2020年12月20日「東方の博士とベツレヘムの星」マタイ2:1〜11

序−今木星と土星が大接近しています。800年ぶりの天体ショウ、ほぼ重なるようになります。実はこの木星と土星の大会合は、天文学者ケプラーがベツレヘムの星だと唱えたものです。確かに、今他の星が見えない夕方南西の地平線近くに明るい1つの星が見えます。星をたよりに誕生した救い主をさがし求めた東方の博士たちの物語を、星を辿って学びます。

T−その方の星を見たので−1〜2
 時はヘロデ王がユダヤを支配していた時代、救い主イエス様を拝むために、遠い東方から博士たちが来ました。1〜2節。東方の博士たちとは、どういう人々なのでしょう。古代ペルシャやバビロンの地域で星を研究していた天文学者です。哲学や数学、医学などの真理を探求する自然科学者でもありました。星の動きから国や人の将来を考え、王侯や人々の相談に乗るような人々でした。賢者とも訳されています。社会的にみれば、地位も学問もある申し分のない人々でした。
 しかし、彼らは、満足していませんでした。宇宙はどうなっているのだろう、人とはいかなる存在なのか、人生は何か、人はどう生きればいいのか、そういうことを考えながら、研究していました。現代も、人々は、そこそこの生活をしていても、何か満たされぬものを感じて生きています。心の中では、人生とは何か、どう生きればいいのかと考える時があります。人生に何か足りないものを感じ、心は飢え渇いています。
 そんな博士たちの耳に聞こえて来たことが、やがてユダヤの地に救い主が生まれるという話でした。バビロンに捕囚となったユダヤ人の子孫が、その地で救い主の希望を持って生きている姿を見て、救い主を賛美していたのを聞きました。そして、彼らから救い主を知らせる星の話を聞いて、星を調べました。民数記24:17。これが、証しの姿です。私たちは、現代社会で、この捕囚の民のように生きているでしょうか。
 博士たちは、学問も富も社会的地位もありました。人々が見れば、何の不足もない幸せの条件をみな備えていました。しかし、彼らはそれに満足することができませんでした。彼らは真理の追究者です。心の拠り所、救い主に会うことを求めました。夜毎天を仰ぎ、祈り、星を見て調べました。そして、ついに「その方の星を見た」のです。2節。これが、いわゆるベツレヘムの星と言われるものです。どんな星や光をその方の星と見たのか、古来の人々は興味を持って、様々な説を唱えました。その中の1つが、木星と土星の大会合、大接近です。今ほぼ1つの星に見えます。他の星が見えない夕方に明るく輝くこの星は、いかにもその星に見えますが、どの説と特定されていません。博士たちには、そう見えたのでしょう。
 人々が、この星をさがす博士たちを見たなら、それは愚かな、つまらないことに見えたでしょう。何の得もない、ご苦労なことだというものでしょう。それでも、彼らは少しも気にせずその星を探していました。彼らは、現実に埋没しないで、心の目を覚ましていた人生の探求者でした。真理の求道者でした。天文学者だから星だったのでしょうか。誰でも、真理を探求し、救い主を求めるたましいを待っている人には、星でなくても、それぞれの環境の中で救い主を見つけるきっかけがあるでしょう。救い主は、求めるたましいに会ってくださいます。箴言8:17。
 人々は、救いとか信仰というと、非科学的だと貶める傾向があります。しかし、当時の科学の最先端を行っている博士たちが、たましいの救い主を求めたのです。現代でも、科学界で最先端研究をする9人のプロ科学者に、最近の研究結果が進化論と創造論のどちらで説明可能かインタビューしたところ、宇宙誕生、太陽系の絶妙なバランス、生物学的な複雑性の証拠、先端科学の研究結果から、デザイナーが存在すると答えたそうです。
 星は、夜空が明る過ぎれば、見ることができません。現代は、星を見るのが難しくなっています。きらびやかな社会にあって、人々は空ではなく、地だけを見て、星の代わりに利己的な欲望だけを見ています。救い主が世に来られた知らせであるクリスマスの時こそ、心の目を開いて、真理の探究者、救いの求道者となるチャンスです。

U−星に導かれて−2,9
 救い主の誕生を知った時、博士たちは、すぐに行動を起こしました。救い主に会いに行く決断をしたのです。2節。星をたよりに、救い主を求めて遠くまで旅をしました。周りの者は、愚かだと言い、妨げようとしたことでしょう。しかし、博士たちの真理への情熱を止めることはできませんでした。私たちも、救い主に心を向けた時を思い出します。聖書の教えに真理があるのでは、人生の生きる道を教えてくれるのではという思いをもって、教会の礼拝へと出かけました。
 博士たちは、情熱を持って、救い主を求め、世間的な体裁や世の価値観にとらわれないで、出発しました。千数百km2千kmの距離を、山を越え、大河を渡り、荒野や砂漠を越えて旅をしました。星をたよりなのですから、夜の旅となったのでしょうか。盗賊や悪天候の危険もありました。空腹や疲労との戦いもあったでしょう。それは、勇気と忍耐がなければ行くことができない道でした。救い主に会わなければという願いと情熱から出た求道でした。
 私たちも、この時の博士たちの情熱を持ちたいです。たとえ難しくても、世間的には認められなくても、イエス様の十字架の道こそ、救いへの道、いのちへの道なのですから。今クリスマスの礼拝に出席している私たちは、博士たちの情熱を受け継ぐ者となることができます。
 星をたよりに信仰の道を行った博士たちですが、私たちにとっての人生を導く星とは何でしょうか。聖書、御言葉です。主なる神様の導きを求める者にとって、聖書の御言葉こそ、星のように輝く光です。人生を導く光です。詩篇119:105。博士たちが星の啓示に忠実であったように、私たちも御言葉の導きに忠実でありたいと願います。
 ユダヤのエルサレムに着きましたが、人々は知りませんでした。王宮にもいませんでした。1〜3節。がっかりして、諦めたでしょうか。いいえ、博士たちは、諦めることなく、失望することなく、尋ねました。祭司長たち、学者たちが、「ユダヤのベツレヘム」と聖書に書いてあると教えてくれました。4〜5節。確かに、そこで救い主が誕生すると預言されていました。6節。神様の方で準備してくださっておられるのですから、救いを求めたのなら、諦めたり、戻ったりしないでください。「わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける」と主は、言われます。箴言8:17。
 教えられたとおり、ベツレヘムへと出かけると、星が先導してくれて、ついに幼子のおられる所に着きました。9節。

V−その星を見てこの上もなく喜んだ−10〜11
 博士たちは、ついに救い主イエス様のおられる家に着きました。10〜11節。その時の博士たちの感動が伝わって来ます。10節の「この上もなく喜んだ」は、原文では「大きな喜びをもって非常に喜んだ」と二重の最上級の表現になっています。どれほどの感激、喜びだったのでしょうか。私たちも、イエス様に出会った喜び、悔い改めて生まれ変わった感激があります。イエス様が救い主だ、聖書の教えに真理がある、信仰が人生を導いてくれると確信したあの感激、歓喜です。十字架の前に流した涙の感激がありました。私たちは、この喜びと感激を失っている時があります。信仰の感激、礼拝の喜び、祈りの感激、仕える喜びが薄れていないでしょうか。クリスマスが、失われた信仰の喜びと感激を回復する機会となることを祈ります。
 喜びと感激にあふれて博士たちは、何をしましたか。11節。幼子イエス様を礼拝し、黄金、乳香、没薬をささげました。金は王にささげるもの、忠誠心と服従を示しています。乳香は大祭司が使うもので、没薬は葬りに用いるものです。イエス様が自ら犠牲となられ、私たちの罪のために十字架に死なれ、救い主となられました。これが、博士たちの信仰告白です。
 真理が聖書にあるのか、イエス様が救い主なのかと思っても、求めなければ、それまでです。求めても、行動を起こさず、困難や妨害で諦めるなら、出会えません。そこで終わったら、この上もない喜び、感激を体験することはできません。求めるならば、見つけ出すことができます。
 東方の博士たちの特徴を言うならば、救い主を求める熱心、情熱です。その探究心でもって、聖書の教えを頼りに広大な星空を熱心に観察し、不思議な星の動きを発見し、その意味を悟ることができました。ベツレヘムの星は、救い主を求める熱心に主が応えてくださった主の導きです。救いを求める心と情熱がそれぞれのクリスマスの星を見つけることができます。主なる神様の方で御言葉を通して、私たちにその愛と救いを知らせてくださいました。ヨハネ3:16。ですから、「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう」とするのです。ホセア6:3。
 主が星空のような世の中から、私たち一人一人を見つけ出し、救いに導いてくださいました。ですから、「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ」と言われています。イザヤ55:6。今や東方の博士たちのように星を観察する必要はありません。聖書の御言葉を観察し、黙想し、適用することでこの上も無い喜びを享受することができます。私たちも、博士たちのように救い主を求め、救いの喜びと感激を思い出して救い主を礼拝することを願います。箴言8:17。



マタイ2:1 イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
2:2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」
2:3 それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。
2:4 そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。
2:5 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。
2:6 『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」
2:7 そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。
2:8 そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」
2:9 彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。
2:10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。
2:11 そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。


民数記24:17 私は見る。しかし今ではない。私は見つめる。しかし間近ではない。ヤコブから一つの星が上り、イスラエルから一本の杖が起こり、モアブのこめかみと、すべての騒ぎ立つ者の脳天を打ち砕く。

箴言8:17 わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける。

詩篇119:105 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

ホセア6:3 私たちは、知ろう。【主】を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」

イザヤ55:6 【主】を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。

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