たのですか。」ヒゼキヤは答えた。「私の家の中のすべての物を見ました。私の宝物倉の中で彼らに見せなかった物は一つもありません。」
20:16 すると、イザヤはヒゼキヤに言った。「【主】のことばを聞きなさい。
20:17 見よ。あなたの家にある物、あなたの先祖たちが今日まで、たくわえてきた物がすべて、バビロンへ運び去られる日が来ている。何一つ残されまい、と【主】は仰せられます。
20:18 また、あなたの生む、あなた自身の息子たちのうち、捕らえられてバビロンの王の宮殿で宦官となる者があろう。」
20:19 ヒゼキヤはイザヤに言った。「あなたが告げてくれた【主】のことばはありがたい。」彼は、自分が生きている間は、平和で安全ではなかろうか、と思ったからである。
20:20 ヒゼキヤのその他の業績、彼のすべての功績、彼が貯水池と水道を造り、町に水を引いたこと、それはユダの王たちの年代記の書にしるされているではないか。
20:21 こうして、ヒゼキヤは彼の先祖たちとともに眠り、その子マナセが代わって王となった。


ヨハネ3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

Tペテロ1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。

ローマ6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

U歴代32:25 ところが、ヒゼキヤは、自分に与えられた恵みにしたがって報いようとせず、かえってその心を高ぶらせた。そこで、彼の上に、また、ユダとエルサレムの上に御怒りが下った。
32:26 しかしヒゼキヤが、その心の高ぶりを捨ててへりくだり、彼およびエルサレムの住民もそうしたので、【主】の怒りは、ヒゼキヤの時代には彼らの上に臨まなかった。
32:30 このヒゼキヤこそ、ギホンの上流の水の源をふさいで、これをダビデの町の西側に向けて、まっすぐに流した人である。こうして、ヒゼキヤはそのすべての仕事をみごとに成し遂げた。
32:33 こうして、ヒゼキヤは彼の先祖たちとともに眠り、人々は彼をダビデの子らの墓地の上り坂に葬った。ユダのすべての人々とエルサレムの住民は、彼が死んだとき、彼に栄光を与えた。彼の子マナセが代わって王となった。

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