2020年11月29日「悩みを身に受けて、祈ったので」U列王記21:1〜26

序−権力は人を堕落させると言われますが、権力者や指導者にまつわる非倫理的、不誠実な事件は昔も今も多いです。心理学の研究が示していることは、権力は人間の心理を変える作用があるということです。今日聖書に登場するマナセという王様は、まさに権力によって最も悪い王と言われるようになりました。権力者的心理は、誰でもなる可能性があります。

T−権力は人間の心理を変える−1〜2
 今日の箇所に登場する王マナセは、何と、12歳で王位に上がり、55年間という長期間王として君臨しました。異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねて、主の目の前に悪を行った最悪の王でした。1〜2節。考えてみてください。12歳と言えば小学6年生くらいです。どれほどの分別、判断力があったでしょうか。その年齢くらいの子どもが、何でも勝手にできる権力者となったのです。皆さんは、その年頃どうでしたか。
 何が良くて何が悪いのかという分別さえない者が、絶対権力者になったのです。持つべき王としての人格と品性、考え方を教える者がいればいいのですが、いなかった、聞かなかったのです。逆に、信仰の王ヒゼキヤが退いた後は、反ヒゼキヤの偶像派の家来たちが幼い王にすりより、おもねり、巧妙に自分たちの言うことを聞くようにさせたのです。
 心理学によれば、権力を手にしていると思う者は、自己への注目の度合いが強まるそうです。つまり、自分自身の思考や感情に他人を注目させるのです。王は、すりよる家来のおもねりに気をよくして、言うことを聞いてしまいます。反対に、自分に意見や叱責を言う者に対して我慢できません。心理学者によると、権力者は、権力によって自分の感情や衝動への抑制が弱まるそうです。脱抑制と言います。さらには、他者の状況や感情に対する共感性が低くなります。だから、冷酷、わがままになるのです。
 王や大臣でなくても、相手より自分の方が権限や力が上と思えば、誰でも、この権力者の心理になります。社会であれば、地位が自分より下の者に対して、家庭であれば、配偶者や子どもに対して、学校でも力関係によって、この権力者の心理になります。私たちは、どうでしょうか。
 マナセの言うことには、誰もが従います。悪いことにも、間違っていることにも従います。これは、恐ろしいことです。制御不可能な権力が、まだ人格的に整えられていない子どもに与えられていたのです。無責任な権力者、自分の感情を治めることのできない王、人に八つ当たりしたり、他人のせいにする為政者、何が間違っているか分からない王の下にある民は、どんなに不安で辛いことでしょうか。
 無責任な為政者に治められる国民、自分の感情を治めることのできない上司の下にある部下、八つ当たりしたり、他人のせいにする指導者に従う者、そのような者に従う家族にとって、これほど辛いことはありません。伝道者4:1。現代社会でも、多くの人々が何らかの権力の下でしいたげられ、苦しめられ、痛んでいます。

U−権力者の心理、脱抑制と自己への注目−1〜9,16
 マナセは、イスラエル史上最も悪い暴君、邪悪な王となりました。その悪政が記されています。2〜7節。マナセは、父ヒゼキヤが取り除いた高き所を再び立てました。バアルの祭壇を築き、アシェラ像を造りました。天の万象を拝みました。子どもに火をくぐらせ、占い霊媒までしました。ことごとく異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねて、主の目の前に悪を行いました。
 当然、権力をほしいままにする王がするのですから、民もこれにならいました。8〜9節。次の王、アモンもそれにならい、たった2年で謀反に倒れることになります。19〜23節。権力者は、自分の権威に人々を従わせようとします。権力者や指導者は、その影響力を思えば、自分の身を制しなければならないのに、権力は人を堕落させます。
 心理学者たちによると、権力者の問題の1つは、他者の状況や感情に対する共感性が低くなるということです。さらに、権力者は偽善的傾向も持ちやすくなります。他人の過ちを断罪するけれども、自分の過ちを正当化するのです。倫理観を失い、自分勝手になります。つまり、罪の性質が丸出しになるということです。取り立てて権力ある地位にいなくても、人は周りに対して影響力を持つものです。権力者心理に堕落するのを防ぐのは、他者への共感だと心理学は教えています。ピリピ2:4。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みることが必要です。
 マナセ王は、主の宮に偶像の祭壇を立てたというのです。4,7節。ここまでした王はいませんでした。明らかに主への反抗です。当然、預言者たちの批判を受け、主の叱責が告げられました。10節。権力者は、諫言を嫌い、斥けます。王は、批判し、諫言する者たちを殺しました。16節。ユダヤ人歴史家ヨセフスによれば、この時にイザヤも殺されたそうです。
 権力者が偶像を持ち出すのには、理由があります。自分のためです。偶像に献身するために求めるのではなく、自分に仕えてもらうために求めるのです。偶像崇拝というのは、神中心でない、つまり自分中心であるということです。そこから罪が生じて来ます。真の神は、人がその御言葉に聞き従うのですが、偶像は、人の願いを聞いてくれるものとされているからです。自己中心の権力者にとって都合が良いのです。権力者心理は、従うことを嫌うからです。こんな権力者心理が、私たちにはないでしょうか。

V−福音は人変える−10〜15, U歴代33:11〜16
 マナセ王のしたことは、余りにも酷い悪行でした。当然、マナセに対する裁きが宣言されています。10〜15節。ところが、18節を見ると、釈然としません。悪の限りを尽くした悪い権力者は、厳しい罰を受け、非業の最期になるべきだと考えるでしょう。しかし、マナセは、そうではありません。普通の死を迎え、他の王と同じように葬られています。おかしいではないか、こんなに悪い王が何の裁きも受けないのか、他の悪い王のように野に葬られるべきだという思いになるでしょう。
 U歴代33:11〜13を見てみましょう。マナセは、アッシリヤの将軍によって、獲物のようにひっかけ鉤で捕らえられ、青銅の足かせにつながれて、バビロンへ引かれて行きました。権力をほしいままにした王が、捕虜となり、残酷な仕打ちを受けたのです。どれほどの衝撃を受けたことでしょう。自分によってしいたげや苦しみを受けた者の悲哀、痛みを自分自身も体験しました。他人を思いやることもなかった自己中心の自分であったことを悟りました。真の神に背を向けて、肉の欲のまま振舞っていた自分の罪に気付きました。彼の心の深いところで変化が起こりました。
 マナセは、その時どうしましたか。悩みを身に受けた時、彼は主に嘆願し、神の前に大いにへりくだって、主に祈りました。悩みを身に受けたとは、苦しみ苦難に会わされたということです。人は、問題や事件で自分も痛みを覚え、悩みを経験した時、他人に対してそういう思いを与えていた自分の姿に気付くのです。誰でも、他人の立場に立ってみてはじめて、その人の思いや痛みが分かるようになります。こういう経験も必要なのです。そうでないと、ずっと他人の心を痛めつけるような酷いことを続けてしまうことになります。患難も悔い改めのチャンスです。
 神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムに戻されました。主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださいます。ヨエル2:13。ですから、苦しみに会ったことは、マナセにとって良かったのです。詩篇119:71。私たちは、苦しみに会うことがあります。それでも、そこから霊的なことを学ぶことができれば、苦しみに会ったことも意味があります。
 もし、私たちが第三者としてマナセの人生を眺めているなら、こんな悪いやつがどうして助けられるのだと思って、何も霊的なメッセージを受けることができないでしょう。しかし、ここから、自分に対する主の取り扱い、救いの恵みを覚えることができれば、さいわいです。
 今主が見ておられるのは、過去の悪い王マナセではありません。苦しみを経て悔い改め、主に立ち返った人を見ています。イエス様の十字架を自分の罪と裁きの身代わりだと信じた一人の聖徒の姿を見ています。今、マナセは本当に悔い改めました。アッシリヤの牢獄で、胸を叩きながら悔い、嘆きながら主に祈ったマナセを主は顧みてくださいました。
 すみません。間違っていましたと言っても、何の変化もなく、同じように生きてしまう姿があります。しかし、真に悔い改めたなら、悔い改めに相応しい実を結ぶことになります。エルサレムに戻り、王位に復帰したマナセのその後の姿を見てみましょう。U歴代33:14〜16。そこには、以前とはまったく違うマナセ王がいました。王は、城壁を築き、偶像を取り除き、主に和解と感謝の礼拝をささげ、民にも主に仕えるようにさせました。愛と赦しの福音はこんなにも人を変えます。
 過去どんなに自分勝手に生きて来たとしても、主に背を向けて多くの間違いをして来たとしても、主の前に悔い改め、イエス様の十字架は私の罪の身代わりでしたと告白するなら、赦され、救いを受けます。Tヨハネ1:9。ですから、今でも間に合います。権力者の心理から解放されて、主に従い、人々を愛して、仕える新しい生き方をすることできます。イエス様の愛を受けて、残りの生涯を生きて行くことを願います。Uコリント5:17。



U列王記21:1 マナセは十二歳で王となり、エルサレムで五十五年間、王であった。彼の母の名はヘフツィ・バハといった。
21:2 彼は、【主】がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねて、【主】の目の前に悪を行った。
21:3 彼は、父ヒゼキヤが打ちこわした高き所を築き直し、バアルのために祭壇を立て、イスラエルの王アハブがしたようにアシェラ像を造り、天の万象を拝み、これに仕えた。
21:4 彼は、【主】がかつて、「エルサレムにわたしの名を置く」と言われた【主】の宮に、祭壇を築いたのである。
21:5 こうして、彼は、【主】の宮の二つの庭に、天の万象のために祭壇を築いた。
21:6 また、自分の子どもに火の中をくぐらせ、卜占をし、まじないをし、霊媒や口寄せをして、【主】の目の前に悪を行い、主の怒りを引き起こした。
21:7 さらに彼は、自分が造ったアシェラの彫像を宮に安置した。【主】はかつてこの宮について、ダビデとその子ソロモンに言われた。「わたしは、この宮に、そしてわたしがイスラエルの全部族の中から選んだエルサレムに、わたしの名をとこしえに置く。
21:8 もし彼らが、わたしの命じたすべてのこと、わたしのしもべモーセが彼らに命じたすべての律法を、守り行いさえするなら、わたしはもう二度と、彼らの先祖に与えた地から、イスラエルの足を迷い出させない。」
21:9 しかし、彼らはこれに聞き従わず、マナセは彼らを迷わせて、【主】がイスラエル人の前で根絶やしにされた異邦人よりも、さらに悪いことを行わせた。
21:10 【主】は、そのしもべ預言者たちによって、次のように告げられた。
21:11 「ユダの王マナセは、これらの忌みきらうべきことを、彼以前にいたエモリ人が行ったすべてのことよりもさらに悪いことを行い、その偶像でユダにまで罪を犯させた。
21:12 それゆえ、イスラエルの神、【主】は、こう仰せられる。見よ。わたしはエルサレムとユダにわざわいをもたらす。だれでもそれを聞く者は、二つの耳が鳴るであろう。
21:13 わたしは、サマリヤに使った測りなわと、アハブの家に使ったおもりとをエルサレムの上に伸ばし、人が皿をぬぐい、それをぬぐって伏せるように、わたしはエルサレムをぬぐい去ろう。
21:14 わたしは、わたしのものである民の残りの者を捨て去り、彼らを敵の手に渡す。彼らはそのすべての敵のえじきとなり、奪い取られる。
21:15 それは、彼らの先祖がエジプトを出た日から今日まで、わたしの目の前に悪を行い、わたしの怒りを引き起こしたからである。」
21:16 マナセは、ユダに罪を犯させ、【主】の目の前に悪を行わせて、罪を犯したばかりでなく、罪のない者の血まで多量に流し、それがエルサレムの隅々に満ちるほどであった。


伝道者4:1 私は再び、日の下で行われるいっさいのしいたげを見た。見よ、しいたげられている者の涙を。彼らには慰める者がいない。しいたげる者が権力をふるう。しかし、彼らには慰める者がいない。

ピリピ2:4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。

U歴代33:11 そこで、【主】はアッシリヤの王の配下にある将軍たちを彼らのところに連れて来られた。彼らはマナセを鉤で捕らえ、青銅の足かせにつないで、バビロンへ引いて行った。
33:12 しかし、悩みを身に受けたとき、彼はその神、【主】に嘆願し、その父祖の神の前に大いにへりくだって、
33:13 神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された。こうして、マナセは、【主】こそ神であることを知った。
33:14 その後、彼はダビデの町に外側の城壁を築いた。それはギホンの西側の谷の中に、さらには、魚の門の入口に達し、オフェルを取り巻いた。彼はこれを非常に高く築き上げた。そして、彼はすべてのユダの城壁のある町々に将校を置いた。
33:15 さらに、彼は【主】の宮から外国の神々と偶像、および、彼が【主】の宮のある山とエルサレムに築いたすべての祭壇を取り除いて、町の外に投げ捨てた。
33:16 そして、【主】の祭壇を築き、その上で和解のいけにえと感謝のいけにえをささげ、ユダに命じてイスラエルの神、【主】に仕えさせた。

ヨエル2:13 あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、【主】に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ。

詩篇119:71 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。

Tヨハネ1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

Uコリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

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