2022年1月2日「思い巡らす黙想の道」使徒20:13〜16

序−京都に「哲学の道」という散策路があります。哲学者西田幾太郎や田邉元などがこの道を歩きながら思索を深めていたのに因んで名付けられたそうです。今朝、パウロが一人で道を歩いて黙想している信仰の姿から、私たちも思い巡らしながら歩む信仰生活を学びます。

T−一人で歩くアソスへの道−
 トロアスで感動的な礼拝を聖徒たちとささげたパウロは、月曜日トロアスを出発して南にあるアソスへ向かいました。13節。読み過ごしてしまうような一節ですが、何か変です。パウロは、同行者がいる時には、一緒に旅をしていました。この時も、伝道チームとエルサレムへ義捐金を運ぶ各教会の代表たちが一緒です。4節。それなのに、パウロ一人だけ歩いてアソスに向かい、他の同行者は船で行くというのです。
 別な所へ行くわけでもなく、同じアソスへ行くのに、パウロだけ歩きなのです。それに、旅路を急いでいるのに、歩いて行くというのです。16節。老いて傷付いた体にも、歩きより船の方が、楽なはずです。なぜ、一人だけ歩いて行くのでしょうか。13節を見ると、あえてパウロがそのように決めていたようです。何か理由があるに違いありません。
 3節では、シリヤ、つまりアンティオキアに帰ろうとしていましたが、陰謀から逃れるためにマケドニアを経由している間に、エルサレムに旅の終着地が変わっています。16節。おそらく、以前の伝道旅行の際行き先が聖霊によって変更させられたように、今回もこの間に聖霊によってエルサレムへ行き先変更されたようです。22節に「御霊に縛られて」と表現されています。行きたくないという印象です。なぜなら、エルサレムでは「鎖と苦しみが待っている」と教えられていたからです。23節。
 私たちがこれから苦しい辛いことが分かっていたら、どうですか。どれほどこの先不安で仕方ないということになりませんか。とても、平静ではいられないでしょう。その先のことをどう受け止めていいのか、心が揺れ動いてしまうのではないですか。そんな時、どうしますか。
 アソスという町は、哲学の盛んな所です。有名な哲学者アリストテレスがここで哲学を教えていました。アリストテレスは、散策しながら教えていたので、彼の学派は、逍遥学派と呼ばれました。このことを知っていたパウロは、アソスまでの道を自分一人歩いて思い巡らし、黙想するために、別行動を取ったのだと思われます。
 かつてアジアで福音を語るのを聖霊によって禁じられた時、私にはできないのかと思ったらそこで宣教旅行は終わりでした。でも、その時、祈りながら北へ北西へと行き先を変えながら進み、ついにトロアスでマケドニア人の幻を見て、勇躍マケドニアへ渡り、ヨーロッパへ福音が伝わることになりました。そこに神の御心があったことが分かりました。
 自分が納得できないことに出あったら、人は葛藤し、悩むでしょう。神様への不満や不信が生じるかもしれません。詩篇73篇のアサフは、自分が懸命に道徳的な生き方をして来たことが無駄であるように感じて苦しみました。悪者が富み栄えるのを見て、空しくて、辛くてたまりませんでした。その思いを人々にぶちまけたくなりましたが、思い留まり、苦しさの中で思い巡らし黙想しました。そして、ついに聖所に入って、神様と交わり、御言葉を聞いて、悟ることができました。詩篇73:13〜17。
 危険なエルサレムに行くことを受け止めることができなかったパウロは、トロアスからアソスまでを自分一人で歩いて、聖霊から聞いたことを思い巡らしました。箴言16:9。神様に問いかけ、祈り、黙想しました。

U−歩きながら思い巡らしたので−
 どのように思い巡らしたのでしょうか。始めは、アサフの詩篇のように、「どうして鎖と苦しみが待つエルサレムに行かなければならないのですか。他の道を用意してください」などと嘆き、訴えたことでしょう。ある詩人は、うなだれながらも、神様に戸惑いや嘆きを申し上げています。詩篇42:9。パウロも、思い巡らしながら、これまでの導きの確かさを思い出しました。詩篇77:11〜12。そして、歩きながら黙想して、苦難や試練の中でも変わりなく導いてくださる神様への信頼が増して来ました。
 そして、後の24節で言うように「神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分の命は少しも惜しいとは思いません」というところまで心が導かれました。エルサレムでは鎖と苦しみが待っているから終わりだではなくて、鎖と苦しみがあっても、福音を証しする任務を全うできるということに思いが開かれました。
 ですから、私たちも、「どうして、なぜ」ということに出あう時、どうにも受け止めがたい現実に向き合う時、葛藤し、嘆き、悲観してしまうでしょうが、それでも、パウロのように信仰で思い巡らし、黙想してみるのです。主に申し上げるのです。それこそ、時には外に出て散策しながら、その問題や出来事を思い巡らし、祈り、黙想してみましょう。そのことを受け止められるようになるばかりでなく、そこにも使命を全うする道があることを悟るように導かれるでしょう。
 パウロも「主よ。私が鎖と苦しみを受け止めることができるようにしてください」と主に祈りながら、歩いたことでしょう。その道は、小アジアで最も西にあり、そのエーゲ海の向こうには、パウロが「ローマまでも行かなければならない」と言ったローマがあります。使徒19:21。思い巡らしながら、今は分からないが、主が与えてくださったローマまでの道も、エルサレム以後開かれるのだろうと思うようになったのでしょう。
 心が定まったパウロは、アソスで先に船で来ていた同行者たちと落ち合い、一緒にアソスを出発し、幾つかの港を経て、ミレトスに着きました。14〜15節。もう迷いなく進んでいます。ミレトスはエペソの南にあります。何とあの3年間も留まって御言葉を教え続けたエペソには寄らないで、エルサレムへ旅路を急ぐことにしたというのです。16節。
 なぜ、エペソを素通りするほどエルサレムへ急ぐのでしょうか。「できれば五旬節の日にはエルサレムに着いていたい」からです。五旬節は、ユダヤ人3大祭りの一つです。飢饉で苦しんでいる人々に祭りの時まで義捐金を渡したかったのです。それに、五旬節は、クリスチャンにとっては、ペンテコステ、聖霊降臨日です。皆が集まる時ですから、ギリシャや小アジアの宣教報告をしたかったのです。人々を助け、聖徒たちと交わることが、パウロの鎖や苦しみへの不安や恐れを乗り越えさせてくれたのです。
 私たちは、自分が気分良く過ごせて、自分が望むように事が進むことを望むものですが、どうしたら神様が喜んでくださるだろうか、どのようにして人を助け、人の益となれるかを考えるようにしたいものです。

V−黙想の道−
 聖霊がパウロに、エルサレムでは鎖と苦しみが待っていると教えてくれたのは、ピリピかトロアスでしょうか。パウロには、それを受け止め、そこにある主の導きを信頼する必要がありました。アソスへの道を歩きながら主に問いかけ、祈り、黙想したことでしょう。それは、イエス様と一緒に歩いた道とも言えるでしょう。アソスへの道は、黙想の道でした。
 そして、アソスに着いた頃には、心定められて、エルサレムへと進むことができるようになっていました。クリスチャンにとって、この信仰で思い巡らし、黙想することが必要です。何か問題や試練がある時、戸惑い迷っている時ばかりでなく、私はどう生きるか、どんな思いが必要か、主は自分に何を求めておられるのか、どのように働き、学ぶのか、どのように用いられるのか等々、思い巡らし黙想することが必要です。
 もちろん、デボーション、静思の時という信仰生活の習慣も勧められており、家の中でしているでしょう。でも、こうしてパウロが示してくれた思い巡らしながら歩く黙想の道を私たちも歩いてみませんか。今でも、トロアスからアソスまでは昔の細い道があり、美しいエーゲ海が見え隠れするそうです。パウロは、そんな道を歩きながら、思い巡らし黙想したので、一層神様の導きを確信することができたのです。
 散歩しながら思索したのは、何も昔の哲学者ばかりではありません。たとえば、あのアップルの創業者スティーブ・ジョブズも、アップルのある地区周辺の散歩コースを長時間散歩することで有名でした。彼は歩きながら、運動し、熟考し、問題解決のヒントを思いつき、そして誰かと歩きながら会議までしていました。パウロのアソスへの道は、散歩の効用がプラスされて、より深く確かに思い巡らし黙想することができました。
 宗教改革者ルターは、改革を抑えようとする神聖ローマ皇帝とローマカトリックからヴォルムス議会に呼び出されました。ヴィッテンベルクからヴォルムスへの道は、ルターにとって、苦しい道であり、思い巡らしながら歩みました。自分の決定によっては、自分の命だけでなく、改革が頓挫してしまうからです。思い巡らした結果、そこに行ってはっきりと間違いを指摘し、聖書の教えることを堂々と宣言することができました。
 人は自分が望まない道を行く時、不安や恐れがあります。この不確実で混沌とする世にあって生きて行くには、主の助けや導きが必要です。それを得るためには、信仰の友と共に集まり礼拝し、御言葉の恵みを分かち合い、互いに励まし合うとともに、日々思い巡らし黙想する信仰生活が必要です。新しい年が、思い巡らし黙想する歩みとなりますように。箴言16:9。



使徒20:13 私たちは先に船に乗り込んで、アソスに向けて船出した。そこからパウロを船に乗せることになっていた。パウロ自身は陸路をとるつもりでいて、そのように決めていたのである。
20:14 こうして、パウロはアソスで私たちと落ち合い、私たちは彼を船に乗せてミティレネに行った。
20:15 そこから船出して、翌日キオスの沖に達し、その次の日サモスに立ち寄り、さらにその翌日にはミレトスに着いた。
20:16 パウロは、アジアで時間を取られないようにと、エペソには寄らずに航海を続けることに決めていたからである。彼は、できれば五旬節の日にはエルサレムに着いていたいと、旅路を急いでいたのである。


使徒20:22 御覧なさい。私は今、御霊に縛られて、エルサレムに行きます。そこで私にどんなことが起こるのか、分かりません。
20:23 ただ、聖霊がどの町でも私に証しして言われるのは、鎖と苦しみが私を待っているとことです。

詩篇73:16 私は、これを理解しようとしたが、それは、私の目には苦役であった。
73:17 ついに私は、神の聖所に入って、彼らの最後を悟った。

詩篇77:11 私は、主のみわざを思い起こします。昔からのあなたの奇しいみわざを思い起こします。
77:12 私は、あなたのなさったすべてのことを思い巡らし、あなたのみわざを、静かに考えます。

箴言16:9 人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、主が人の歩みを確かにされる。

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