2022年1月30日「主のみこころがなりますように」使徒21:7〜14

序−「人生は、実際に起きたことが10%、出来事に対して自分がどのように反応したかが90%である」という名言があります。確かに、同じ出来事でもその時の態度で変わります。頷くとともに、意識していないことに気付かされる言葉です。今日の箇所も、このことを気付かせてくれます。

T−恩讐を越えて−
 パウロたちは、ツロからプトレマイスを経て、ユダヤのカイサリアに着きました。7〜8節。パウロは、その地にいた伝道者ピリポの家に滞在しました。8節。この伝道者ピリポについて「七人の一人である」という説明が付いています。エルサレム教会で初めて選んだ7人の執事の一人です。使徒6:5。その後伝道者として働き、サマリヤで伝道したのち、エチオピアの高官を信仰に導き、カイサリアに来て住んでいました。使徒8:6,26,40。
 このピリポによる伝道が始まったのは、ステパノの迫害によってエルサレムから散らされたことからでした。使徒8:1。このステパノ迫害に加担し、その後教会を迫害していたのが、若き日のパウロ(当時はサウロ)でした。使徒7:58,8:1。ピリポが故郷を追われてサマリヤ、カイサリアで伝道していた時、パウロは聖徒たちを捕まえて、牢に入れていました。
 20年の歳月が流れて、ピリポには、預言者である4人の未婚の娘とともに伝道者の働きをしています。9節。一方は、パウロは、世界宣教を終えて、今迫害が待っているエルサレムへ行くところです。二人の間にどんな会話がなされたのでしょうか。
 ピリポにとって、パウロは会いたくない人だったでしょう。同僚の執事ステパノの迫害にも関わっていて、憎んでもおかしくない敵のような人です。しかし、福音はピリポがパウロを赦し、受け入れるようにさせました。パウロにとっても、ピリポはとても会うことのできない人だったでしょう。自分がしでかした過去の罪を知っている人を訪問することは、とても心重いことです。しかし、福音はパウロをしてピリポを訪問させました。いつから、このような関係になったのでしょうか。これは、驚くべきことです。
 イエス様を信じて、神の愛と罪の赦しを体験すると、神様との関係が回復され、壊れた関係も回復されます。人間的には、とても回復不可能に見えたパウロとピリポの関係が回復されました。壊れた人間関係に苦しむ人にとって最善の方法は、イエス様の十字架によって罪の赦しと新しい命を与えられることです。エペソ1:7,Tヨハネ5:11。そして、主に赦された者として、憎しみや怒りを乗り越えて、人を赦し受け入れるのです。コロサイ3:13,マタイ18:22,33。
 私たちは、どんな人間関係を持っているでしょうか。たとえば、壊れた人間関係があるとします。壊れた人間関係という事実は事実ですが、その出来事をどう受け止め、どう反応するかで人生は大きく違って来ます。赦しの恵みという福音を自分の人生にも適用することで、福音が大きな働きをすることになります。

U−同じ出来事に二つの態度−
 このピリポの家に一人の預言者が来ることで事件が起きます。9〜10節。ピリポの娘たちが預言者として活動していたので、当時有名な預言者アガボがピリポの家に来ました。そこでパウロに会って、アガボがこんなことを言うのです。11節。「パウロを、ユダヤ人たちはエルサレムでこのように縛り、異邦人の手に渡すことになる」と聖霊が告げられたと伝えたのです。ユダヤ人がパウロを縛って、ローマ兵に渡すというのです。
 このアガボという預言者は、クラウオデオ皇帝の時代に、世界中に大飢饉が起こると聖霊によって預言した人です。使徒11:28。確かに、その通りになりました。ですから、パウロがエルサレムで捕まり、迫害を受けるという預言を聞いた人々は受け入れます。その場に居合わせた者たち、ピリポの家族とパウロの同行者は、すぐさまパウロにエルサレムへは行かないように頼みました。12節。懇願したというくらい必死に止めたのです。
 アガボは、聖霊に教えられた事実だけを、そのまま伝えただけです。行かないように説得しなさいとは言っていません。聖霊の告げたことは、「パウロがエルサレムで縛られて異邦人に渡される」ということだけです。そこにいた者たちは、思い巡らすこともなく、「それなら、パウロが行くのを止めされなければ」と反応しただけにすぎません。
 人は自分の考えや世の価値観が当たり前だと思います。私たちがこの場にいたとしたら、パウロ先生を引き止めたことでしょう。人は、自分に都合の悪いことや望まない苦難があるならば、単純に回避しようとするでしょう。回避することができないことであるなら、悶々として悩むでしょう。自分を責めたり、人のせいにしたりするかもしれません。でも、それは、ただ出来事に反応をしているだけです。神のみこころに思いをはせることもなく、その出来事の意味を思い巡らすこともしません。私たちは、そんな時どうでしょうか。
 もしそのように反応する聖徒がいたら、その信仰はどこに行ったのでしょうか。神様はどこに行ったのでしょうか。その人にとって、福音は何なのでしょうか。福音は、信じた人々の価値観を変え、救われた人々の人生を変えるものです。イエス様に似て行くようになります。
 人々の引き止めに対して、パウロはどう答えたでしょうか。13節。「私は主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことも覚悟しています」と引き止めを退けています。それでも、「泣いたり私の心をくじいたりして」と、人々の涙の訴えを聞いて、心が引き裂かれる思いをしています。これまで苦楽を共にして来た同労者が懇願するからです。同じ伝道者の先輩であるピリポまで引き止めるからです。
 時には、私たちも、このような経験をすることがあります。信仰で決断したことに対して、周りの人々はどうしても世間的な価値観で反応するものです。良かれと思って反対したり、自分のことを思って勧めてくれるので、余計に心痛むことがあります。
 すでに学んだように、パウロも聖霊からエルサレムで迫害に遭うことを告げられてから、葛藤し、幾度も思い巡らし、黙想しました。その結果、この決心に導かれたのです。使徒20:22〜23。パウロは、預言の中に確実に主の御旨を受け止めていました。私たちは、どうでしょうか。

V−みこころのままに−
 パウロの証しと決心を聞いて、その場にいた人々は、「主のみこころがなりますように」と言って、口をつぐみました。14節。まさに、パウロが言ったことが、主のみこころだったのです。泣いてパウロを引き止めようとしていた彼らも、その固い決意を聞いて、主のみこころがそこにあると知って、心は痛いがもう引き止めることを止めたのです。
 私たちがこの言葉を読む時、イエス様のゲッセマネの園での祈りを思い出します。ルカ22:42, マタイ26:42。「父よ。この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように」と祈られました。パウロは、その場に居合わせた聖徒たちが泣いてパウロを引き止めるので、心くじかれると揺さぶられながら主のみこころに従います。一方、パウロの固い決心を聞いて、聖徒たちも、自分たちの願いを押し止めて、主のみこころがなりますようにと応えました。
 私たちは、ここで御言葉や実際の出来事に対する態度を学ぶことができます。パウロもその場にいた人々も、同じ聖霊の言葉を聞いたのですが、その反応や態度はまったく違います。表に出た言葉を聞けば、パウロを引き止める人々の方が正しいように見えるでしょう。しかし、パウロは、自分の思いや常識で反応したのではなく、主のみこころを求め、従ったのです。私たちが物事を決断する時、状況や自分の願いが基準にならないようにしてください。大事なことは、御言葉や出来事に対する態度です。
 冒頭で取り上げた名言は、有名なチャールズ・スインドルという米国の牧師(ラジオ説教者、神学校学長)の言葉です。その証しを引用します。
 「私が長く生きれば生きるほど、態度が自分の人生において大きな影響を与えることを実感しています。態度は事実よりも重要です。…態度は、仲間や教会や家を作ったり壊したりします。忘れてならないのは、私たちがその日にどんな態度を取るか、毎日選べるということです。 私たちは過去を変えることはできません。周囲の人たちの振る舞いを変えることはできません。避けられないことを変えることはできません。 私たちにできる唯一のこと、それが私たちの態度なのです。人生とは、10%が私の身に起こること、90%がそれをどう受け止めどう反応するかであると確信しています。私達は自分の態度や心の持ち方を自分で決めることができます。」
 イエス様は、「あなたのみこころがなりますように」と祈られながら、私たちのための救いを成し遂げられました。その地上の生涯は、御父のみこころをなすために生きられました。救い主イエス様の地上の生涯と御言葉を前に、私たちは、主のみこころに従い生きているのか、振り返ります。聖徒たちの人生は、人の不安や状況の変化に左右されるのではなく、「主のみこころがなる」ことです。人生は、「主のみこころが成し遂げられる」まで忠実に主の導きに従う信仰にかかっています。どのようなことが迫っても、主のみこころがなる道に導かれ、主のみこころに従う人生を終わりまで走る一人ひとりとなることを願います。ルカ22:42。



使徒21:7 私たちはツロからの航海を終えて、プトレマイスに着いた。そこの兄弟たちにあいさつをして、彼らのところに一日滞在した。
21:8 翌日そこを出発して、カイサリアに着くと、あの七人の一人である伝道者ピリポの家に着き、そこに滞在した。
21:9 この人には、預言する未婚の娘が四人いた。
21:10 かなりの期間そこに滞在していると、アガボという名の預言者がユダヤから下って来た。
21:11 彼は私たちのところに来て、パウロの帯を取り、自分の両手と両足を縛って言った。「聖霊がこう言われます。『この帯の持ち主を、ユダヤ人たちはエルサレムでこのように縛り、異邦人の手に渡すことになる』と」と言った。
21:12これを聞いて、私たちも土地の人たちもパウロに、エルサレムには上って行かないように懇願した。
21:13 すると、パウロは答えた。「あなたがたは、泣いたり私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことも覚悟しています。」
21:14 彼が聞き入れようとしないので、私たちは、「主のみこころがなりますように」と言って、口をつぐんだ。


エペソ1:7 このキリストにあって、私たちはその血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。

コロサイ3:13 互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。

使徒20:23 ただ、聖霊がどの町でも私に証しして言われるのは、鎖と苦しみが私を待っているということです。
20:24 けれども、私が自分の走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。

ルカ22:42 「父よ。みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」

マタイ26:42 イエスは二度目に離れて行って、「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」と祈られた。

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