2022年1月16日「自分と群れに気を配る」使徒20:28〜38

序−パウロの遺言のような訣別説教の後半は、エペソ教会の長老たちに、教会とは何か、聖徒たちはどう生きるのかについて語った内容となっています。ですから、私たちにも語られたこととして学びたいと思います。

T−イエス様が血をもって買い取られた神の教会−28
 まず、「あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい」命じています。28節。その理由は、「聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになった」と教えています。
 「神がご自身の血をもって買い取られた神の教会」というところに教会の本質が端的に説明されています。つまり、教会は、神の御子イエス様の尊い犠牲を払って立てられたものだというのです。Tテモテ2:6。神様は、人を救うために、人の罪の身代わりとして御子イエス様を十字架に渡されました。ローマ8:32。ですから、神様が教会をご覧になられる時、最も大切なものとして見られるのです。28節には、聖霊、父なる神、御子なるイエス様が記されています。三位一体の神が教会を造られたということです。
 そして、私たちはイエス様の十字架の犠牲によって救われ、罪赦され、天国への命をいただいて、教会に加えられました。ですから、神様が最も大切にされる教会で生きなければなりません。神様は、この地にこの教会を立てられ、イエス様を通して救ってくださった私たち一人一人を、この教会に加えてくださいました。
 イエス様は、そのからだなる教会のかしらだと言われます。コロサイ1:18。パウロが光の中でイエス様の声を聞いた時、「主よ。あなたはどなたですか」と聞いたら、「わたしは、あなたが迫害するイエスである」と答えられました。使徒9:5。パウロが教会を迫害したことは、イエス様を迫害したことだというのです。ですから、私たちが葛藤し、苦しむならば、そのかしらなるイエス様が痛み、苦しまれるのです。
 ですから、教会に加えられ、召された者は、「自分自身と群れの全体に気を配りなさい」と求められているのです。教会を、神様が御子イエス様の尊い犠牲をもって立ててくださった教会と見てください。自分自身を、神様が御子イエス様を十字架に渡されて救ってくださった者なのだと見てください。どれほど大切で重要な存在でしょうか。ですから、自分自身に気を配り、教会全体にも気を配らなければならないのです。イエス様の犠牲を払って買い取られた自分自身を大切にしましょう。感謝して、喜んで教会に仕えて生きなければと思わされます。
 なぜ、神様は私たちを救われ、教会に召して加えてくださったのですか。神様が最も愛して大切にしてくださった教会を立てながら生きるように、教会にあって育んでくださるためです。ですから、自分の肉の思いを掲げて傷付け合ったりすることはできません。教会が葛藤すれば、そのかしらであるイエス様が苦しまれます。救われた私たちは、キリストのからだなる教会を築く人生を生きるのです。かしらなるイエス様の指示を受けて、イエス様ならどうされるのかを考えながら生きるのです。

U−内憂外患に注意する−29〜30
 この「気を配りなさい」という原語は、注意するという意味です。では、パウロは、エペソの長老たちに、どんなことに注意するように言っているのでしょうか。29節。パウロがエペソを去ったあと、狂暴な狼がエペソ教会に入り込んで来て、群れを荒らし回るからだというのです。パウロが3年間エペソで働いていた時も、偽預言者や間違った教えをする者たちが入り込んで来ました。パウロがいる間は斥けられましたが、パウロが去った後も入り込んで来るでしょう。
 だから、「あなたがたが群全体に気を配ってください」と頼んでいるのです。現代社会にも、様々な偽りの教えがあります。偶像に関わる教えもあれば、キリストらしく装いながら似て非なること教えて、滅びに導くものもあります。私たち自身が気を付けることはもちろん、他の聖徒たちにも気を配る必要があります。
 では、エペソ教会は、この点どうなったでしょうか。長老たち、エペソ教会の聖徒たちは、どうしたでしょうか。黙示録2:1〜3に記録されています。使徒と自称する者たちが、偽り者だと見抜いたことが評価されています。信仰的な労苦と忍耐があり、イエス様の御名のために偽り者へ対処することに耐え忍び、疲れ果てることがなかったと称賛されています。パウロが3年間留まって、福音を伝え、御言葉で養育していたので、偽り者を見抜き、群れを守ることができました。
 パウロは、もう一つ気をつけるべきことを警告しています。30節。もっとエペソ教会が気をつけなければならないことは、自分たち自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるということです。「曲がったこと」という言葉の原意は、完全に回転して違うものにするという合成語で、真理を歪めてしまうということです。人の肉の思いに合わせてあれこれ言って、御言葉を曲げてしまい、聖徒たちの信仰を歪めてしまう人々が、エペソ教会の中から出て来ると警告しているのです。
 この時は、パウロ先生との別離を悲しみ、パウロの遺言のようなことを聞いている時です。こんなことを言われて、どう思ったでしょうか。人には罪の性質が残っています。神様を信じているとしても、自分の肉の思いのために、御言葉を歪めてしまう危険があります。信仰生活をしていると、自分の都合で御言葉よりも世の価値観に流れてしまうことがあります。このような真剣になっている長老たちにもそのような危険があるというのですから、私たちも、自分は例外だと流すわけには行きません。自分の感情と周囲との関係から、そういうことが出て来ます。
 実際に、エペソの教会の聖徒たちは、この点についてどうなったのでしょうか。黙示録の続きを見てみましょう。黙示録2:4〜5。初めの愛から離れてしまったと責められています。悔い改めて初めの行いに戻らないと祝福が取り去られると警告されています。初めは、福音を聞いて感謝して喜んでイエス様を愛し、御言葉に聞き従っていたのでしょうが、やがて信仰が歪んで、主を愛することが薄れて行ったのです。
 信じたあの時の感激はどこに行ったのか、救われた恵みを感謝する思いは今どうか、御言葉の適用に喜び決心したことはどうなったのかということです。私たちの初めの愛は、今どうなっているのでしょうか。

V−目を覚まし、恵みの御言葉に変えられ、人に仕えます−31〜38
 では、そんな危険に陥らないためには、どうすればいいのでしょうか。偽り者から自分と聖徒たちを守り、信仰を歪める誘惑に陥らないようにするには、「目を覚ましていなさい」と言っています。31節。霊的に覚醒しているということです。勝手気ままにするのでなく、信仰的に生きるということです。パウロは、「三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください」と言っています。どれほどパウロの思いがこもっている言葉でしょうか。聖徒たちを説教や御言葉の養育を通して養い、整えて来ました。それなのに、聖徒たちが初めの愛から離れてしまったら、どんなに残念なことでしょうか。
 ですから、今パウロは、エペソの聖徒たちを「神とその恵みのみことばにゆだねます」と言っています。32節。それは、御言葉が、聖徒たちを成長させ、御国を受け継がせることができるように養い、整えてくれるからです。エペソの長老たち聖徒たちが、神とその恵みの御言葉に従うように、御言葉の養育を続けるようにと頼んでいるのです。
 わざわざ「恵みの御言葉」と言っています。エペソでパウロが3年間人々に語ったのは、恵みの御言葉でした。神様が私たちをどれほど愛されているか、神様がどれほど慈愛と恵みに満ちた方であるか、福音がどれほど恵みに満ちたものであるかということを伝えました。恵み中心、恵みが核心の御言葉を伝えたのです。この恵みを悟った人々が、造り変えられ、成長し、御国を受け継ぐ者となったのです。叱られて変化したのではなく、福音の恵みによって変えられていくのです。
 そして、最後に、世の富を求めるのではなく、地道に働いて、人を助けて、仕えて来た自分の姿を紹介し、そのような信仰生活を勧めています。33〜35節。この「受けるよりも与えるほうが幸いである」とは、イエス様が示してくださり、言われたことを要約する核心の言葉です。マタイ10:8。受けた救いの恵みを覚えれば、人を助け、仕えるようになります。
 こうしてパウロが語り終えた後、エペソの長老たちと感動的な別れの様子が記されています。36〜38節。跪いて祈ったというところにパウロの切々たる思いが感じられます。長老たちが「声をあげて泣いた」というのも、悲しみで耐え切れず慟哭している様子です。パウロの語ったことがエペソの長老たちへの遺言となったからです。パウロがエペソで生きた信仰生活がこのような感動と影響を与えました。
 私たちはどのように生きて、どんな遺言を残すのでしょうか。パウロが示していたのは、救われたことを感謝して、主を愛して、主からの使命に生きて、教会を立て上げることでした。信仰で生きて、信仰で働き、信仰で人々に仕えた人生を生きるなら、それが遺言となります。Uテモテ4:7。



使徒20:28 あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい。神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになったのです。
20:29私は知っています。私が去ったあと、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、容赦なく群れを荒らし回ります。
20:30 また、あなたがた自身の中からも、いろいろと曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。
20:31 ですから、私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがた一人ひとりを訓戒し続けて来たことを思い起こして、目を覚ましていなさい。
20:32 今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。みことばは、あなたがた成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。
20:33 私は、人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。
20:34 あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、ともにいる人たちのためにも、働いてきました。
20:35 このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示して来たのです。」
20:36 こう言ってから、パウロはみなの者とともに、ひざまずいて祈った。
20:37 みなは声をあげて泣き、パウロの首を抱いて何度も口づけした。
20:38 「もう二度と私の顔を見ることがないでしょう」と言った彼のことばに、特に心を痛めたのである。それから、彼らはパウロを船まで見送った。


Tテモテ2:6 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。

コロサイ1:18 また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一のものとなられました。

黙示録2:1 エペソにある教会の御使いに書き送れ。『右手に七つの星を握る方、七つの金の燭台の間を歩く方が、こう言われる。
2:2 「わたしは、あなたの行い、あなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが悪い者たちに我慢がならず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちを試して、彼らを偽り者だと見抜いたことも知っている。
2:3 あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れ果てることがなかった。
2:4 けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
2:5 だから、どこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。そうせず、悔い改めないなら、わたしはあなたのところに行って、あなたの燭台をその場から取り除く。

Uテモテ4:7 私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。




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