2022年4月24日「今日もし御声を聞くなら」使徒24:22〜27

序−ギリシャ神話に登場するカイロスの像や絵を見ると、とても奇妙な姿です。前髪は長髪でふさふさで、後ろ髪はありません。つるつるです。両足のかかとには羽がはえていて、手にははかりと剣を持っています。ギリシャ語のカイロスの意味は機会です。長い前髪はそれを知った人が捕まえられるが、うしろ髪がないので過ぎた後は捕まえられないということです。今日の箇所を通して、このカイロス、機会について学びます。

T−釈放されないが、保護されて−22〜23,26〜27
 フェリクス総督のもとで裁判が始まりましたが、直ぐに延期されました。22節。フェリクス総督は、この道についてかなり詳しく知っていたと言います。総督ですから、そういう情報を知っていたでしょう、妻がユダヤ人だからよく知っていたものと思われます。そうであるならば、ユダヤ人権力者側の弁護士の訴えを聞き、パウロの弁論を聞いたならば、すぐにパウロの無罪が分かり、釈放しなければならないところです。
 しかし、千人隊長リシヤが下って来たら裁判を再開すると言い訳を言って、延期しました。人がこういう状況にあったら、どれほど悔しくて、心が落ち込んでしまうことでしょうか。なぜ裁判を続けないのだ、無罪は明らかなのに、いつまで監禁しているのか、と嘆くでしょう。私たちも、自分が考えたようにことが進まないと、失望したり、嘆いたりするでしょう。
 でも、それは近視眼なのです。神の御手にあることを忘れています。この時も、監禁されたものの、ある程度の自由が与えられ、仲間の者がパウロの世話をすることを許されています。23節。このカイザリヤには、以前登場したピリポ伝道者たちがいます。旧知の友人たちの世話を受けることができます。これは、監禁でなく、保護されているということなります。
 そうです。保護されているのです。もし、判決がすぐに下され、パウロが釈放されたとしたら、あの暗殺団、パウロを殺すまでは飲み食いしないと誓った者たちにたちまち暗殺されてしまうでしょう。一度こけにされたのですから、虎視眈々と暗殺の機会を狙っていたはずです。ですから、むしろ総督官邸に軟禁されていた方が安全なのです。総督によって保護されていたということになります。これが、神様のなさることです。
 私たちも、目前の厳しい状況だけを見て、失意に陥ったり、恨んだりするのでしょうか。願う通りにならない、希望が妨げられたと文句を言うでしょうか。しかし、そのことをもっと俯瞰的に捉えるならば、また見えて来ることが違って来ます。神の御手を覚えるならば、そこにも守りや導きがあることを知るようになります。
 それにしても、フェリクス総督は、なぜ裁判を延期したのでしょうか。その理由が、まさにこの人物がどういう人であるかを物語っています。26〜27節。総督は、パウロからお金をもらう下心があったからであり、ユダヤ人の機嫌を取ろうとするためでした。パウロがギリシャの諸教会からの義捐金を持って来た人々と一緒にいたので、そのように思ったのでしょう。またエルサレムの権力者からは、多くの賄賂を得ていたので、彼らの機嫌をそこねることを避けようとしたのです。だから、延期するしかなかったのです。
 フェリスクという人は、徹底して政治的に働く人であり、自分の利得のために動く人でした。いつまでもパウロから賄賂が得られないので、結局2年間監禁したままにすることになります。本当に酷い人です。

U−「折を見て、また」…機会を逸する−24〜25
 そんなフェリクス総督ですが、裁判は延期したものの、個人的にパウロに会いに来ます。24節。数日後、フェリクスはユダヤ人である妻ドルシラとともにやって来て、パウロからキリスト・イエスに対する信仰について話を聞いたというのです。すごいことです。きっと、ユダヤ人である妻の要望があったからでしょう。個人的に話を聞いて、賄賂をもらおうと思っていたのでしょうか。
 二人がパウロから信仰の話を聞きました。パウロは、キリスト・イエスに対する信仰を正義と節制と来たるべきさばきにまとめています。25節。正義とは、神の義です。救い主イエス様を信じて、罪赦されることです。節制とは、悔い改めて神の前に生きる姿、聖化の道です。そして、イエス様を信じた者は、来たるべき神のさばきを受けることなく、天の御国に行くことができるということです。フェリクスが福音を聞いたのです。何と素晴らしいことでしょうか。権力と利得のために生きて来たフェリクスですが、今パウロに出会って、イエス様による救いを聞いたのです。これが、どんなに大きな恵みでしょうか。
 さあ、彼の反応はどうですか。悔い改めて、信じる決心をしたのでしょうか。正しい統治をする総督に変わったのでしょうか。25節。フェリクスは恐ろしくなり、「今は帰ってよい。折を見て、また呼び出すことにする」と言ったというのです。あまりにも酷い生き方をして来たので、恐れました。それならば、悔い改めて、赦しを得ればいいのに、その時はそんな生き方を改めたくなかったのです。金のための機会は捉えるのに、救いのために機会を捉えませんでした。
 反発したり、拒絶したのではありませんが、先延ばししたのです。「折を見て」の「折」の原語が、冒頭紹介したカイロスです。他の箇所では、機会と訳されていることが多いです。カラテヤ6:10,エペソ5:16,コロサイ4:5。機会があったら、また呼び出して、聞くことにするというのですが、今その時が絶好の機会ではないでしょうか。不義をなし、利得を求めて生きて彼は、正義と節制と来たるべきさばきの話に恐れを感じたのは、当然です。たましいは、反応したのですが、その後の決断ができませんでした。
 人は、決断をしなければならない時、先に延ばそうとします。これは、多くの人の傾向です。今ではない、明日にしよう。明日になればうまく行く。そんなふうに考えるのです。そんなささやきが私たちの心にも聞こえるでしょう。信仰の導きについて、それを否定したり拒んだりしなくても、従うことをしばしば遅らせます。何かしなければならないことも、もっと良い時も待とうと言い訳をし、先延ばししようとします。仕事でも些細なことでも、先延ばししてしまうのです。
 問題は、先延ばしするならば、機会を逸してしまうということです。それをすることができなくなるのです。事情が変わり、必要としなくなることです。そんな失敗を思い出すでしょう。たましいの問題、人生を左右する機会を逸したら、どれほど残念なことでしょうか。
 恐れを感じて、折を見て、また聞くことにすると言っても、時間が経てば、また利得のために生きるようになるでしょう。先延ばしして、どうなりましたか。何と、フェリクスは、悔い改めることなく2年が過ぎて、別の総督に交替してしまいます。27節。機会を失ってしまったのです。カイロス像の滑稽な姿が表していたように、機会はその時捉えなければ、捉えることができなくなるのです。

V−今日もし御声を聞くなら−ヘブル3:7〜8
 2年後騒動が起こった時に、法に従って公正に処理せず、利得のために軍隊を動員してユダヤ人を殺し、財産を取り上げました。怒ったユダヤ人は直接皇帝に訴え、結局皇帝によってローマに召喚され、解任されてしまいました。兄の政治力で流刑にならなかったものの、これで彼の政治生命は終わりました。退任の時、パウロを釈放して責任を果たすべきですが、それもしませんでした。利得のためにしか動かない人のです。この人は、最後まで無責任で強欲な為政者でした。
 この人の最後はどうなったのでしょう。賄賂で溜め込んだお金を持って、当時の別荘地であったポンペイに移り住みました。そこで、悠々自適のつもりだったのでしょうか。しかし、その後、そこで何が起こったのでしょうか。そうです。ベスビオス火山の噴火が起こり、火砕流がその町を飲み尽くしました。彼らは町とともに滅びてしまいました。
 パウロに会ったあの時、悔い改めてイエス様を信じていたら、正しい統治をし、人々に感謝され、神様に用いられる器となり、美しい人生を生きることができ、天国へ召されたことでしょう。聖書は、「すべての人が時と機会に出会う」と言っています。伝道者の書9:11。ですから、大事なことは、その機会を逃さない、その時を先延ばししないということです。
 フェリクスの人生が教えているように、霊的な人生を明日に延ばすことは、悲劇です。明日のことは分かりません。自分のものは今日だけです。明日は自分のものではありません。神が与えられる明日だけです。ヤコブ4:13〜15。フェリクスは、パウロに会って福音を聞きました。しかし、「折を見て、また」と先延ばししました。2年も先延ばしし、ついに人生を失ってしまいました。
 機会は、いつでも与えられるわけではありません。チャンスはその時、今日という日に与えられています。聖書は、「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない」と言っています。ヘブル3:7〜8,15。信仰の退歩に陥ったなら、主のもとに戻りましょう。私たちの信仰の決意を有効にさせるのは、実行することです。私たちは、主に与えた機会をしっかり捉えて、生きることを願います。 機会を捉えて行動し、主に用いられて、美しく意義ある人生を生きたいのです。ヘブル3:13〜15。


使徒24:22 しかしフェリクスは、この道についてかなり詳しく知っていたので、「千人隊長リシヤが下って来たら、お前たちの事件に判決を下すことにする」と言って、裁判を延期した。
24:23 そして百人隊長に、パウロを監禁するように、しかし、ある程度の自由を与え、仲間の者たちが彼の世話をするのをお妨げないように、と命じた。
24:24 数日後、フェリクスはユダヤ人である妻ドルシラとともにやって来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスに対する信仰について話を聞いた。
24:25 しかし、パウロが正義と節制と来たるべきさばきについて論じたので、フェリクスは恐ろしくなり、「今は帰ってよい。折を見て、また呼び出すことにする」と言った。
24:26 また同時に、フェリクスはパウロから金をもらいたい下心があったので、何度もパウロを呼び出して語り合った。
24:27 二年が過ぎ、ポルキウス・フェリクスが後任になった。しかし、フェリクスはユダヤ人たちの機嫌を取ろうとして、パウロを監禁したままにしておいた。



伝道の書9:11 私は再び、日の下を見た。競走は足の早い人のものではなく、戦いは勇士のものではない。パンは知恵ある人のものではなく、ま富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知識のある人のものではない。すべての人が時と機会に出会うからだ。

ヤコブ4:13 聞きなさい。「今日か明日、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をしてもうけよう」と言っている者たち、よく聞きなさい。
4:14 あなたがたには、明日のことは分かりません。あなたがたのいのちは、どのようなものでしょうか。あなたがたは、しばらくの間現れて、そこで消えてしまう霧です。
4:15 あなたがたはむしろ、「主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」と言うべきです。

ヘブル3:7 ですから、聖霊が言われるとおりです。「今日、もし御声を聞くなら、
3:8 あなたがたの心を頑なにしてはならない。荒野での試みの日に神に逆らったときのように、
3:13 「今日」と言われている間、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい。
3:14私たちは、キリストにあずかる者となるのです。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、です。
3:15 「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。神に逆らったときのように」と言われているとおりです。

戻る