小グループで聖書を学ぶ

さえぎられた目が開かれて(ルカ24:13〜32)

「心の門を開いて」

 私たちは、人生において多くの問題に出会います。期待通りにならず失望したり、落胆したりします。兄弟姉妹やその家族が困難に出会ったり、病気になったりします。そんな私たちに、イースターのメッセージが与えられます。

「御言葉の種を蒔こう」

1 エルサレムから近くの村へ行こうとしている二人の弟子の姿を私たちに見せています。どんな姿ですか。何をしていますか。彼らの心境はどうですか。
・13〜17節/


2 「この日」はイエス様の復活の日です。イエス様が十字架で殺されてしまい、希望を失った二人は、失意と落胆に打ちひしがれて、エルサレムを出て来ました。道中二人は、悲観的に、否定的に論じ合い、ますます落ち込んでいました。イエス様が彼らに近付いて来られても、「目がさえぎられて」気付きませんでした。これは、失意と落胆のために見えるべきものが見えていない、気付くべきことに気付けない、考えられることが考えられない、ということをあらわしています。なぜ、そのようになっていたのでしょうか。
・19〜21節/


3 彼らなりの望みがあって、イエス様がそれを実現してくれると期待していたのですが、そのイエス様が十字架に付けられて、殺されてしまいました。自分の願い通りには事がならなかった、ということが強調されています。これが、私たちを失意と落胆に陥らせます。「こうなってほしいな、こうならなければ」という願いや考えを持っていたにもかかわらす、かえって反することが起きてしまいました。それでは、意気消沈してしまいます。あなたも、そのようになる時がありましたか。



4 彼らは復活のニュースを聞いても、信じませんでした。22〜24節。自分の望みに固まっていたからです。彼らに信仰はありましたが、自分なりの信仰、自分の考えの中でしか現実を見ようとしていませんでした。どうしたら、失望と落胆から救い出されるのでしょうか。彼らのところに来られたイエス様が話してくださったことは何でしたか。
・25〜27節/
・ローマ4:25

5 エルサレムで起こったことは、みな聖書に書かれていたことです。イエス様が人となって世に来られ、罪の赦しと天国への命を与えるために、私たちの身代わりに十字架かかり、よみがえるということを説明してくださいました。私たちが失意や落胆から立ち上がるには、御言葉に立ち返り、イエス様を信じて、救われていることを確信することです。このことを知って思うことは何ですか。



6 自分の思惑通り進めば信じるというのは、自分教に過ぎません。クリスチャンの悪い習慣は、御言葉通り信じることをせず、自分の考え通りになることだけを願うことです。願い通りならないと、失望落胆し、信じられなくなります。それでいて、御言葉通りのことが起こると、そんなことがあるのかと驚きます。イエス様を信じることは、聖書を神の御言葉だと信じることです。次のような御言葉を読んで、どんな思いが与えられますか。
・エレミヤ29:11/
・Tコリント10:13/

7 イエス様は、私たちを失意や落胆から立ち上がらせるために、どうしてくださいますか。落胆している二人の弟子たちにどうしてくださいましたか。イエス様を信じた者に対して、どうしてくださいますか。
・15,17,19節/
・ヨハネ14:16〜17

8 イエス様は、信じた者とともにいてくださって、交わりを持ってくださいます。イエス様に対して、彼らは、望み通りならなかった無念を吐露しています。これが大事です。苦しい思いを祈って、失意の思いを聞いてもらいましょう。二人は、イエス様と話しながら、否定的な思い、信じない心が変えられて行きました。イエス様と祈りの交わりを持つならば、そして、イエス様に信頼して御言葉を聞くならば、私たちの心は、どうなりますか。イエス様と交わり、イエス様と話していたこの弟子の心はどうなりましたか。
・30〜32節/


9 イエス様と交わり、心励まされた彼らは、その後どうしましたか。私たちは、苦難の中で励まされ、主に信頼するために、何が必要ですか。
・33〜35節/
・Tテサロニケ5:11, ヘブル3:13/

「命の実を刈り取ろう」

 私たちにも、苦難の中で自分を励まして、主に信頼させてくれる信仰の友の交わりが必要です。エマオ村途上の弟子たちは、問題や患難で失意や落胆に陥る私たちの姿でした。望み通りにならないために、否定的、悲観的なことばかりを論じてしまう私たちの姿です。きょうの学びを通して自分に必要なこととして示されたのは何ですか。

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