2022年1月9日「走るべき道のりを走り尽くし」使徒20:17〜27

序−この時期、多くの駅伝やマラソンが行われます。聖書も、賞を得るように信仰の生涯を走りなさいと教えています。Tコリント9:24。使徒パウロも、信仰の生涯を走ることに例えています。パウロの訣別説教とか遺言とか言われている箇所を通して、思い入れをもって学びます。

T−これまでを振り返って−17〜21
 パウロは、エペソの南にあるミレトスまで来ました。エペソの長老たちをミレトスに呼び寄せました。17節。もう会うことができないと覚悟して、別れを告げ、遺言のような内容を言っています。まず、エペソに来てからどのように生きて来たかを振り返っています。18〜21節。
 謙遜と涙をもって仕えたと言っています。19節。人々に益となることならば何でも公的にも私的にも伝えました。とにかく、神の召しに応えて御言葉を伝えたということです。富や欲や偶像に囚われて空しく死んで行く人々を放っておけなかったのです。イエス様を信じて救われた者は、神の召しを受けた者です。神に召された者は、自分をささげて召しに応えます。そうしなければ、成長することもなく、賞を得ることもありません。
 パウロは、人々に対して、神に対する悔い改めとイエス様に対する信仰を証ししました。21節。しかし、ユダヤ人からは、自分たちの慣わしに違反すると憎まれ、迫害されました。偶像に仕えるギリシア人からは、商売の邪魔だと攻撃を受けました。悔い改めということ自体、自分が間違っていることを認めることです。あなたは間違っていると言っているようなものです。当然、人々は認めたくない、反発するのです。
 それでも、パウロは、人々が罪と滅びから解放されて、天国への命を得るようにと福音を伝えました。自分を傷つける者をも救わなければならなかったのです。イエス様も十字架上で人々から嘲りや罵りを受けながらも、彼らのためにとりなし祈られました。ルカ23:34。
 ですから、パウロは、「涙とともに主に仕えて」来たと告白しています。この涙とは、苦難と試練による涙です。涙の原文は、複数形になっています。つまり、パウロは、エペソで働いている間に多くの涙を流したということです。それを思い出した長老たちも涙したことでしょう。召しに応えて生きる信仰の生涯、人々に仕えることには、涙が伴います。仕えて、助けているにもかかわらず、反発や攻撃を受けることもあります。それでも、パウロは、益になることは余すことなく伝え、教えました。
 パウロの訣別の語り出しは、日本語訳では「あなたがたは」となっていますが、原文では「ご存じのように」で始まっています。18節。パウロのエペソでの働きについて、エペソの長老たちがよく知っているということが強調されています。パウロがいつもどのように過ごしてきたか、数々の試練の中で謙遜と涙をもって仕えて来たこと、益になることはあますところなく伝え、教えて来たことをご存じの通りですと確認しているのです。
 エペソの長老たちは、3年間一緒に働き、共に過ごしました。パウロがどのように主に仕え、聖徒たちを愛し、福音を伝えたか、よく見て来たので、よく知っていました。それを思い出させている理由は何でしょう。自慢しているわけではなく、自分のように生きてほしいということです。Tコリント4:16,ピリピ3:17。
 私たちの人生は、隠すことができません。人生を走る姿は、人々に見られます。周りの人々は、私たちの生き様をよく知っています。パウロが私を見ならってくださいというのは、私たちにとって挑戦のように思えますが、救われた聖徒たちがイエス様を見ならって生きることは当然です。その姿を見ならってもらえばいいのです。Tコリント11:1。駅伝は、前に走っている人の走りにならって走ります。そうして、つながって行きます。

U−神に召された者としてこれからも−22〜24
 パウロは、これから、聖霊に示されたように、エルサレムへ行きます22〜23節。そこで私にどんなことが起こるのか分かりませんと言っていますが、鎖と苦しみが私を待っているということは知っています。分からないと言ったのは、鎖と苦しみに対するパウロの覚悟でしょう。
 パウロは、鎖と苦しみが待っているのを知って、エルサレム行きを決断しています。24節。これは、パウロの信仰告白、神様からの召しへ応答です。パウロは、鎖と苦しみが私を待っているエルサレムへの道を「自分の走るべき道のり」と呼んでいます。その道を走り尽くす目的は、「主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全う」するためです。さらには、この主から受けた任務、使命を全うできるなら、「自分のいのちは少しも惜しいとは思いません」とまで言うのです。
 命を賭けているのです。これこそ使命です。人は、主からの使命、神からの召しなどあまり考えないかもしれません。それどころか、自分の望みや願いを神様が叶えてくれることばかり考えるでしょうか。そこに信仰生活の問題があります。主からの召し、聖霊の導きを意識すると、神の御前で自己中心の思いを下ろすようになります。自分の思いとは根本的に違う神の御心を知ることになるからです。自分の肉の思いよりも素晴らしい神の御心を確信できるなら、従うことができます。
 そうすると、世のどんな試みや苦難も、主の召しに従おうとする聖なる意志をくじくことはできません。長老たちに対して、パウロがこの道を走り尽くすと遺言のように言っているのは、「あなたがたも、エペソにおいてこの道を走ってください」と願っているのです。こうして、信仰と奉仕のたすきを繋いでいるのです。
 経営学者ピーター・ドラッカーは、経営のためには、まず「我々の使命は何か」を知らなければならないと言います。社会に役立つことが使命となり、自分のメリットや都合は使命ではない、使命が何をすべきかを教えてくれると言っています。私たちがイエス様を信じて救われた者であるならば、自分の使命を悟るようになります。その使命のために人生を走り尽くすなら、後悔のない素晴らしい人生となるでしょう。
 そんな走りを見せてくれるのが、パウロです。そもそも、パウロがこの道を走り始めたのは、ダマスコ途上イエス様に出会った時です。眩い光の中で「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」というイエス様の声を聞きました。使徒9:4〜6,15。イエス様がすでに自分を知っておられ、自分のための偉大な計画をもっておられることを知りました。使命を受けて持ったので、考えが変わり、人生が変わりました。偉大な人生を生きるようになりました。
 私たちの使命は何でしょうか。救いに召されたなら働きと使命があります。それをなすことができるように主が助けてくださいます。Uテサロニケ1:11。パウロは自分が受けた使命に命をかけています。なぜでしょう。そこに命をかけてもよい価値と大切さがあったからです。私たちが命をかけてもよい使命は何でしょう。そのために走っているでしょうか。

V−最後まで忠実に走り−25〜27
 25節の始めに、訳されてはいませんが、「見よ」という言葉があります。強調したい時に使われる表現です。そして、その後に「今、私は知っています」が続いています。動詞だけで主語が私と分かるのに、「私」がわざわざ付け加えられています。「私、私は知っている」と強調しています。
 長老たちが「もう二度とパウロの顔を見ることがない」ということを強調しています。エルサレムに行ったら、もう二度と会うことはできないという覚悟を示したのでしょう。確かにそう通りになります。これは別れを惜しんで感傷的になっているのではありません。パウロが言ったことを心に刻んでほしいということです。
 パウロは、エペソでの自分の走るべき道のりを走り尽くしたという思いを26~27節で記しています。「私は、神のご計画のすべてを、余すところなくあなたがたに知らせたから、もう自分には責任はない」と言っているのです。エゼキエル33:2〜6の見張り人の例えを意識しています。見張り人が伝えれば責任はないが、伝えなければその責任を問われたように、御言葉を任せてくださった御言葉を伝える責任が神の民にありました。
 パウロは、そのエペソでの責任を果たしたと強調しています。私たちも主から立てられた聖なる見張り人の意識をもって、自分に与えられている使命を全うしたく願います。
 人は、誰でも人生において困難な道があり、苦しい道を行く時があります。パウロの走るべき道のりは、苦しみの連続でした。なぜ、パウロはそんな道を走り尽くすことができたのでしょうか。イエス様との出会いがあったからです。イエス様からの召しを覚えたからです。私たちも、この年走るべき道のりがあります。そのためには、日々私たちの人生に臨むイエス様を覚えましょう。イエス様と出会いを経験しましょう。
 やがて、パウロは地上の生涯が終わろうとしていた時、「私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました」と告白することになります。Uテモテ4:7。私たちは、不安や恐れの思いにおおわれてしまうことがあります。自分はだめだと落ち込むこともあります。しかし、自分自身に問うてみましょう。「私は、果たして自分の人生を最善を尽くして走ってきただろうか」。この年、走るべき道のりを走る一年となることを願います。Uテモテ4:7。



使徒20:17 パウロは、ミレトスからエペソに使いを送って、教会の長老たちを呼び寄せた。
20:18 彼らが集まって来たとき、パウロはこう語った。「あなたがたは、私がアジアに足を踏み入れた最初の日から、いつもどのようにあなたがたと過ごしてきたか、よくご存じです。
20:19 私はユダヤ人の陰謀によってこの身にふりかかる数々の試練の中で、謙遜の限りを尽くして、涙とともに主に仕えてきました。
20:20 益になることは、公衆の前でも、家々でも、あますところなくあなたがたに伝え、また教えてきました。
20:21 ユダヤ人にもギリシア人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰を証ししてきたのです。
20:22 ご覧なさい。私は今、御霊に縛られてエルサレムに行きます。そこで私にどんなことが起こるのか、分かりません。
20:23 ただ、聖霊がどの町でも私に証しして言われるのは、鎖と苦しみが私を待っているということです。
20:24 けれども、私が自分の走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません。
20:25 今、私は知っています。御国を宣べ伝えてあなたがたの中を巡回した私の顔を、あなたがたはだれも二度と見ることがないでしょう。
20:26 ですから、今日この日、あなたがたに宣言します。私は、だれの血に対しても責任がありません。
20:27 私は、神のご計画のすべてを、余すところなくあなたがたに知らせたからです。


ピリピ3:17 兄弟たち。私を倣う者となってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。

Tコリント11:1 私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者でありなさい。

使徒9:4 彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞いた。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」
9:15 しかし、主はアナニヤに言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。

Uテモテ4:7 私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。



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