2022年2月20日「私はどうしたらよいのでしょう」使徒22:1〜21

序−福音を聞いて、イエス様を信じて、クリスチャンになるということはどんなことでしょうか。一度考えてみることも必要です。パウロがどのような人生を生きて来て、どのようにイエス様を信じて、クリスチャンとしてどのように生きるようになったのを学び、参考にしたいと思います。

T−自分の熱心で生きて−1〜5
 パウロは、自分を迫害する群衆に向かって福音を語り始めます。1〜2節。攻撃していた群衆は、パウロが自分たちの言語であるヘブル語を使うのでびっくりして、静かになりました。福音を語ると言っても、パウロは自分の話、つまり、どのようにして福音に出会い、クリスチャンになったかという自分を証しし始めました。まずは、福音に出会う以前の自分がどんな自分であったか、どのように生きて来たかを話しています。3〜5節。
 聞いてびっくりしたでしょう。パウロがきっすいのユダヤ人で、自分たちよりもよっぽど律法に熱心なパリサイ人だったからです。ピリピ3:5〜6。群衆は、偽情報によって、パウロを律法も知らない、反律法主義者のように誤解していました。しかし、パウロは、外国育ちのユダヤ人であっても、エルサレムで最高の律法学者から学びました。でも、ギリシャ文化の中で生まれ、育ち、ユダヤ人の伝統や律法も学んだということが、後の異邦人への宣教師パウロの助けとなっています。
 ですから、私たちの生い立ちや学び、経験も、何かの役に立つのです。そう思って学びを進め、育ちや経験を生かして行くことを考えましょう。そして、小さい頃からの信仰教育がどれほど大切かを思って、教育や子育て孫の養育をしたいと思います。Tテモテ1:5。
 しかし、パウロは律法に熱心なあまりクリチャンを迫害していた者だったのです。4節。パウロは、間違っていたことに熱心であったと繰り返し証ししています。ピリピ3:6, ガラテヤ1:14。19〜20節でも、ステパノの殺害に賛成し、その殺害に立会い、信徒たちを牢に入れ、鞭打っていたと言っています。なぜ、こんなひどい罪だらけの自分をさらけ出したのでしょう。迫害や罪の行動がどうして起こるかを知らせるためです。そのキイワードは、「熱心な者でした」ということです。4節。その誤った熱心が、パウロを酷い迫害者にさせたのです。
 パウロは、神に対して熱心だと言っていますが、神様は聖徒たちを迫害するなんて望まれません。それは、パウロ自身の肉の熱心でした。かつてのパウロは、自分の熱心に生きていた人でした。私たちも自分勝手な熱心に陥ることがあります。自分はいいと思っていますから、我を通し、他人に痛みや害を及ぼします。その熱心はどこから出たものでしょうか。神からですか。自分の肉の思いからですか。自分が生み出した熱心を押し通そうとするから、問題が生じます。自分は正しいと思っても、その熱心は正しい知識に基づくものですか。御言葉に基づくことですか。ローマ10:2。
 でも、何とそんなひどい間違いをしていたパウロが主に用いられるようにました。自分の過ちを認めて、悔い改めたからです。救われて、新しくされ、造り変えられたからです。Uコリント5:17。私たちは、過去間違ったことがない者なのでしょうか。いいえ、幾多の過ちや罪を犯しました。聖書に登場する神の人と言われる人も、同じです。アブラハムもモーセもダビデも間違いをしでかし、罪を犯しました。しかし、悔い改めて神に用いられる者となりました。その生い立ちや経験、性質や能力が新しいイメージで用いられるようになりました。私たちも同じです。パウロの熱心は、人を救う熱心として用いられることになりました。これまで学んだ通りです。

U−イエス様と出会う−5〜16
 そんな迫害者パウロの人生を180度変えたのは、イエス様との出会いでした。誤った熱心が高じて、大祭司のお墨付きをもらって外国のダマスコにいるクリスチャンを捕まえに行きました。5節。その途中、まばゆい光がパウロを照らし、イエス様の声が聞こえました。6〜8節。パウロだけ声は聞こえたのですが、光の輝きのために目が見えなくなっていました。9,11節。これは、どういうことを示しているのでしょうか。
 イエス様と出会う前のパウロは、自分の肉のプライドと熱心で生きていた人です。そういう人は、肉の目は見えても、霊的な目が見えない人と言うことです。ヨハネ9:41。しばらく目が見えなくなったのは、自分の肉のプライドと誤った熱心で歩む人が、しばらく苦しんだ後に霊的な目が開かれ、以前とは違う世界を見させるためなのです。
 目が見えない中で、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声が聞こえました。7節。目が見えなくなって、謙遜に声を聞くことができるようになりました。パウロが「どなたですか」聞くと、「あなたが迫害しているイエスである」と答えられたのです。8節。パウロが迫害していたのは、クリスチャン、イエス様を信じる聖徒たちです。人が罪を犯すということは、イエス様を十字架につけたということになります。イエス様がその罪を負って十字架にかかられたのです。パウロは、この時はじめて、自分の罪がイエス様を十字架につけたのだと分かったのです。
 そこで、パウロは何と言いましたか。10節。イエス様に出会い、自分の罪を知って、悔い改めた者は、「主よ。私はどうしたらよいのでしょうか」と問うようになります。使徒2:36〜37。これまでのパウロは、自分の考えが中心でした。自分が主であり、自分の熱心で生きていました。しかし、この瞬間パウロは、人生の主が自分からイエス様に変わりました。これからは、イエス様の導きに従うということの表明です。
 イエス様は、闇の中に輝く光です。人々のたましいを照らす救いの光です。ヨハネ1:4〜5,9。人には罪を照らし、癒す光が必要です。光であるイエス様の前に来てください。重要なのは、人格的にイエス様と会うことです。自分が自分を正しいとする自分の義ではなく、イエス様の十字架のゆえに罪赦されたという信仰による義で生きるようになるのです。ピリピ3:9。
 肉の熱心で自分の存在を認めようとするのではなく、イエス様との出会いを通して自分の存在価値を感じるようになります。神様が自分を通して働かれることを知るようになります。ですから、「主よ。私はどうしたらよいのでしょうか」と尋ねなければなりません。
 パウロは、主に言われたようにダマスコに行くと、アナニヤを通して、目が見えるようにされ、神のご計画を教えられ、洗礼を受けるようになりました。12〜16節。

V−使命を与えられて−15,17〜21
 神様は、パウロをイエス様に出会わせ、救い主イエス様を知らせる証人とされたというのです。14〜15節。その後エルサレムへ行った時に、改めて証し人としての働きを具体的に教えられました。異邦人への宣教師の使命を与えられました。救い主イエス様を証しする証し人の召命は、すべてのクリスチャンに与えられています。人生を通して、働きや生活を通して、イエス様の福音を証しして行くのです。そして、パウロが異邦人宣教師の使命を与えられたように、救われた私たちも、それぞれ世での働きに召されています。クリスチャンとして学校や職場、家庭や地域に遣われています。主が、そこで私たち一人一人を用いようとされています。
 イエス様を信じて救われたクリスチャンであるならば、「あなたは、この地でこう生きなさい」という召しを聞いていますか。今、その召しに従って生きていますか。聞いたけれども、他のことをして生きていませんか。救われた恵みを感謝するだけでなく、与えられた使命に生きる人生となることを願います。パウロは、この時洗礼を受けました。16節。洗礼は、新しい人生を神からの使命に生きるために重要な儀式です。
 主に出会う前、パウロの人生の中心は、私、自分でした。自分の熱心で人を捕らえ、迫害しました。自分は正しいとする自分の義で行い、自分で計画しました。しかし、今14〜15節の主語は神様です。神様がパウロを選ばれ、神様がみこころを知らせ、神様がイエス様に出会わせ、神様が御言葉を聞かせ、神様がパウロを救い主を証しする証人とされました。
 私たちも同じです。イエス様に出会うまでは、自分中心の生き方であり、自分の感情と考えで行動し、自分の肉の熱心でことを行い、自分の勝手な計画を立てて進んで来ました。ですから、迷いや葛藤が生じ、妬みや争いが起こり、人間関係が崩れます。ところが、救い主イエス様に出会ってからは、天地万物の造り主である神の前に生きる者とされ、神に新しい命と賜物を与えられて、神に用いられる者となり、神に生かされ、神の栄光を表す者とされ、神に天国に迎えられる者となります。どんなに大きな変化であり、素晴らしい恵みでしょうか。
 個性や人間性を重視する現代は、このような表現を嫌います。何の拘束も受けず、自分勝手がよいように考えるでしょう。しかし、真の幸いは、自分が何者であるかを知り、自分が何をすればよいかを知り、それを行うことにあります。自分がしなければならないことを知る時、幸せです。それが自分らしいからです。救い主イエス様に出会ってください。イエス様に会う時、人生の問題が解決されます。見えなかったものが見えて来ます。肉の熱心で生きている自分、自分の義で行動している自分、自分中心で歩んでいる自分を知ったならば、「主よ。私はどうしたらよいのでしょうか」と尋ねてみましょう。イエス様との出会いが人生を変えます。Uコリント5:17。



使徒22:1 「兄弟ならびに父である皆さん。今から申し上げる私の弁明を聞いてください。」
22:2 パウロがヘブル語で語りかけるのを聞いて、人々はますます静かになった。そこでパウロは言った。
22:3 「私はキリキアのタルソで生まれたユダヤ人ですが、この町で育てられ、ガマリエルのもとで私たちの先祖の律法について厳しく教育を受け、今日の皆さんと同じように、神に対して熱心な者でした。
22:4 そしてこの道を迫害し、男でも女でも縛って牢に入れ、死にまでも至らせました。
22:5 このことは、大祭司も、長老会全体も私のために証言してくれます。この人たちから兄弟たちへ宛てた手紙まで受け取って、ダマスコへ向かいました。そこにいる者たちも縛り上げ、エルサレムに引いて来て処罰するためでした。
22:6 私が道を進んで、真昼ごろダマスコの近くまで来たとき、突然、天からまばゆい光が私の回りを照らしました。
22:7 私は地に倒れ、私に語りかける声を聞きました。『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。』
22:8 私が答えて、『主よ。あなたはどなたですか』と言うと、その方は私に言われました。『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである。』
22:9 一緒にいた人たちは、その光は見たのですが、私に語っている方の声は聞き分けられませんでした。
22:10 私が、『主よ。私はどうしたらよいのでしょうか』と尋ねると、主は私に言われました。『起き上がって、ダマスコに行きなさい。あなたが行うように定められているすべてのことはが、そこであなたに告げられる』と。
22:11 私はその光の輝きのために目が何も見えなかっていたので、一緒にいた人たちに手を引いてもらって、ダマスコに入りました。
22:12 すると、律法に従う敬虔な人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人に評判の良いアナニアという人が、
22:13 私のところに来て、そばに立ち、『兄弟サウロ。再び見えるようになりなさい』と言いました。すると、そのとき、私はその人が見えるようになりました。
22:14 彼はこう言いました。『私たちの父祖たちの神は、あなたをお選びになりになりました。あなたがみこころを知り、義なる方を見、その方の口から御声を聞くようになるためです。
22:15 あなたはその方のために、すべての人に対して、見聞きしたこと証しする証人となるのです。
22:16 さあ、何をためらっているのですか。立ちなさい。その方の名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。』
22:17 それから私がエルサレムに帰り、宮で祈っていたとき、夢心地になりました。
22:18 そして、主を見たのです。主は私にこう語られました。『早く、急いでエルサレムを離れなさい。わたしについてあなたがする証しを、人々は受け入れないから。』
22:19 そこで私は答えました。『主よ。この私が会堂ごとに、あなたの信じる者たちを牢に入れたり、むち打ったりしていたことを、彼らは知っています。
22:20 また、あなたの証人ステパノの血が流されたとき、私自身もその場にいて、それに賛成し、彼を殺した者たちの上着の着物の番をしていたのです。』
22:21 すると主は私に、『行きなさい。わたしはあなたを遠く異邦人に遣わす』と言われました。」


ピリピ3:5 私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、
3:6 その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。

ガラテヤ1:13 ユダヤ教のうちにあった、かつての私の生き方を、あなたがたはすでに聞いています。私は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。
1:14 また私は、自分と同胞で同じ世代の多くの人に比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした。

ローマ10:2 私は、彼らが神に対して熱心であることを証ししますが、その熱心は知識に基づくものではありません。

Uコリント5:17 ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

ピリピ3:9 キリストの中にある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。



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