2022年2月6日「それでは、どうしましょうか」使徒21:15〜26

序−社会では、相手のことを思って頑張ったのに、感謝されなかったり、報われなかったりすると、むなしくなり、疲れてしまう人が多いと言われます。また、よかれと思ってしたことで責められたり、他のことで文句を言われて、憤慨することも多いそうです。そんなことを思い起こさせる今日の箇所です。

T−古くからの弟子−15〜16
 パウロの一行は、カイサリアを出発して、いよいよエルサレムへ行くことになります。15節。鎖と苦しみが待っているというエルサレムです。使徒20:23。一行は、パウロの同労者、エルサレム教会への救済献金を運ぶギリシヤや小アジアの教会の代表者でしたが、今はそれに加えて、カイサリアの弟子たちも何人か同行しています。16節。それは、キプロス人ムナソンという人の家に案内するためでした。
 この人については、キプロス人という出身地の他に、「古くからの弟子である」という説明がついています。どうしてでしょう。何か意味があるのでしょうか。イエス様を信じて長いということは分かります。おそらくキプロスからアンティオキアに来た人々の一人で、初めに異邦人に福音が伝えられた頃に救われた人なのでしょう。使徒11:20。忠実に信仰を守り通して来た人、長く信仰生活をしている人であるということです。
 それから、「そこに泊まることにしていた」ということですから、大勢のパウロの一行を泊めることができる広い家をエルサレムに持っていた人です。おそらく仕事でカイサリアとエルサレムを行き来しており、自分の家に連れて来るようにしたのでしょう。それだけ、カイサリアの聖徒たちにも、信頼されていたということです。
 この大事な局面でパウロを泊めることができるという恵みを与えられました。パウロを泊めるということは、迫害の巻き添えや被害も予想されますから、称賛を期待してのことではありません。「古くからの弟子である」ムナソンは、地道に奉仕の生活をし、謙遜に仕えることをして来た人です。見返りや称賛も望まず仕え、ただ用いられたことを感謝する信仰生活でした。だから、この大切な時に用いられたのです。ムナソンのように主に用いられ、仕える人は、神に喜ばれ、人にも認められます。ローマ14:18。私たちは、このような信仰に倣って、私たちもやがてムナソンのような意味での「古くからの弟子となる」ことを望みます。

U−感謝も称賛もされず、問題だけ−17〜21
 ムナソンのような信仰の姿勢がパウロにも見られる事件が起きます。エルサレムに着いたパウロは、聖徒たちに歓迎され、エルサレム教会の重鎮であるヤコブを訪問しました。17〜18節。二人の再会は、10年ぶりです。エルサレム会議以来です。使徒15章。異邦人の聖徒は、割礼を受ける必要はない、罪を避けるだけでよい、イエス様の十字架を信じるだけで救われると確認されたその会議の議長を務めていたのが、ヤコブでした。
 ヤコブの家には、長老たちも一緒にいました。彼らの前で、パウロは、これまでの伝道旅行の報告をします。19節。自分たちの奉仕を通して、神が異邦人の間でなさったことを一つ一つ説明したのです。幾多の問題や迫害に遭いながら福音を伝え、多くの人々が救われました。大変な働きです。
 当然、ギリシアや小アジアの異邦人教会が、エルサレムの聖徒たちを心配して支援献金をしてくれたことも、喜びをもって報告したことでしょう。ローマ15:25〜26。支援献金を携えて来た異邦人聖徒たちが一緒なのですから。この支援献金については、パウロが大変力を入れて、準備して来たことです。このことがエルサレムの聖徒に受け入れられるように祈ってくれと言っていました。ローマ15:30〜31。異邦人とユダヤ人の聖徒たちの融和のために、良かれと思ってしたことです。パウロは懸命に頑張りました。
 そんなパウロの働きと頑張りに対するヤコブと長老たちの反応は、どうでしょう。20節前半。彼らは、神をほめたたえました。当然の反応です。でも、それはそうなのですが、命がけで素晴らしい働きをして来たパウロの報告を聞いたならば、パウロを称賛しませんか。感謝やご苦労様の一言があってもいいような場面です。私たちが頑張ってしてあげたことに対して、何の感謝も称賛もないとしたら、どんな気持ちになりますか。
 パウロは、神がほめたたえられることで満足でした。神の召しに応じて行って来たことなので、神からの称賛があればいいのです。パウロは、一貫して主のみこころに従ってしてきたからです。イエス様も、「右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい」と教えられました。マタイ6:3。称賛や評価を期待して慈善をしないようにということです。私たちが人に仕えることや人を助けることを信仰で取らえないと、どうなるでしょうか。一般的に、人は良かれと思ってやっても感謝や称賛がないと、人の反応が冷たいと思い、頑張っても評価や報いがないと、むなしさや疲れを覚え、もうやるもんかとなります。
 しかしこの時は、称賛や評価がないばかりでなく、このタイミングで問題を持ち出して来たのです。20〜21節。でもイエス様の十字架を信じて救われた者は、律法を守らなければ救われないということから解放されたはずです。そのことは、エルサレム会議で否定されたはずです。それなのに、ユダヤ人の聖徒たちが律法に熱心だと言い、パウロが律法に従うなと言っているという噂があるというのです。何か文句を言っているように、パウロを責めているようにさえ感じます。
 「ユダヤ人に子どもに割礼を施すな、慣習にしたがって歩むなと言って、モーセに背くように教えている」というのは、彼らが聞いていること、つまり噂話、根も葉もないフェイクニュースです。そんなことで問題にして、パウロに何とかしろとなんてあんまりではないでしょうか。こんな場面に接したら、私たちはどうなるでしょうか。一般的に、人が頑張ったにもかかわらず、文句や批判を受ければ、非常にがっかりし、こけにされた、プライドが傷ついたと憤慨するでしょう。
 パウロは、肉のプライドは、救われた時に捨てました。ピリピ3:4〜8。かつて人間的なことを人一倍頼り、プライドとしていたが、イエス様の救いのゆえに損と思っていると証ししています。宣教の働きも、自分がしなければならないことだからしていることで、感謝や評価を求めてしているのではありません。Tコリント9:16。 献金のことも、福音を知らせてくれたユダヤ人聖徒に感謝してのことであり、今度は異邦人の聖徒たちがユダヤ人聖徒を助けようとしただけです。ローマ15:8〜9,27。見返りや感謝を求めてのことではありません。

V−かえって要求に従う−22〜26
 彼らは、こんな噂話があるというだけでなく、その収拾策を提案し、パウロにそうするように迫っています。22節。ヤコブや長老たちは、パウロに関する噂は「根も葉もないこと」だと思ってはいます。しかし、かなりのユダヤ人聖徒がその噂に踊らされて、憤慨している、かき乱されているから、何とかしなければと考えたのです。本当に噂話には困ったものです。Tテモテ5:13。今日も、フェイクニュースが飛び交っています。ニュース媒体にすら載ることがあります。私たちは、自分が聞きたいことだけ聞こうとしないで、果たしてそれは本当なのか、真実はどこにあるのかと考えてみることが必要です。
 「それでは、どうしましょうか」と提案された収拾案は、どんなことですか。23〜24節。なんでも、ナジル人の誓いをしている人たちがいるから、彼らと一緒に神殿に行って費用も出してあげてください。そうすれば、誤解も解けるでしょうと言うのです。これって、パウロにうわさ話の責任を取れとでも言っているかのようです。そうは思っていないにしても、ヤコブや長老たちが、根も葉もないことだと毅然として宣言していれば、済むことではないかと思うのですが。
 感謝や称賛がないばかりか、うわさや誤解の責任も取れと言われたら、どうでしょうか。私たちも、うわさや誤解から文句や抗議を受けることもあるでしょう。パウロは、今そんな状況です。人は、そんな状況だったら、憤慨して、かえって抗議したりするところかもしれません。
 パウロは、どうしましたか。26節。彼らの提案のようにしました。ユダヤ人として律法を守るということを公開しました。怖れや妥協からではありません。パウロは、自分の保身や安心のための提案は拒否しましたが、福音と人の利益のための提案は受け入れました。この提案は、神学や信仰の問題ではなく、習慣や文化の問題だからです。誤解や偏見をなくすためならと応じたのです。
 パウロの宣教姿勢は何ですか。Tコリント9:19〜23。一人でも救うために、ユダヤ人にはユダヤ人のように、弱い者には弱い者になりました。信仰を曲げることでなければ、自分のものさしは置いて、救いのために受け入れるということです。私たちは、福音の真理は固く守りますが、福音を伝える方法についてはいくらでも知恵と柔軟性をもって臨むことができます。私たちは、一つのたましいを救うためにそのたましいに寄り添う聖徒になることを望みます。もし頑張ったのに、よかれと思ってしたのに報われないと感じた時は、仕えることができた、労苦することができたことを主の前に感謝する一人ひとりとなることを願います。Tコリント9:19,22〜23。



使徒21:15 数日後、私たちは旅仕度をして、エルサレムに上って行った。
21:16 カイサリアの弟子たちも何人か私たちと同行して、古くからの弟子である、キプロス人ムナソンのところに案内してくれた。私たちはそこに泊まることになっていたのである。
21:17 私たちがエルサレムに着くと、兄弟たちは喜んで迎えてくれた。
21:18翌日、パウロは私たちを連れて、ヤコブを訪問した。そこには長老たちがみな集まっていた。
21:19 彼らにあいさつしてから、パウロは彼の奉仕を通して神が異邦人の間でなさったことを、一つ一つ説明した。
21:20 彼らはそれを聞いて神をほめたたえ、パウロにこう言った。「兄弟よ。ご覧のとおり、ユダヤ人の中で信仰に入っている人が何万となくいますが、みな律法に熱心な人たちです。
21:21 ところが、彼らがあなたについて聞かされているのは、あなたが、異邦人の中にいるすべてのユダヤ人に、子どもに割礼を施すな、慣習にしたがって歩むなと言って、モーセに背くように教えている、ということなのです。
21:22 それで、どうしましょうか。あなたが来たことは、必ず彼らの耳に入るでしょう。
21:23 ですから、私たちの言うとおりにしてください。私たちの中に誓願を立てている者が四人います。
21:24 この人たちを連れて行って、一緒に身を清め、彼らが頭を剃る費用を出してあげてください。そうすれば、あなたについて聞かされていることは根も葉もないことで、あなたも律法を守って正しく歩んでいることが、皆に分かるでしょう。
21:25 信仰に入った異邦人に関しては、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、淫らな行いを避けるべきであると決定し、すでに書き送りました。」
21:26 そこで、パウロはその人たちを引き連れ、翌日、彼らとともに身を清めて宮に入った。そして、いつ、清めの期間が終わって、一人ひとりのためにささげ物をすることができるかを告げた。



ローマ14:18 このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々にも認められるのです。

マタイ6:3 あなたが施しをするときは、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。

Tコリント9:16 私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。

Tコリント9:19 私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。
9:20 ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人たちには――私自身は律法の下にはいませんが――律法の下にある者のようになりました。律法の下にある人々を獲得するためです。
9:21 律法を持たない人たちには──私は神の律法を持たない者ではなく、キリストの律法を守る者ですが──律法を持たない者のようになりました。律法を持たない人々を獲得するためです。
9:22 弱い人たちには、弱い者になりました。弱い人たちを獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、何人かでも救うためです。
9:23 私は福音のためにあらゆることしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。

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