2022年2月27日「救われた者の生き方」使徒22:22〜30

序−前回パウロの救われた証しを学びました。今日のところは、救われたクリスチャンが避けるべきことや意識するべき生き方を示してくれています。パウロと彼を取り巻く人々の姿から、私たちへの適用を学びます。

T−御言葉より自分の思いを優先した人々−22〜23
 パウロの証しを聞いていたユダヤ人群衆は、突然大声を張り上げて「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしておくべきではない」とわめきたて、着物を放り投げ、ちりを空中にまき散らして騒ぎ始めました。22〜23節。それまで静粛になってパウロの証しを聞いていたのに、どうして急に狂ったように騒ぎ始めたのでしょう。使徒22:1。
 急に騒ぎ始めた理由、すぐ前の21節で「行きなさい。わたしはあなたを遠く異邦人に遣わす」を聞いたからです。神が異邦人を愛して、救おうとされ、パウロを遣わすということです。これに反応したのです。ユダヤ人は、自分たちだけが神に選ばれ、神に愛された民であると自負し、異邦人を犬のように思っていたからです。ローマ帝国に支配されて来たので、屈折して思いがよけいにそのようなことを強めていたのでしょう。
 もちろん、聖書はそんなことを教えてはいません。ユダヤ人にとって民族の父と呼ばれるアブラハムに関して、「地のすべての国民は彼によって祝福される」とあります。創世記18:18。ユダヤ人、かつてのイスラエル人が選ばれたというのは、諸国の民の代表としての役割であり、彼らの忠実さを通して諸国が祝福を受け、彼らが罪によって罰せられるのを諸国の民が見て、神を恐れるようになりました。それなのに、ユダヤ人は、神は自分たちだけの神であると誤解していたのです。
 この間違いは、私たちへの適用として学ぶことができます。実は、私たちも彼らとおなじ間違いをしがちなのです。自分の考えで行動しているのに、それがあたかも御言葉で教えているかのようにしていることがあるからです。それで、自分が持っている観点や考え方と違う人とぶつかることになります。かえって、信仰に生きる人は、そういう場面ではよく忍耐し、乗り越えるようになるのですが、そうならないのです。
 今ユダヤ人の群衆は、パウロの口から自分たちが気に入らない言葉が出て来るとたちまち騒ぎ出しました。聖書から出たことなのに、無視するのです。いくら御言葉が語られても、自分の考えと違うことであるなら、それを無視して、心を閉じるのです。それを受け入れて、自分の考えを変えるということをしないのです。
 私たちにも、この危険があります。御言葉を聞いても、自分に気に入らないことがあれば、自分が御言葉に従うのではなく、御言葉を斥けてしまうことがないでしょうか。健全な教えに耳を貸そうとせず、自分に都合の良いことだけを聞こうとすることはないでしょうか。テモテ4:3。
 ユダヤ人には、先祖から伝えられて来た枠みたいなものがあります。そういう枠に当てはまるなら受け入れ、そうでなければ拒み、反発するのです。クリスチャンになったユダヤ人の中にも、そういう枠に異邦人をはめようとすることがありました。使徒15:1。
 私たちの中にも、育って来た環境や習慣によって培われて来た、好みや気質という枠があります。そういう枠が福音の進展にとって障害となることがあります。その枠から外れた人や物事を見るとかっとして、怒りだすのです。パウロの証しにあったように、イエス様に出会ってそのような枠があることに目覚めて、解放されました。それは「律法に対する熱心」でした。パウロは、目が見えないという障害の中で、その間違った枠を取り外し、主の御言葉に聞き従うという新たな人生を踏み出したのです。

U−与えられたものを用いて生きる−24〜26
 ローマ人である千人隊長は、ヘブル語は分かりませんから、急に群衆が騒ぎ出したのを見て、パウロを兵営の中に入れて、何が起こったのか尋問しようとしました。24節。パウロの話を聞いて群衆が怒り、騒いだので、パウロに問題があるかのように思い、鞭打って尋問するように百人隊長に命じました。残忍な拷問が行われることになります。緊迫した場面です。パウロはどうなるのでしょうか。
 しかし、この危機を覆す妙手が現れました。百人隊長がパウロを縛って鞭打とうとしたその時、パウロは、「ローマ市民である者を、裁判にもかけずに、鞭打ってよいのですか」と言いました。当時は取調べをする時、拷問も加えました。拷問することで罪状を自白させるようにしたのです。ただし、ローマ市民権を持っている人については、裁判もなしに拷問を加えてはならないとローマ法で規定されていました。
 鞭打ちをしようとした百人隊長は、その手を止めて、千人隊長に報告しました。26節。こうして、鞭打ちは回避され、パウロは守られました。劇的な転換となりました。私たちの人生を振り返っても、劇的に守られ、助けられたことがあります。私たちには、神様の御手があるからです。
 ここで、多くの人は、ああパウロは鞭打ちを恐れてとっさに逃げ道を考えついたのだと思うでしょう。でも、これまで暴動が起こった時、ローマ市民権を振りかざして難を逃れていたでしょうか。いいえ、そうではありません。ピリピでは、市民権については何も言わず、何度も鞭打たれて、地下牢に入れられました。使徒16:22〜24。看守の救いにつながります。
 当時の鞭は、革の紐に骨片や金属片が入れてあり、ひどい場合には死に至るほどのものでした。パウロは、ここで死ぬわけには行きません。ローマまで行かなければなりません。それで、市民権を主張したのです。これも、聖霊の導きで思いついたことなのでしょう。福音のためにしたことです。とは言え、「裁判にもかけずに、鞭打って良いのですか」と言うのは、パウロが言わなければならないことです。自然に助けられることではありません。パウロがするべきことをしたからです。
 私たちは、ここでも私たちへの適用を知ることができます。私たちは、危機の時どうするでしょうか。何もしないで、ただ祈るだけという人もいるでしょう。ある人は、祈ることもせず、あれこれを頼り走り回るでしょう。走り回り騒ぎ立てるだけの人は信仰がない人であり、祈りだけでいいとする人も信仰を誤解しているかもしれません。信仰とは、私たちのすべてを握っておられる全能の神に頼って祈り、その中で示されたことに全力を尽くすというものです。
 パウロは神様から与えられている賜物や知恵を用いて、苦難を乗り越えました。私たちは、不足を嘆きがちですが、神様がすでに与えてくださった恵みに目を留めて用いたいと思います。Tペテロ4:10。用いることで、神様が働いてくださいます。

V−世の人々をも用いてくださる神様−27〜30
 百人隊長から、その報告を聞いた千人隊長は、ローマ市民権について、パウロに質問して来ました。なぜでしょう。27〜28節。もうすでに、ローマ市民権の効力が発揮されています。千人隊長は、自分のところにパウロを連れて来るようには言わず、自分の方からパウロの所に出向いています。その質問も尋問ではありません。丁寧です。なぜなら、千人隊長もローマ市民権を持っていたのですが、たくさんの金を出して、この市民権を買っていたからです。
 当時属州出身の人がローマ市民権を得るには、皇帝や高官に大金か何かを捧げて手に入れるか、ローマ帝国に対して特別の貢献をして与えられるかでした。ローマ兵の場合、25年ほど勤続して除隊すれば与えられました。この千人隊長は、大金をもって市民権を手に入れ、出世していたようです。そういう苦労があったからこそ、パウロに質問したのです。そんな自分の話をするほど、パウロに親近感を感じ、好感を持つようになりました。
 一方、パウロは生まれながら市民権をもっていました。おそらく有力な家であり、何か町に貢献して得たのかもしれません。格が違うというところです。千人隊長も、兵士たちも恐れて、鎖を解いてやりました。29〜30節。なぜならば、ローマ法によって、裁判もしないでローマ市民権を持つものに拷問を加えたら、罰を受けるからです。
 そして何と、千人隊長は、パウロの鎖を解いてやっただけでなく、祭司長たちと全議会の召集を命じ、パウロを連れて行って、彼らの前に立たせたというのです。30節。神様の導きが、ここにありました。エルサレムの一般ユダヤ人の前で話すだけでなく、エルサレムの国会、サンヘドリン会議に出て、ユダヤ人権力者たちの前で福音を語ることができるようにしてくれました。何ということでしょう。
 危機を乗り越えさせるために、神様が、この千人隊長を用いました。さらには、エルサレムのユダヤ人権力者たちの前に立てるように、この千人隊長を用いられたのです。ローマ市民権の力もありますが、これまでのパウロの対応とその姿勢が千人隊長に好感を与え、法の規定以上に扱ってくれたということです。
 ですから、私たちは、世にある制度を尊重し、為政者や役人たちを敬い、人々に誠実に対しなさいと勧められています。Tペテロ 2:12〜15。これは、大切なことです。今日教えられたように、神様が用いてくださるからです。自分の思いよりも御言葉を優先し、与えられたものをよく用いて、信仰者として誠実を尽くす聖徒たちとなることを願います。Tペテロ 2:12。



使徒22:22 人々は、彼の話をここまで聞いていたが、このとき声を張り上げて、「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしておくべきではない」と言った。
22:23 そして、人々がわめき立て、着物を放り投げ、ちりを空中にまき散らすので、
22:24 千人隊長はパウロを兵営の中に引き入れるように命じ、人々がなぜこのようにパウロに向かって叫ぶのかを知ろうとして、彼をむち打って取り調べるようにと言った。
22:25 彼らがむちを当てるためにパウロを縛ったとき、パウロはそばに立っている百人隊長に言った。「ローマ市民である者を、裁判にもかけずに、むち打ってよいのですか。」
22:26 これを聞いた百人隊長は、千人隊長のところに行って報告し、「どうなさいますか。あの人はローマ人です」と言った。
22:27 千人隊長はパウロのところに来て、「あなたはローマ市民なのか、私に言ってくれ」と言った。パウロは「そうです」と言った。
22:28 すると、千人隊長は、「私はたくさんの金を出して、この市民権を買ったのだ」と言った。そこでパウロは、「私は生まれながらの市民です」と言った。
22:29 このため、パウロを取り調べようとしていた者たちは、すぐにパウロから身を引いた。また千人隊長も、パウロがローマ市民だとわかると、彼を鎖につないでいたので、恐れた。
22:30 その翌日、千人隊長は、パウロがなぜユダヤ人に告訴されたのかを確かめたいと思って、パウロの鎖を解いてやり、祭司長たちと全議会の召集を命じ、パウロを連れて行って、彼らの前に立たせた。


使徒22:21 すると主は私に、『行きなさい。わたしはあなたを遠く異邦人に遣わす』と言われました。」

Uテモテ4:3 というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、
4:4 真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。

Tペテロ4:10 それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。

Tペテロ 2:12 異邦人の中にあって立派にふるまいなさい。そうすれば、彼らがあなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派な行いを目にして、神の訪れる日に神をあがめるようになります。
2:13 人が立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、
2:14 あるいは、悪を行う者を罰して善を行う者をほめるために、王から遣わされた総督であっても、従いなさい。
2:15 善を行って、愚かな者たちの無知の発言を封じることは、神のみこころだからです。






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