2020年12月6日「御言葉の発見」U列王記22:1〜20

序−1946年ヨルダン川西岸地区のクムラン洞窟から紀元前1世紀の旧約聖書の写本が発見されました。20世紀最大の考古学の発見と言われる死海写本です。それまでの写本から1000年もさかのぼるものでした。今日の箇所は、修理中の神殿から律法の書が発見されたという内容です。律法の書を聞いたヨシヤ王の反応から恵みを受ける時間になることを望みます。

T−律法の書の発見−1〜10
 今日の王様は、ヨシヤ王です。よく名前に使われます。父マナセ王が謀反で倒されたので、ヨシヤは8歳で王となりました。1節。幼い王にとって母の影響が大きかったでしょう。祖父のアダヤという名は、レビ族の中に見られます。母がレビ族の出であれば、主を恐れる信仰を伝えたはずです。ですから、主の目にかなうことを行って、先祖ダビデのすべての道に歩み、右にも左にもそれなかったと称賛された最善の王となりました。2節。
 ヨシヤ王は、16歳になると、「ダビデの神に求め始め」ます。U歴代34:3。信仰によって主に仕えることを始めたということです。そして20歳になると、偶像を取り除くことを行います。U歴代34:3〜7。北イスラエルの地域まで偶像を取り除きます。着実に信仰的な改革を行って行きます。さらに26歳の時、神殿の修理を行います。3〜7節。この時、神殿から律法の書が発見されます。8節。
 修理していた神殿から発見されたのです。大事件です。今までどうしていたのでしょう。神殿が荒らされた時に、どこかに隠されて、そのままだったのでしょう。聖書が発見されたということは、人々が自分の心のおもむくまま生きていたことを教えてくれます。御言葉がなければ、自分の考えや感情に従うでしょう。自分の考えや感情さえ、御言葉に従うのです。それが、神の民の姿です。もし御言葉を片付けられ、忘れられていれば、誰でも自己中心になって歩むしかありません。
 律法の書を発見した大祭司ヒルキヤは書記シャファンにそれを渡し、書記シャファンはそれを王の前で読みました。10節。御言葉は読まれなければなりません。御言葉は読まれてこそ、発見になります。御言葉を読む時に私たちに恵みが来ます。御言葉を読んで黙想する者が幸いな人です。詩篇1:1〜2。申命記17:18〜19によれば、新しく王となったら、律法の書を書き写して自分の手元において生涯読み続けて、主を恐れて従わなければならないとされていました。信仰の王ヨシヤにとっても、「御言葉の発見」になったのです。私たちは、聖書を持っていますが、読まれなければ、私たちと何の関係もありません。御言葉を読んで、聞いて、守る者に幸いがあります。詩篇1:3。
 私たちの生活の現場で、御言葉はどうなっていますか。心の外に置かれていませんか。日常生活の中で、忘れられていないでしょうか。教会の礼拝において御言葉が宣言されます。主の臨在を覚えて礼拝に出るならば、生きた御言葉に出会います。自分を変えてくれる御言葉を発見できる機会となります。御言葉は、私たちの人生を変えることができます。

U−御言葉への応答−11〜13,19
 発見された律法の書が読まれるのを聞いたヨシヤ王は、どんな応答を示しましたか。11節。王は律法の書のことばを聞いた時、大きな衝撃を受け、自分の衣を裂きました。劇的な姿です。自分の衣を裂くというのは、非常に大きな悔い改めを表したものです。御言葉を聞いて心を痛め、涙を流し、主の前にへりくだって、衣を裂いたのです。19節。
 どんな所が読まれたのでしょう。13節あたりからすると、例えば申命記28:13〜15のような所でしょうか。主の御声に聞き従わず、主の命令とおきてとを守り行わないなら、のろいがのぞむと聞いたので、今のユダ王国はいつ裁きが臨んでもおかしくないと悟ったからです。
 とても素直な誠実な心です。御言葉を聞いて心痛めるのは、心を刺されるということです。主なる神がこれほどまで言っておられるのかという神基準の聞き方です。しかし、自分が基準である人は、御言葉を聞いても、自分の気持ちに合うか合わないかで判断してしまいます。へりくだった素直な心で、主の御心を聞くことを願います。
 王は、泣いて悔い改めました。悔い改めは、私たちと神様との詰まった通路を通じさせます。反対に、悔い改めない心は、時間が経つにつれて、主との通路が遮断されてしまいます。主に背を向けて、自分勝手に歩んでいるなら、良心の呵責は起きません。かえって、自分の思い通りにならないと不平不満を神様にぶつけて「神は私に何をしてくれたのか、私の願い通りにならないではないか」などと言うのです。ますます神様から遠くなってしまいます。素直で御言葉に敏感な心は、主と親密になります。
 御言葉を聞いても、心痛むこともなく、心を刺されることもなく、生活に何の変化もないとしたら、実に残念な信仰生活だと言わざるを得ません。ペンテコステの日使徒ペテロの説教を聞いた人々が、心刺されました。使徒2:37。もし律法の書が発見されなければ、どうでしょうか。御言葉を聞いて悔い改め、衣を裂くことはなかったでしょう。かえって、偶像を取り除き、神殿を修理した自分はよくやったと満足していたことでしょう。こんなに頑張った自分は評価されるに違いないと考えたでしょう。自分が悔い改めなければならない存在などとは少しも思わなかったでしょう。ユダに向けられた主の御怒りも忘れていたままでしょう。
 これは、私たちに何を教えているのでしょう。御言葉の発見がなければ、自分の罪を見ることなく、自分の歩みに満足したままということです。私たちも、御言葉を聞いて心刺されることがなければ、自分勝手にしていることに満足したままでしょう。それが、主の前に出ることを妨害し、御言葉を失ったまま生きることになります。こんなに信仰的なヨシヤ王が、御言葉を聞いて衝撃を受けて、悔い改めたのです。私たちは、どうでしょう。悔い改めることがないのでしょうか。
 律法は、私たちに罪を教えるものです。ローマ7:7。むさぼるなという律法を聞いてはじめて、むさぼりの罪があることが分かり、悔い改めが始まります。律法の一つの点でもつまずくなら、すべてを犯した者となるというのです。ヤコブ2:10。使徒ペテロは、人々に「あなたがたが、キリスト・イエスを十字架につけたのです」と言っていたのですが、心刺された人々は、自分の罪がイエス様を十字架につけたと理解したのです。イエス様の十字架の前に立つと、神様の御怒りと救いの恵みがどれほど大きいか分かります。自分の罪がイエス様を十字架につけたのです。

V−御言葉に聞き従う−14〜20
 ペンテコステの日使徒ペテロの説教を聞いて心刺された人々が、「私たちはどうしたらよいでしょうか」と言いました。使徒2:36〜38。御言葉を聞いたら、反応しなければなりません。御言葉を聞いたヨシヤ王は、家来を預言者に遣わして、主のみこころを求めさせました。13節。御言葉を聞いて悔い改め、主の赦しを求め、主の御旨に聞き従おうとしたのです。
 御言葉を聞いても、何をどうすべきかを考えない人は、何も聞いていない人よりも、問題が多いと言わざるを得ません。私たちは、御言葉を聞いたなら、「きょう主は私に何を求めておられるのだろうか」ということを念頭に置く必要があります。御言葉を聞いて心を傷め、主の前にへりくだって、悔い改めたヨシヤ王は、どのような恵みを受けましたか。20節。安らかに地上の生涯を終えて、天国へ行くことができるという恵みです。
 また、主は、ヨシヤ王の祈りを聞いてくださいました。19節。この19節をよく見てください。まず、主が律法の書の御言葉を通して言われたことをヨシヤ王が聞きました。それを聞いたヨシヤ王が心を痛め、へりくだり、自分の衣を裂き、主の前で泣いて祈ったので、主がそれを聞いてくださいました。こうして、ヨシヤ王は、主なる神との心の交わりをしました。これが生きた信仰者の姿です。私たちが、礼拝において賛美と祈りと御言葉を通して、主なる神と心を交わしているでしょうか。ぜひ、きょう主と心の交わりをしたいのです。
 そのために、御言葉を発見してください。御言葉が自分に語られたものと受け止めるのです。自分に適用するのです。自分の罪を覚えることもなく、自分の思い通りになることだけ求めていた姿を悔い改めます。自分の願ったようにしてくれないと不平を言い、助けにならないと背を向けるのではなく、そんな自分の自己中心の罪が神とのしきりとなっていると悟って、悔い改めます。イザヤ59:1〜2。主は助けられないのではなく、自分が背を向けて、主に信頼していなかったと悔い改めます。主を信頼しないで、世の何かを偶像にして、主に背を向けて、文句を言っている人を助けることができるでしょうか。
 主は、ヨシヤ王が悔い改めたので、王の願いを聞いてくださいました。ヨシヤ王は、発見された御言葉を聞いて、本当に悔い改め、神の赦しと恵みを受けることができました。御言葉の発見は、主のあわれみと救いの発見ともなりました。今日、御言葉は容易に発見することができます。自分に語られた御言葉だと聞いて、自分に適用するのです。御言葉を聞いて、心刺されますように。御言葉から外れて、御心から離れていた自分を発見して、悔い改めますように。主の御心を求めて祈り、聞き従う生涯となりますように願います。詩篇51:16〜17。



U列王記22:1 ヨシヤは八歳で王となり、エルサレムで三十一年間、王であった。彼の母の名はエディダといい、ボツカテの出のアダヤの娘であった。
22:2 彼は【主】の目にかなうことを行って、先祖ダビデのすべての道に歩み、右にも左にもそれなかった。
22:3 ヨシヤ王の第十八年に、王はメシュラムの子アツァルヤの子である書記シャファンを【主】の宮に遣わして言った。
22:4 「大祭司ヒルキヤのもとに上って行き、【主】の宮に納められた金、すなわち、入口を守る者たちが民から集めたものを彼に計算させ、
22:5 それを【主】の宮で工事している監督者たちの手に渡しなさい。それを【主】の宮で工事している者たちに渡し、宮の破損の修理をさせなさい。
22:6 木工、建築師、石工に渡し、また宮の修理のための木材や切り石を買わせなさい。
22:7 ただし、彼らの手に渡した金を彼らといっしょに勘定してはならない。彼らは忠実に働いているからである。」
22:8 そのとき、大祭司ヒルキヤは書記シャファンに、「私は【主】の宮で律法の書を見つけました」と言って、その書物をシャファンに渡したので、彼はそれを読んだ。
22:9 書記シャファンは王のもとに行って、王に報告して言った。「しもべたちは、宮にあった金を箱からあけて、これを【主】の宮で工事している監督者たちの手に渡しました。」
22:10 ついで、書記シャファンは王に告げて、言った。「祭司ヒルキヤが私に一つの書物を渡してくれました。」そして、シャファンは王の前でそれを読み上げた。
22:11 王は律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を裂いた。
22:12 王は祭司ヒルキヤ、シャファンの子アヒカム、ミカヤの子アクボル、書記シャファン、王の家来アサヤに命じて言った。
22:13 「行って、この見つかった書物のことばについて、私のため、民のため、ユダ全体のために、【主】のみこころを求めなさい。私たちの先祖が、この書物のことばに聞き従わず、すべて私たちについてしるされているとおりに行わなかったため、私たちに向かって燃え上がった【主】の憤りは激しいから。」

22:19 あなたが、この場所とその住民について、これは恐怖となり、のろいとなると、わたしが言ったのを聞いたとき、あなたは心を痛め、【主】の前にへりくだり、自分の衣を裂き、わたしの前で泣いたので、わたしもまた、あなたの願いを聞き入れる。──【主】の御告げです──
22:20 それゆえ、見よ、わたしは、あなたを先祖たちのもとに集めよう。あなたは安らかに自分の墓に集められる。それで、あなたは自分の目で、わたしがこの場所にもたらすすべてのわざわいを見ることがない。』」彼らはそれを王に報告した。


U歴代34:3 彼の治世の第八年に、彼はまだ若かったが、その先祖ダビデの神に求め始め、第十二年に、ユダとエルサレムをきよめ始めて、高き所、アシェラ像、刻んだ像、および、鋳物の像を除いた。
34:4 人々は彼の面前で、バアルの祭壇を取りこわした。彼は、その上にあった香の台を切り倒し、アシェラ像と刻んだ像と鋳物の像を打ちこわし、粉々に砕いて、これらのいけにえをささげた者たちの墓の上にまき散らした。

申命17:18 彼がその王国の王座に着くようになったなら、レビ人の祭司たちの前のものから、自分のために、このみおしえを書き写して、
17:19 自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、【主】を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行うことを学ぶためである。

詩篇1:1 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
1:2 まことに、その人は【主】のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。

申命28:13 私が、きょう、あなたに命じるあなたの神、【主】の命令にあなたが聞き従い、守り行うなら、【主】はあなたをかしらとならせ、尾とはならせない。ただ上におらせ、下へは下されない。
28:14 あなたは、私が、きょう、あなたがたに命じるこのすべてのことばを離れて右や左にそれ、ほかの神々に従い、それに仕えてはならない。
28:15 もし、あなたが、あなたの神、【主】の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行わないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。

使徒2:36 ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
2:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
2:38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。

ローマ7:7 それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。

ヤコブ2:10 律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。

イザヤ59:1 見よ。【主】の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。
59:2 あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。

詩篇51:16 たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。
51:17 神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

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