2022年4月3日「神と人の前に良心を保ち」使徒24:10〜21

序−「人は苦境に立たされている時こそ真価が問われる」と言われます。ある人は、苦境に立たされて、自暴自棄になるでしょう。苛立って乱暴な発言や行動に出ようとします。また、苦境に立たされたときこそ、心を引き締めて物事に当たる人もいます。苦境の時イエス様と共に問題を解決するのが、イエス様を知らない人々との違いだと言われます。パウロの裁判の場での姿を通して学びます。

T−パウロの弁明−10〜13
 フェリクス総督の法廷において、ユダヤの権力者に雇われた弁護士が、レトリックを駆使してパウロを偽りと悪口で告訴しました。使徒24:1〜9。群衆も「その通りだ」と叫びました。そのような中で一人パウロは、偽りの告訴に対して弁明します。10節。尊大な総督は、弁明するように言葉で言わずに、頷くか手を振って弁明を促しました。私たちは、責められ、悪口や誹謗中傷を受ける時、どう反応するでしょうか。
 パウロは、落ち着いて総督について「長年、この民の裁判をつかさどってこられたことを存じております」と言っています。テルティロ弁護士のようなへつらいの偽りではありません。事実です。正しい裁判をするように願ったことなのでしょう。テルティロのレトリックは、さもパウロがエルサレムで騒動を起こしていたかのようにしていましたが、パウロは、この点について、きっぱりと否定しています。11〜13節。
 エルサレムに来てから12日と言っていますが、7日目以降からは捕まっていますから、それまでの7日間でどのように騒動や反乱を画策できるでしょうか。私が誰かと論争したり、群衆を扇動したりするのを見た者はいない、「お調べになればわかること」ですと言いました。理路整然とした弁明です。テルティロのような偽りもなく、誹謗中傷もありません。
 ここが大事なところです。パウロに対して嘘偽り、誹謗中傷を言うテルティロ弁護士に対して、そう言わせているエルサレムの権力者に対して、批判や怒りをぶつけたり、ののしり返したりしていません。Tペテロ2:22〜23。イエス様の姿が模範を示しているからです。神の御前における良心のゆえに耐えるなら、神が喜ばれることだからです。Tペテロ2:19。
 私たちは、責められたり、悪口を言われたりする時、感情的になり、通常ならば言わないことを言い、言うべきでないことまで発してしまうでしょうか。心傷付いて、落ち込んでしまうでしょうか。落ち着いて反論しようとしてもできないと言うでしょうか。イエス様は、自信のない弟子たちに対して、「何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配しなくてもよいのです。言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです」と教えてくださいました。ルカ12:11〜12。
 とは言っても、何の備えは必要でないということではありません。Tペテロ3:15〜16。心にイエス様のことを覚えて、信仰で弁明できる用意をしておくのです。そして、信仰をもって、健全な良心をもって弁明するのです。そうしたら、悪く言ったことを恥じることにもなるでしょうと教えています。信仰は信じて救われたで終わりではありません。こうして、人生の問題や活動において、イエス様とともに生きること、御言葉によって生きることが信仰です。私たちは、どうしているでしょうか。
 特に、問題が起こった時、苦境に立たされた時、私たちの真価が問われます。どのような信仰で生きているのかが明らかになるからです。そのような時、イエス様と共に生きているのか、神様を信頼しているのか、御言葉を食べて生きているのかが現れるのです。

U−聖化の道を−14〜16
 そういうパウロの信仰の姿が、この裁判の弁明の時にも現れています。14〜15節。さりげなく、私は彼らが分派と呼んでいるこの道に従っていることを認めますと言いながら、福音を証ししています。パウロがしていることと言えば、十字架につけられたイエス様を救い主と信じる道に従って来たことです。
 パウロの証ししている信仰は、「正しい者も正しくない者も復活する」ということです。これは、イエス様が言われたいたことです。ヨハネ5:28〜29。私たちは、17日には、イースター主の復活の記念日を迎えます。パウロの復活の信仰は、人は死んで終わりではないということです。イエス様の十字架が私たちの罪の身代わりだと信じる者は、罪赦され、裁きに会うことがなく、永遠の命を持っています。ヨハネ5:24。
 永遠の命、天国への命だって、そんなこと分からないでしょう、ありやしないという人もいます。でも、他の生き物に生まれ変わるということも、死んで終わり何もないというのも確かなのでしょうか。それらも証明できません。クリスチャンは、聖書を信じています。救い主であるイエス様が復活されたので、死んだ後のことについてイエス様に信頼できるのです。そして、信仰も私たちの決心や知恵によるのでなく、信じるようにさせてくださる神の恵みだと教えています。エペソ2:5.8。パウロの福音の核心は、救い主イエス様が死者の中からよみがえられたという復活でした。21節。
 私たちも、神の恵みによって救われた者です。ですから、救われた後、どう生きるかということが大事です。イエス様の十字架を信じて救われた者は、新しくされ、造り変えられ、イエス様に似た者とされて行くのです。コロサイ3:10,Tヨハネ3:2。いわゆる聖化ということです。天国に召されるまで新しくされ続け、霊的に造り変えられて行く過程を歩んでいるのです。地上の生涯を終えると、やがて新しいからだでもってよみがえり、天国で主とともに生きるようになるのです。どんなに素晴らしいことでしょうか。
 救われている今どう生きるかということが、大切なのです。正しい者も正しくない者も復活します。しかし、どのように生きたかに応じて報いを受けるというのですから、どう生きるかが大切なのです。Uコリント5:10。それは、ただ正しく生きるとか善をなすということではありません。イエス様を救い主と信じて、イエス様に従って生きるという信仰生活が必要だということです。これは、私たちの願いでもあります。
 パウロは、こう証ししています。16節。復活の信仰を抱いているために、「いつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしています」と言うのです。私たちも、主の日には礼拝をささげ、日々御言葉に従って働き、生活し、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように最善を尽くすのです。そういう生き方が、いざという時、問題が起こった時、苦境に立たされた時に現れるのです。

V−良心をもって生きる−17〜21
 その生き方をして来たパウロは、自分がどうしてエルサレムに来たかということを弁明しています。17〜18節。それは、ききんで苦しんでいた同胞を助けるために、ギリシアの諸教会から集められた献金をもって来たというのが、目的でした。騒動や反乱を引き起こすどころか、大変良いことのために来たのです。その献金を携えて同行したギリシア人の一人がトロフィモでした。使徒20:4。この人と町を歩いていたのを見たユダヤ人が、神殿に異邦人を連れ込んだと誤解し、騒いでいたのです。
 いや、誤解ではなく、言いがかりであり、嘘の証言です。本当に訴えるなら、ここに来て証言しているはずだと言います。19〜20節。だから、彼らの言うことは偽りだ、訴えは根拠のないことだと弁明しました。こうして、告訴に対する堂々とした、淡々としたパウロの口頭弁論は終わりました。ですから、無罪放免されるべきであり、裁判を続けるべきではありませんが、釈放されず、裁判は続きます。
 しかし、パウロは、絶望しませんでした。神様を信頼し続けました。神様がどうされるのか、黙想し、祈ったことでしょう。問題が起こった時、苦境に立たされた時こそ、パウロにとって神様と交わる時となりました。イエス様とともに取り組む時となりました。神の前にも人の前にも良心を保つように努めていたパウロの生き方、信仰生活だったから、このような場面においても、その姿が現れたのです。
 私たちも、どうしてこんな状況になったのかと嘆く時があります。行き詰まって、絶望することがあります。そのような時、私たちの信仰が明らかになります。困難に陥ると、聖徒たちの口から、イエス様を信じても役に立たない、祈ってもむだだ、神様は私を見捨てたなどと言う言葉が出て来ることがあります。それほどに、心は重く、辛く、痛いのでしょう。
 でも、そのような言葉を聞かれる神様のお心は、どんなに痛いことでしょう。ご自分の民が苦しんでいる、ご自分の聖徒に信頼されていないという二重の悲しみを覚えられるでしょう。ですから、神様に対して絶望や不信、悲しみや文句をぶつけるのでなく、主に期待して信頼してみましょう。「どうしてこんな状況にしているのか」ではなく、「これからどうされようとしているのですか」と聞いてみましょう。信仰の目で見ると、見えて来るものがあります。主の十字架の犠牲によって救われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。ヘブル10:22。



使徒24:10 そのとき、総督がパウロに話すようにと合図したので、パウロは次のように答えた。「閣下が長年、この民の裁判をつかさどってこられたことを存じておりますので、喜んで私自身のことを弁明いたします。
24:11 お調べになればわかることですが、私が礼拝のためにエルサレムに上ってから、まだ十二日しかたっておりません。
24:12 そして、宮でも会堂でも町の中でも、私がだれかと論争したり、群衆を扇動したりするのを見た者はいません。
24:13 いま私を訴えていることについて、彼らは閣下に証明できないはずです。
24:14 ただ、私は閣下の前で、次のように認めます。私は彼らが分派と呼んでいるこの道にしたがって、私たちの先祖の神に仕えています。私は、律法にかなうことと、預言者たちの書に書かれていることとを、すべて信じています。
24:15 また私は、正しい者も正しくない者も復活するという、この人たち自身も抱いている望みを、神に対して抱いております。
24:16 そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしています。
24:17 さて私は、同胞に対して施しをするために、またささげ物をするために、何年ぶりかで帰って来ました。
24:18 そのささげ物をし、私は清めを済ませて宮の中にいるのを見られたのですが、別に群衆もおらず、騒ぎもありませんでした。ただアジヤから来たユダヤ人が数人いました。
24:19 もしその人たちに、私について何か非難したいことがあるなら、彼らが閣下の前に来て訴えるべきだったのです。
24:20 そうでなければ、ここにいる人たちが、最高法院の前に立っていたときの私に、どんな不正を見つけたのかを言うべきです。
24:21 私は彼らの中に立って、ただ一言、『死者の復活のことで、私はきょうあなたがたの前でさばかれている』と叫んだにすぎません。」

Tペテロ2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の欺きもなかった。
2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。

Tペテロ2:19 もし誰かが不当な苦しみを受けながら、神の御前における良心のゆえに悲しみに耐えるなら、それは神に喜ばれることです。

ルカ12:11 また、人々があなたがたを、会堂や役人や権力者たちのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配しなくてもよいのです。
12:12 言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。

Tペテロ3:15 むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。
3:16 ただし、柔和な心で、恐れつつ、健全な良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの善良な生き方をののしっている人たちが、あなたがたを悪く言ったことを恥じるでしょう。

ヨハネ5:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

コロサイ3:10 新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。

ヘブル10:22 そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。

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